第15話「最後のLINE」
美波と別れて、一人になった帰り道。
凛はふと美月のことを、思い出していた。誰かとあんなふうに、屈託なく話したのは美月以来だった。美波の隣にいると美月といた頃の、あの感じがよみがえる。世界が少しだけあたたかくて音が、近かったあの感じが。
部屋に戻って、凛はスマートフォンを開いた。そしてためらいながら、美月とのトーク画面を開いた。半年間一度も開けなかった画面。
いちばん下に美月からの、最後のメッセージが残っていた。
あの日――事故の前の夜。たわいもないやりとりだった。
『凛、凛。あのさ卒業したら、旅行行こうよ』
『どこ』
『北海道! 雪まつり! 見たくない?』
『寒いから嫌』
『えー。じゃあ沖縄。あったかいよ』
『暑いから嫌』
『なんなの。面倒くさいなあ凛は』
そのあとに、笑っているスタンプがひとつ。
凛はそのやりとりを、何度も読み返した。あのとき凛は確か、こう返したのだ。『美月が決めてよ。どっちでもいいから』と。そうしたら美月は『じゃあ、両方行こう。卒業旅行と就職祝いと』と、返してきた。
両方行こう。
その約束は果たされなかった。その翌日美月は事故で、死んだから。北海道も沖縄も行けなかった。卒業も就職もその先の何もかも。
凛は画面を見つめた。『面倒くさいなあ凛は』。美月の笑い声が、聞こえるようだった。あんなにくだらないやりとり。なのにそれが最後だなんて。
もしあのとき知っていたら。これが最後だと知っていたら。凛はもっとちゃんと、返事をしただろうか。北海道でも沖縄でもどこへでも行く、と。あなたと一緒なら、どこでもいいと。
あの日のことを、凛は断片でしか覚えていない。大学からの一本の電話。聞き慣れない事務的な声。美月のフルネーム。事故。即死。その単語だけがばらばらに耳に刺さって、意味を結ばなかった。気づいたら凛は病院の、白い廊下に立っていた。どうやってそこまで行ったのか、覚えていない。
美月の顔はきれいなままだった。眠っているみたいだった。今にも「凛、凛」と二回名前を呼んで、起き上がりそうだった。しかしいくら待っても、その声はしなかった。あんなにうるさいくらい、よく喋る子だったのに。世界から美月の声だけが、ぷつりと消えていた。
あのときから、だったのかもしれない。凛の世界から音が、遠ざかりはじめたのは。いちばん聞きたい声を失って、凛の耳はほかのすべての音にも、蓋をしてしまった。
だが人はいつも知らない。どのやりとりが最後になるのか。だから最後の言葉はたいてい、こんなふうに何気ない。「面倒くさいなあ」とか。そういうありふれた言葉が、永遠に最後の言葉として残ってしまう。
凛はスマートフォンを、そっと伏せた。
ふいに美月の声が、聞きたくなった。
あの子はよく凛の部屋に、勝手に上がりこんできた。鍵を開けておくと、「凛、凛、来たよー」と二回名前を呼びながら。そして冷蔵庫を勝手に開けて、「なんもないじゃん」と文句を言う。コンビニで二人ぶんのアイスを買ってきて、勝手に半分こにする。凛が課題をしていると退屈して、ベッドに寝転がって、どうでもいい話を延々と続ける。芸能人のこと。サークルの先輩のこと。昨日見た変な夢のこと。
凛はいつも「うるさい」と言っていた。本当はちっとも、うるさくなんてなかったのに。あの絶え間ない、おしゃべりの音が。あの子がそこにいる、といういちばん確かなしるしだったのに。
その声をもう一度聞きたい。たった一度でいい。「凛、凛」とあの二回呼ぶ声を。
だがいくら願っても、それは叶わない。美月の声はもうどこにもない。録音すら残していない。あるのはあの留守電の一件だけ。それも半年間、怖くて聞けなかった。
半年ぶりに美月のことを、まっすぐ思い出せた。涙は出なかった。ただ胸の奥がしんと静かだった。美波と出会って凍りついていた何かが少しずつ、溶けはじめている。そんな気がした。
その溶けはじめた心がこれから、何を取り戻しそして何を、もう一度失うことになるのか。
このときの凛はまだ知らなかった。




