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第14話「音のいいカフェ」

 その帯域の正体を突き止めるには、もっと時間と機材がいる、と美波は言った。だからいったん仕切り直そうと。


 翌日二人は、大学近くの小さなカフェにいた。美波が「ここ行きつけなんです」と連れてきた店だった。


 古い喫茶店だった。木の床。煤けた天井。表からは想像できないほど、奥行きがある。客はほとんどいない。カウンターの奥で、年老いた店主が寡黙に豆を挽いている。


 「先輩、目つむってみてください」と美波が言った。


 凛は戸惑いながら、言われたとおりにした。


 「……何が聞こえます?」


 最初は何も。けれど目を閉じていると、だんだん音がほどけて聞こえてきた。豆を挽くごりごりという低い音。コーヒーがドリップされる、ぽたぽたという雫の音。古いスピーカーから、控えめに流れるジャズ。雨が降りはじめたのか、窓を叩く細かい音。それらがぜんぶちょうどいい音量で、混ざり合っていた。


 「いい音でしょう」美波の声が嬉しそうだった。「私この店の音が好きなんです。豆を挽く音と雨とジャズが、いちばんいいバランスで重なる瞬間が、ときどきある。それを待ちに来るんです」


 凛は目を開けた。美波が頬杖をついて幸せそうに、店の空気を聴いていた。


 「美波って」と凛は思わず言った。「ほんとに音が好きなんだね」


 「大好きです」美波は即答した。「音にはその場所の記憶が、全部入ってるんですよ。この店の音を録っておけば、十年後に聴いても、今日のこの雨を思い出せる。音は時間を保存できるんです。だから――」


 そこで美波は少しだけ、声を落とした。


 「だからこわいんですよね。先輩のテープのあの音。あれも何かを保存してる。でも保存しちゃいけないものを、保存してる気がする」


 凛は黙ってコーヒーを、口に運んだ。半年ぶりにその苦みが、ほんの少しだけ舌に届いた気がした。味の消えた世界で、この後輩の隣でだけ世界が、わずかに色を取り戻す。


 「あのさ」凛は自分でも思いがけず、口を開いていた。「私半年前に、親友を亡くしたんだ」


 美波は急かさなかった。ただ静かに凛の言葉を、待っていた。


 「それから味も匂いも、音も遠くなって。誰とも話さなくなって。世界が、ガラス一枚隔てた向こうにあるみたいで。……でもなんでだろう。あなたといるとそのガラスが、ちょっとだけ薄くなる」


 言ってしまってから、凛は照れてうつむいた。こんなことを誰かに話すのは、美月が死んでから初めてだった。


 美波はふわっと笑った。


 「じゃあこれ全部終わったら」と彼女は言った。「またここに来ましょう。何回でも。私がいちばんいい音の鳴る時間を、教えてあげます。先輩に世界の音を、もういちど聴かせたいから」


 約束ですよ。美波は小指を差し出した。


 凛はためらってからその小指に、自分の小指を絡めた。半年ぶりの誰かとの約束だった。


 「ちゃんと覚えててくださいよ」と美波は絡めた小指に、少し力を込めた。「先輩、なんだか忘れっぽそうだから」


 「失礼な。覚えてるよ」


 「ほんとですか? もし私のこと忘れたら、けっこう傷つきますからね」美波はそう言って、ふふっと笑った。


 「忘れない」凛は言った。「あなたのことは、忘れない」


 美波は満足そうにうなずいて、ようやく小指をほどいた。


 「あそれと」美波は付け足した。「そのカフェトーストも、おいしいんですよ。マスターが気まぐれで焼くやつ。バターの焦げる音が、またいいんです。じゅうって」


 「音の話ばっかりだね美波は」


 「だってそれが私ですもん」美波は胸を張った。「あでも味の話もできますよ。私けっこう食いしんぼうなんで」


 「知ってる」凛は思わず笑った。机の上に広がった、空になったケーキの皿を目で示す。「私のぶんまで食べたでしょ」


 「えっ。あれ先輩いらないって……」


 「言ってない」


 「うそ。言いました。絶対言いました」


 むきになる美波がおかしくて、凛はまた笑った。声を出して笑ったのは、半年ぶりかもしれなかった。笑うと頬の筋肉が、こわばっていて少し痛かった。それくらい長いあいだ、笑っていなかったのだ。その痛みさえなんだか、ありがたかった。


 美波といると世界が、音を取り戻す。色を取り戻す。失くしたと思っていたものが、まだどこかに残っていたのだと、気づかせてくれる。


 この時間がずっと続けばいい。


 凛は半年ぶりにそんなふうに、未来を思った。


 その約束が果たされないことを、このとき二人はまだ知らなかった。


 カフェを出るといつのまにか、雨が降っていた。


 傘を持っていなかった二人は、店の軒先で雨脚が弱まるのを待った。アスファルトを打つ雨。雨樋を伝う水。遠くを走る車の、濡れた路面を切る音。街灯に照らされた雨粒が、ほどけて切れた磁気テープのように、幾筋も斜めに流れ落ちていく。美波は目を細めて、その音を聴いていた。


 「私子どもの頃、ひとりっ子で親も忙しくて」と美波がぽつりと言った。雨を見つめたまま。「家に、いつもひとりだったんです。さみしくて。でも雨の日だけは平気でした。雨の音が家じゅうに、満ちて……ひとりじゃないみたいな気がして」


 凛は黙って聞いていた。


 「だから音を集めるように、なったんです。さみしい時に聴けるように。音はいなくなった人の、かわりにそばにいてくれる。録っておけばずっと」美波は少し照れたように笑った。「……なんて変ですよね。音オタクの言い訳です」


 「変じゃないよ」と凛は言った。


 雨の音のなかで凛は思った。この子もさみしさを、知っているのだ。だから音にすがった。凛が美月の写真にすがるように。みんな消えていくものをなんとかして、つなぎとめようとしている。記録に。音に。写真に。


 雨が弱まってきた。


 「先輩」と美波が空を見上げて言った。「私先輩と会えてよかったです。なんか音の話こんなに、ちゃんと聞いてくれる人いなかったから」


 その言葉は、まっすぐ凛の胸に届いた。半年ぶりに世界の音が遠くない。隣にこの子がいると、膜が薄くなる。


 二人は小降りになった雨のなかを、並んで歩きだした。


 このときの雨の音を。並んで歩いたこの時間を。凛は後になんとしても、思い出そうとする。けれど――それすら、奪われることをまだ知らない。

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