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第16話「聞こえない音」

 その音のことを、凛は美波より先に、体で知っていた。


 美波が解析ソフトと格闘しているあいだ、凛はずっと、こめかみの奥の感覚に集中していた。テープを再生してから始まった、あの低い震え。耳では聞こえない。けれど、確かにそこにある。半年前、感覚が鈍麻したときとは、逆だった。あのときは世界が遠ざかった。今は、聞こえないはずの何かが、近づいてくる。


 「ねえ美波」と凛は言った。「これ、耳に聞こえる音じゃない気がする。もっと下。お腹の底に、直接くるみたいな」


 美波の手が止まった。


 「……今、なんて」


 「うまく言えないけど。音っていうより、振動? 体のほうが先に、わかっちゃう感じ」


 美波はしばらく凛を見つめ、それから猛然と、波形を拡大しはじめた。緑の波の、ずっと下。そこに、別の波が潜んでいた。


 「あった」美波は息を呑んだ。「先輩の言ったとおりです。これ――インフラサウンド」


 それを指でなぞる。


 「二十ヘルツより低い音は、耳にはほとんど聞こえない。でも聞こえないだけで、体には届いてる。先輩は、それを……耳より先に、体で拾ってたんだ」


 凛はその言葉を繰り返した。聞こえないだけで、体には届いている。


 「体に届くって……どうなるの」


 美波はヘッドホンを外して、凛を見た。


 「理由のない不安とか、悪寒とか。誰かがいるみたいな感覚とか。ひどいと吐き気とか、めまいとか。……あと、視界の隅に何かが見える、っていう人も」


 そこまで言って、美波は口ごもった。教科書のページをめくる手が、途中で止まったような顔だった。


 「でも……ここまでは、説明がつくんです。論文にも載ってる。私が言えるのは、ここまで」


 美波は波形のいちばん底を指でなぞった。指がかすかに震えていた。


 「この下が、わからない。この音、人を不安にさせる範囲を、とっくに超えてます。これは……知ってる現象の、顔をしてるだけです」


 響く人と響かない人がいる、と美波は付け足した。同じ音を浴びても、深く響く者と、何も感じない者と。凛は自分がどちらなのかを、考えるまでもなかった。


 子どもの頃からそうだった。教室のざわめきが、人より大きく聞こえた。冷蔵庫の唸りや、蛍光灯の音が頭の芯に響いて眠れなかった。母がそれを聞くたび、ひどく不安そうな顔をした。「あなたは聞きすぎるのよ」と。あのとき、母は知っていたのかもしれない。凛が人より深く「響く」体質であることを。そしてそれが、何を意味するのかを。


 凛は思い当たった。半年間の感覚の鈍麻。けれどテープを再生してから始まった、別の症状。理由のない涙。耳鳴り。誰かがいるという確信。そしてずれる音。心因性、とあの医者は言った。けれど今、こめかみの奥で低く震えているこれは、心の問題という言葉のどこにも収まらなかった。音は、ずっと届いていた。凛の耳が聞き取るより、ずっと深いところへ。


 「でも変なんです」と美波は首をかしげた。「ふつうこんな低い音を出すには、でっかい装置がいるんです。換気扇とかエンジンとか、大型の設備とか。こんな古いカセットテープに、入ってるはずがないんですよ。物理的におかしい」


 入っているはずのない音が、入っている。


 凛はラジカセのカセットを見た。手のひらに収まる、小さな茶色いテープ。この中に人間に聞こえない音が、人を病ませる音が、封じ込められている。


 「ねえ美波」と凛は訊いた。「この音どこから来てるの。テープから? それとも――」


 言いかけて、凛は自分の感覚に耳を澄ませた。こめかみの奥の震えは、ラジカセのある方向からだけ来ているのではなかった。背中からも、足元からも、部屋ぜんたいから、均等に押し寄せている。


 「……違う。テープだけじゃない。この部屋ぜんぶから、来てる」


 美波の機材の針が、それを追うように揺れた。


 カセットは止まっている。再生はしていない。なのに針はわずかにゆれていた。何かを拾っていた。


 凛が体で感じた、その方向を。部屋の空気そのものから。


 「先輩」と美波が低い声で言った。「再生、止めてますよね」


 「うん。止めてる」


 「じゃあこれ……先輩の言うとおりだ。部屋から、出てます」


 美波は機材を、ラジカセから外した。マイクを部屋の空気に向けた。画面の波形が底の方でうねった。あの超低周波の波が。テープからではなく、部屋そのものから立ちのぼっていた。


 そのとき美波の手が止まった。ヘッドホンを片耳だけずらす。


 「先輩」声がかすれていた。「今……誰か、喋りませんでした?」


 「え?」


 「録音してないんです。マイクは低い音を拾ってるだけで……でも今、はっきり聞こえて」美波は震える指で、自分の耳を指した。「『きづいて』って」


 凛は何も言えなかった。聞こえなかった。けれど聞こえなかったことが、かえって怖かった。美波にだけ届いた声。あるいはもう凛には、聞き分けられなくなっているのか。どちらがそれに近いのか。


 美波がマイクを、ゆっくりと動かす。波が強くなる方向を探す。


 マイクはある一点で止まった。


 部屋の隅。凛がVHSを再生した、テレビデオのすぐそば。そこにマイクを向けたとき――針が、一気に振り切れた。


 画面が真っ赤に染まった。測定の上限を振り切れた印。


 その瞬間凛は胃の奥が、ぐっと下に引かれるのを感じた。内臓が見えない音に手繰られて、少しずつ沈んでいくような。耳ではなく骨の芯が、低く震えている。自分の鼓動が、半拍遅れて胸に届いた。あの隅から噴き出すものが、凛の体のいちばん深いところを、直接握っていた。


 美波がヘッドホンを、勢いよく外した。顔が青ざめていた。


 「なんですかこれ。こんな……こんなレベル、ありえない。ここ何にもない、ただの部屋の隅ですよね。なのにここから、ものすごい超低周波が出てる。装置も何もないのに」


 凛はその隅を見つめた。何もない。ただのフローリングの隅。それでもそこから聞こえない音が、噴き出している。凛の体を半年――いや、テープを再生してからのこの数日、ずっと蝕んでいた音が。


 「先輩ここに、ずっと住んでるんですよね」と美波が訊いた。


 「うん」


 「……体大丈夫ですか。だるいとか眠れないとか、気分が落ち込むとか」


 凛は答えられなかった。だるい。眠れない。落ち込む。理由のない涙。誰かがいるという感覚。全部あった。全部あの音のせいだったのか。心が弱っているからだと、思っていた。美月を喪ったからだと、思っていた。違ったのか。それとも――両方なのか。


 美波が機材を片付けながら、独り言のように言った。


 「この音、たどれるかもしれません。発生源を。こういう低周波って、特定の周波数の組み合わせでできてることが、多いんです。その組み合わせを解析すれば……何が、これを作ってるのか」


 彼女は顔を上げて凛を見た。


 「先輩。このテープくれた人……他にも何か、言ってませんでしたか。次が届くとか。そういう」


 凛の心臓が跳ねた。


 次が届きます。marie_1985の、最後の言葉。


 そのとき部屋のドアの、郵便受けがコトンと鳴った。


 何かが差し込まれた音だった。

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