第13話「病室のクリスマス」
その夜、凛は夢を見た。
自分の夢ではなかった。B面で聞いた美咲の声が、耳に残っていたせいかもしれない。あるいはあの超低周波が、見せたのかもしれない。凛は会ったこともない、二十六年前のある一日を、美咲の目を通して見ていた。
*
その日はクリスマスイブだった。一九九八年の。
病室の窓に小さなツリーが、飾られていた。看護師さんが、置いていってくれたもの。豆電球が赤緑黄色と、ゆっくり点滅する。美咲はベッドの上からそれを、ぼんやり眺めていた。
病気が見つかってから、はじめてのクリスマス。来年もここで迎えるのかな、とちらりと思って、美咲はその考えを追い払った。今日は考えない。だって今日はお母さんもお父さんも、来てくれる日だから。
夕方母が来た。手に小さなケーキの箱を提げて。「美咲メリークリスマス」と母は笑った。母の笑顔を見ると、美咲はほっとする。病室の消毒のにおいも、点滴の管もぜんぶ少しだけ遠くなる。
ケーキを三人で分けた。小さな苺のショートケーキ。美咲はいちばん上の苺を、母にあげようとした。母は「美咲が食べなさい」と笑って押し返した。けっきょく半分こにした。
「美咲。なにか弾いてくれない?」と母が言った。病室には小さな電子ピアノが、持ち込まれていた。美咲が退屈しないようにと。
美咲は頷いてベッドを降りた。少しふらついた。父がそっと背を支えてくれた。その手のあたたかさを、美咲は今でも覚えている。
ピアノの前に座って、美咲は弾いた。きよしこのよる。たどたどしくけれど心をこめて。母が隣で小さな声で歌った。美咲が弾いて母が歌う。美咲のいちばん好きな時間。父も目を細めて聴いていた。
弾き終わると、母が拍手してくれた。「上手。すっかり上手になったね」
「あのねおかあさん」美咲は鍵盤に指を置いたまま、言った。「わたしたいいんしたら、もっともっとれんしゅうする。すごくじょうずになるの」
「コンクールでもめざすの?」母がにこにこして訊いた。
「ううん」美咲は首を横に振った。それから少しはにかんで言った。
「おかあさんにきかせるの。せかいでいちばん、じょうずなえんそうを。おかあさんだけに」
母は一瞬言葉に詰まった。それから美咲を、そっと抱きしめた。少し長く。美咲の髪に顔をうずめて。「うん」と母の声が震えていた。「うん。たのしみにしてる。ずっとずっとたのしみに、してるからね」
母の腕はあたたかかった。少し痩せた美咲の背中を、包みこんで。美咲はその腕の中で思った。はやくげんきになりたい。そしていつかこの、だいすきなおかあさんにせかいでいちばんの、えんそうをきかせるんだ。
その約束は、果たされることがなかった。
「ねえ」と美咲は言った。「わたしげんきになったら、ピアノのせんせいになりたい。ちいさい子にピアノおしえるの」
「いいね」母は優しく言った。「きっとなれるよ」
「うん。それでねおかあさんと、いっしょにすむの。おおきいピアノのあるいえで」
未来の話をするのが好きだった。退院したら。元気になったら。大人になったら。そういう話をしていると、病気のことを忘れられた。明日もその先も、ずっと続いていくのだと信じられた。
父はその様子を少し、離れて見ていた。優しい目で。けれど美咲は気づかなかった。父のその手がポケットの中の、小さな録音機の、スイッチをそっと入れたことに。娘のピアノと笑い声と、未来の夢をすべて録音していたことに。
その夜美咲は少しだけ咳をした。
ほんの小さな咳。母は心配して背中を、さすってくれた。父は何も言わず、ただじっとその咳の音を聞いていた。
美咲はまだ知らなかった。この幸福な夜からすべてが少しずつ、壊れていくことを。父が自分を人としてではなく、いちばん美しい音として、愛しはじめていることを。来年のクリスマスは、もう来ないことを。
*
凛は目を覚ました。涙が頬を伝っていた。
会ったこともない少女のたった一度の、幸福なクリスマス。ピアノの先生になりたいと言った、あの子。母と暮らすのが夢だと言った、あの子。その子が――二十六年、無響の闇に閉じ込められている。
助けたいと凛ははっきり思った。かわいそうではなく。あの子をあの幸福な夜の続きを生きられなかった少女を、なんとしても、あの檻から出してあげたい。
けれど、どうやって。
二十六年前に死んだ少女を。声しか残っていない少女を。凛にはまだ、何ひとつ分からなかった。分からないまま、もう引き返せないところまで、来てしまっていた。




