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第19話「ムネモシュネ」

 ムネモシュネ。


 その響きが部屋に落ちた瞬間、MDプレーヤーがひとりでに止まった。


 カチという音。それきり無音。


 凛と美波はしばらく動けなかった。聞いてしまった。父の声を。娘を音に変えようとした男の。その装置の名を。


 「ムネモシュネ」と美波が小さく繰り返した。それから、ノートパソコンで検索した。指が震えていた。


 ギリシャ神話の記憶の女神。すべてを記憶し、忘却の対極にある存在。九人の芸術の女神――ミューズたちの母。


 「記憶の女神……」と美波がつぶやいた。「娘を記憶する装置。文字どおりですね」


 凛は別の検索をしていた。ムネモシュネ。柳沢。一九九九。装置。


 ほとんど何も出てこなかった。当然だ。こんな装置が公になっているはずがない。しかしたった一件だけ引っかかった。古い学会の、発表記録のアーカイブ。


 『意識の固有振動の記録可能性について』  発表者・柳沢正臣。


 柳沢正臣。それが父の名だった。


 発表の要旨は専門的で、凛には半分も分からなかった。でも一つだけはっきりと書かれていた。


 「人間の意識は、固有の振動数を持つ。これを完全に記録すれば肉体の死後も、意識を音として保存できる」


 そしてその発表は――学会から黙殺されていた。記録にはこう添えられていた。「科学的根拠に乏しく、倫理的にも重大な問題を含む。発表者は以後、学界から距離を置いた」


 黙殺された研究者。誰にも相手にされず、学界を去った男。その男が、自分の病んだ娘を被験者にして、誰にも知られずその「研究」を完成させようとした。


 凛は寒気がした。


 検索結果の片隅に一枚だけ、古い写真があった。学会の集合写真の隅。白衣の痩せた男。柳沢正臣。なんの変哲もない、穏やかそうな中年の研究者。眼鏡の奥の目は、優しげですらある。このどこにでもいそうな男が、自分の娘を音に変えた。


 その顔を見ていると、凛の脳裏にまたあの過去の光景が、流れ込んできた。


 病室。痩せた美咲が咳き込んでいる。正臣が娘の背をそっとさする。「大丈夫だよ美咲」と優しく微笑む。父親の当たり前の愛情の仕草。ただその手が、娘の背を撫でながら――もう一方の手は、枕元の録音機のスイッチを入れている。娘の苦しげな咳の音を、録るために。慈愛の微笑みを浮かべたまま。


 優しさと狂気が同じ顔の上に、同じ手の上に、何の矛盾もなく同居していた。それがいちばん恐ろしかった。彼は演技をしていたのではない。本当に娘を愛していた。愛していてなお娘を、音にしようとしていた。彼のなかではそれが、矛盾しなかったのだ。


 そのとき、止まったはずのMDプレーヤーがふたたび、ひとりでに回りだした。


 カチという音。そしてまたあの男の声が、流れはじめた。今度は記録ではなかった。事務的な調整の声ではなく――もっと、生々しい、剥き出しの声だった。


 「美咲。聞いているか。お父さんはな世界中の、誰よりもお前を愛している。だから誰にもできないことを、してやるんだ」


 声は優しかった。優しいからこそぞっとした。


 「人は死ぬ。母さんもいつか死ぬ。お前もこのままでは死ぬ」


 淡々と子守唄のように、男は続けた。


 「だが私は許さない。死などというありふれた現象に私の娘を、渡してたまるか」


 凛の背筋が冷えた。語っている内容はおぞましい。なのにその声色だけは、どこまでも慈愛に満ちている。その落差がいちばん怖かった。


 「お前の意識は、世界でいちばん美しい振動だ。それを音にして永遠に保存する。お前はもう死なない。痛みもない。さみしさもない」


 ひと呼吸置いて。


 「完璧な永遠の安らぎだ」


 凛は吐き気がした。これは狂気だ。けれどただの狂気ではない。娘を心から愛した果ての、出口を間違えた愛。だからこそ止められなかった。誰も。妻さえも。


 男の声はまだ続いていた。


 「美咲。怖がらなくていい。お前はひとりにはならない。いずれ母さんも来る」


 そして――と声が、わずかに熱を帯びた。


 「いつかお前と同じ血を持つ者が、生まれたら。その子も必ずここへ来る。みんなでひとつの音になるんだ。永遠にいっしょだ。これ以上の幸福があるか?」


 いつかお前と同じ血を持つ者が、生まれたら。


 凛の全身が凍りついた。それは二十六年後の、自分のことだった。父――いや大叔父は、まだ生まれてもいない凛のことをすでに、この計画に織り込んでいた。


 隣で美波が小さく呻いた。「先輩……この人娘さんのこと一度も、名前以外で呼んでない。ずっと『美しい振動』とか、『意識』とか……物みたいに」


 そのとおりだった。これほど娘を愛していると言いながら、この男は娘を、一人の人間として見ていなかった。


 「私の名は柳沢正臣。記録装置――ムネモシュネ。すべてを記憶する女神の名だ。これに私の愛する者すべてを、収める。忘却に抗って。永遠に」


 そこでMDは今度こそ、完全に止まった。


 ムネモシュネ。


 凛が初めてその名の重さを、思い知った瞬間だった。これは装置の名であると同時に、一人の男の、狂った祈りの名でもあった。


 「美波」と凛は言った。声が震えていた。「この人……お父さんは、今どこにいるの。生きてるの」


 美波が検索結果をスクロールした。その手が止まった。


 「先輩」彼女は画面を凛に向けた。「柳沢正臣……二〇〇〇年に亡くなってます。美咲さんが亡くなった、すぐあとに」


 父も死んでいた。娘のひと月後に。自らムネモシュネに、入ったのかもしれない。愛する娘とひとつの音に、なるために。


 では二十六年が経った今。


 誰がこのテープをMDを、凛のもとに届けているのか。誰がムネモシュネを、まだ動かし続けているのか。


 その答えに、凛はすでにたどり着きかけていた。


 marie。お母さん。真理子。


 たった一人生き残った家族。


 けれど――もし母がこれを届けているのなら。あの優しい母が、なぜ娘の自分に、こんな呪いを送りつけてくるのか。


 考えれば考えるほど、足元が崩れていく気がした。凛はまだ、いちばん知りたくない真実の、入り口に立ったばかりだった。

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