第17話「ミニディスク」
二人は顔を見合わせた。それから凛がドアへ向かった。
郵便受けにまたあの薄い封筒が、差し込まれていた。宛名も差出人もない。しかし凛には分かった。これもmarieからだ。消えたはずのあの人から。
ドアを開けて外を見た。誰もいなかった。マンションの薄暗い廊下。非常灯の緑の光。足音も気配もない。まるで最初から誰も、来なかったように。しかし封筒だけが、確かにそこにあった。
凛は封筒を持って部屋に戻った。美波が緊張した顔で見ている。
封を切ろうとして、凛はふと、自分の手を見た。
また、だ。また、届いたものを受け取っている。VHSも、カセットも、このMDも。全部、向こうから来た。凛はただ、来たものを開けて、再生して、怯えているだけ。半年前、世界に流されるまま生きていたのと、同じだ。テープが来るのを待ち、怪異が進むのを待ち、美波が解析してくれるのを待っている。
待つだけの自分に、凛は急に、苛立ちを覚えた。
この苛立ちは、半年ぶりの感情だった。鈍麻していたあいだは、何も感じなかった。流されることに、疑問すら持たなかった。けれど今は違う。待っているだけでは、美咲も救えない。美波も守れない。自分の手で、向こうから来る前に、たどり着かなければ。
その小さな火を胸に灯したまま、凛は封を切った。
中から出てきたのは小さな四角い、プラスチックの板だった。
「……ミニディスク」と美波がつぶやいた。「MDだ。これも、めちゃくちゃ古いメディアですよ。二〇〇〇年代のはじめくらいの」
MDのラベルには、また手書きの文字。今度は、母の鉛筆でも赤い『呪い』でもなかった。
黒い几帳面な神経質な字で、こう書かれていた。
『記録 No.7 最終調整』
No.7。最終調整。
それは、母の言葉でも子どもの言葉でもなかった。もっと冷たい。もっと事務的な。何かを作業として、記録している誰かの。
凛は、その筆跡から目を離せなくなった。これはきっと――父の字だ。美咲の父。「音楽になる」と娘に囁いたあの父の。
No.7。記録に番号があるならその手前に、もっと若い番号があるはずだ。VHSカセットそしてこのMD。新しい順でも古い順でもない。届くたびに番号が終わりから始まりへと、巻き戻されている。誰かが柳沢正臣という男の二十六年を、終点から過去へと、一つずつ遡らせて凛に見せつけている。狂気がどこから始まったのかを。
それはただ過去を見せられているのでは、なかった。凛は気づいてぞっとした。これは巻き戻しだ。テープを巻き戻すように。再生を最初に戻すように。誰かが――あるいは、ムネモシュネそのものが、二十六年前の「始まり」へ向かってすべてを、巻き戻している。始まりに戻れば、もう一度再生できる。今度は凛を主役にして。メディアを遡るたびに、凛は二十六年前のあの防音室へ、一歩ずつ近づけられているのだ。
美波がMDを受け取った。手のひらの上でそれを見つめた。
「先輩」と彼女は言った。「これ再生したら……たぶん戻れなくなる気が、します」
凛も同じことを感じていた。
けれど二人とも分かっていた。もう止まれない。marieが言ったとおりに。
MDを再生する機械は、すぐには手に入らなかった。あの店の店主が「明日入る」と言ったので二人は、その夜を凛の部屋で明かすことにした。
美波がコンビニで、たくさんの食べ物を買ってきた。「徹夜には糖分です」とプリンやら、菓子パンやらを机に広げる。こんな状況なのに、彼女のまわりだけ少し明るかった。
プリンをふたつ並べて、二人で食べた。
「先輩って」と美波がスプーンをくわえたまま、言った。「友達少ないですよね」
「……失礼だね」凛は少し笑った。「少なくないよ」
「えー。ほんとですか?」美波はにやにやした。「だって今先輩の部屋に、夜中に来てるの私だけですよ。ほかにこんな変な相談、できる人いました?」
凛は答えに詰まった。図星だった。半年間誰ともこんなふうに、過ごしていない。
「ほら」美波は勝ち誇ったように笑った。「やっぱり。じゃあ今は私が、先輩のいちばんの友達ってことで」
「なんでそうなるの」
「いいじゃないですか。減るもんじゃないし」
くだらないやりとりだった。怪異も恐怖も関係のない。ただの夜更けの他愛ない会話。ただそのくだらなさが、凛にはありがたかった。半年ぶりに誰かと、こんなふうに笑い合っている。それだけで薄かった世界が、少しだけ色を取り戻すようだった。
後に凛はこの夜を何度も、思い返すことになる。何でもないこの、プリンふたつの夜を。いちばんの友達、と美波が言ったこの夜を。
「先輩これ聴いてみてください」と美波がイヤホンの片方を、差し出してきた。
凛が耳に入れると、音が流れてきた。雨の音だった。けれどただの雨ではない。遠くで雷が鳴り近くでは雨樋を伝う水が、不規則なリズムを刻みときどき、車が水たまりを撥ねていく。
「去年の梅雨に録ったやつです」美波は嬉しそうに言った。「私のいちばんのお気に入り。この日すごく嫌なことがあって。でも家に帰る途中の、この雨の音があんまり綺麗で。録りながらちょっと、泣いちゃって」
凛は黙ってその雨を聴いた。半年ぶりに世界の音が、まっすぐ胸に届いた。美波の嫌だった一日。その日の雨。それが今凛の耳のなかで、よみがえっている。
「すごいね」と凛は言った。「音ってほんとに、その日を閉じ込めてるんだ」
「でしょう?」美波は得意げに笑って、それから少し真面目な顔になった。「だから私先輩のこと、放っておけないんです。先輩半年前から世界の音が遠いって、言ったでしょう。私その音、取り戻す手伝いがしたくて」
凛は胸が熱くなった。この子はただ面白がって、首を突っ込んでいるのではない。本気で凛の失った世界を、取り戻そうとしてくれている。
夜が更けると美波は机に突っ伏して、寝息を立てはじめた。あどけない寝顔だった。凛は自分の上着を、そっとその背にかけた。
ふと、凛は美波のスマートフォンを手に取った。録音アプリが開きっぱなしになっていた。美波がいつも世界の音を集めている、あのアプリ。
残してみたかった。この夜を。プリンふたつの、何でもないこの夜を。美波がいつも、世界の音をそうしているように。半年ぶりに誰かといるこの時間を、どこかに留めておきたかった。
録音ボタンを押した。
「……えっと」凛は小さな声で吹き込んだ。寝ている美波を起こさないように。「今日は、美波が来てくれた。プリンを、ふたつ食べた。いちばんの友達だって、言われた。だから……ちゃんと、覚えておく」
止めて、再生した。
雨の音がした。美波が眠る前にかけていた、あの梅雨の雨。その上に、凛の声が乗る――はずだった。
けれど。
凛の声の場所だけが、無音だった。
雨は録れていた。美波の寝息も、かすかに録れていた。なのに凛が吹き込んだ言葉の分だけ、ぽっかりと音が抜けていた。画面に出ている細い線が、凛の喋った時間のところだけ、平らに凪いでいる。声を出したはずの場所に、何もない。
まるで――この部屋が、凛の声だけを、聞きたがらないみたいに。
凛は録音を消した。指が、わずかに冷たくなっていた。気のせいだ。半年間、自分の声を録ったことなんてなかったのだから。そう思おうとして、思いきれなかった。
この子だけは、巻き込みたくないと思った。
その願いがいちばん残酷な形で、裏切られることを――このときは、まだ知らなかった。




