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第18話「最終調整」

 MDを再生する機械も、あの店にあった。


 老店主はもう何も訊かなかった。凛がドアを開けた瞬間、奥から古いMDプレーヤーを出してきて、カウンターに置いた。まるで用意して待っていたみたいに。代金を受け取りながら、店主はぼそりと言った。


 「あんた、もう後ろは見ないほうがいい」


 凛が意味を問う前に、店主は奥へ引っ込んだ。


 部屋に戻り、凛と美波はMDをプレーヤーに入れた。美波の機材をつなぐ。画面に波形を映せるように。何が聞こえるか分からない。せめて目で見えるように。


 再生ボタンを押した。


 最初に流れてきたのは――無音だった。


 ヒスノイズすらない。カセットのような、テープの砂の音もない。デジタルの、つるりとした完全な無。それが不気味だった。何もないという音。


 「MDはデジタル圧縮なんです」と美波が小声で言った。「人間に聞こえにくい音を削って、容量を稼ぐんです。だから無音は、ほんとうに何もない。……はずなんですけど」


 画面の波形は平らだった。何も拾っていない。


 なのに――凛の体が反応した。


 無音のはずなのに。耳には何も聞こえないのに。胸の奥がざわついた。皮膚が粟立った。あの誰かがいるという感覚。その無音の中に、確かに何かがいた。


 完全な無音はあらゆる物音よりも、恐ろしかった。何かが聞こえれば、その正体を突き止められる。だが何も聞こえないのに、確実に「いる」とき人はその何かを、自分の想像でいくらでも恐ろしく、描いてしまう。無音は恐怖の空白の器だった。


 ふいに店主の言葉が、よみがえった。もう後ろは見ないほうがいい。


 凛の首筋がぞわりとした。背後に何かが、立っている気がした。無音の底から、滲み出してきた何かが。振り返ればいる。それでも振り返ってはいけない。うなじのあたりに、誰かの吐息がかかっているような冷たい感触。凛は奥歯を噛みしめた。振り返るな。見るな。店主はこれを言っていたのだ。


 「美波」と凛は囁いた。「今なにか……いる」


 美波は答えなかった。彼女も感じていた。ヘッドホンを外し、画面を食い入るように見ている。


 平らだった波形のずっと下。本来なら圧縮で削られているはずの帯域。そこに――波があった。


 「おかしい」と美波が震える声で言った。「圧縮で消えるはずの音が、消えてない。それどころか……足されてる。誰かがわざとこの無音の下に、聞こえない音を埋め込んでる」


 無音が続いた。長い長い無音。美波の説明では、トラックとトラックのあいだの空白。しかしそれはあまりにも長すぎた。


 その無音の底で、凛の体はずっと震えていた。


 やがて無音が終わった。


 声が流れてきた。


 男の声だった。低く抑揚のない淡々とした声。母の優しさも、美咲のあどけなさもない。ただ事務的に、何かを読み上げる声。


 「記録ナンバー七。最終調整。被験者の意識周波数安定を確認」


 被験者。意識周波数。凛はその言葉にぞっとした。被験者というのは――まさか、美咲のことか。


 「対象は、極めて良好な共鳴特性を示している。これほど純粋な固有振動を持つ個体は、稀だ。病による肉体の衰弱が、かえって雑音を減らし、意識の振動を際立たせている」


 凛の指先が冷たくなった。


 病による衰弱がかえっていい。父は娘の病気を――喜んでいた。死に近づくことを。それが彼の「記録」を純粋にするから。


 「あと少しだ。あと少しで美咲は永遠になる。肉体は滅びても、意識の振動さえ記録できれば。音として保存できれば。娘は二度と死なない。二度と苦しまない。私が娘を時間から救い出す」


 男の声がそこまで言ったとき、凛の左手の小指が、勝手にぴくりと動いた。自分の意思ではなかった。声に呼応するように。あわてて手を握りこむと、今度は背骨を下から上へ、冷たいものが這い上がった。この声は、ただ聞こえているのではない。凛の体のどこかと、つながっている。


 美波がそっとヘッドホンを外した。血の気の失せた顔で囁いた。「先輩……この声、さっきから部屋の空気と、同じリズムで揺れてます」


 時間から救い出す。永遠にする。音として保存する。


 凛はようやく、B面の美咲の言葉の意味を理解した。音楽になる。疲れない体になる。それは、父が娘に与えようとした「救い」だったのだ。死から逃れるための。


 しかしそれは救いなのか。


 美咲は言っていた。たすけてと。永遠を与えられることから、彼女は逃れたがっていた。父の「救い」こそが、美咲にとっての恐怖だったのだ。


 男の声が、最後にその装置の名を口にした。


 「記録装置――ムネモシュネ。すべてを記憶する女神の名だ。これに美咲を収める」


 ムネモシュネ。


 凛が初めて、その名を聞いた瞬間だった。


 男の声が止んだあと部屋に残ったのは、ただの静けさではなかった。さっきまで聞こえていた声の「形」が空気の中に、まだ残っているようだった。凛は自分の左手の小指を見た。声に呼応して勝手に動いたあの指が、今も微かに震えている。


 美波がそっとヘッドホンを置いた。血の気のない顔で囁いた。「先輩……この声終わったのに。部屋の空気がまだ揺れてます」

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