第12話「B面」
B面の声は、母のものではなかった。
子どもの声だった。
細いかすれた、けれど確かに生きている声。
「……おかあさん」
凛は息を止めた。美咲だ。これは美咲の声だ。あのテープの防音室の少女の。
「おかあさんごめんね。わたしもうつかれちゃった」
子どもの声は、母に語りかけていた。A面の母の語りかけに、答えるように。しかし時間も場所も、噛み合っていない。母はА面で「また来るからね」と言い娘はB面で「ごめんね」と返す。録音されたはずのない対話。二十六年前に、交わされなかった対話。
「でもねおとうさんがいうの。つかれなくていい、からだにしてあげるって。ずっとずっとつかれない、からだに」
凛の背筋が冷たくなった。お父さん。美咲の父。
疲れない体。ずっと疲れない体。それはどういう意味なのか。病気が治るということではない。子どもの口ぶりはもっと、別のことを言っていた。
「だからわたし、おんがくになるんだって」
音楽になる。
凛はその言葉の意味を、まだ理解できなかった。ただ本能が警告していた。これは、聞いてはいけない種類の言葉だと。
「おかあさんにはないしょなの。おとうさんと、わたしだけのひみつ」
内緒。秘密。母には言わない父と娘だけの。
凛の頭に、引っかかるものがあった。なぜ母は知らないのか。なぜこれは秘密なのか。父は娘に何を、しようとしていたのか。
子どもの声が最後に言った。さっきテープの少女が、唇だけで言ったあの言葉を。
「……たすけて」
そこでB面はぷつりと切れた。
ヒスノイズだけが、ザーと流れ続ける。
凛はラジカセを、止められなかった。手が震えていた。録音されたはずのないB面。交わされなかった対話。音楽になるという秘密。そしてたすけて。
一人ではもう抱えきれなかった。
半年間誰にも頼らずにきた凛が初めて、誰かに、これを聞いてほしいと思った。一人で聞くにはこの声は、あまりにも重すぎた。
頼れる相手など、いないはずだった。半年で人付き合いのほとんどを手放し、あの夜、誰の顔も浮かばなかった凛に。
それなのに、不意に一人だけ、脳裏をよぎった顔があった。
後輩の美波。音響工学を学んでいる、一つ下の女の子。サークルの新歓で一度だけ話して、それきりの関係。なのに彼女のことだけは、なぜか覚えていた。変わった子だったから。
美波は世界中の音を集めるのが趣味だと言っていた。雨の音電車の軋み、誰もいない体育館の反響。スマホには録音した環境音が何千ファイルもあって、眠れない夜はそれを聴くのだと。「音にはその場所の記憶が全部、入ってるんですよ」と目を輝かせて語っていた。普通なら聞き流す音に、誰よりも耳を澄ます子だった。
その美波が別れ際に言ったのだ。「先輩音のことで困ったら、いつでも連絡してください」と。社交辞令だったかもしれない。けれど凛が連絡先を消さずにいた、数少ない一人だった。
音のことで困ったら。
まさに今がそれだった。
凛はメッセージの画面を開いた。けれど、指がそこで止まった。
半年間、誰も頼らなかった。心配されるのが、気を遣われるのが、何より怖かった。久しぶりに送るメッセージが、こんな得体の知れない相談だなんて。一度きり言葉を交わしただけの後輩に、迷惑なだけかもしれない。送信を押せないまま、凛はしばらく暗い画面を見つめていた。
けれど、机の上のラジカセから、あの「たすけて」がまだ耳に残っていた。一人では、もう無理だった。
凛は、ためらいを振り切るように、メッセージを送った。「突然ごめん。音のことで、相談したいことがあって。変な話だと思うけど、聞いてくれる?」
返信はすぐに来た。「もちろんです! いつでも聞きます」
その軽さが明るさが、凛にはまぶしかった。
翌日凛は美波を、自分の部屋に招いた。誰かを部屋に入れるのは、半年ぶりだった。美波は機材を詰め込んだ大きなリュックを背負って、やってきた。「音の相談って聞いたんで、いろいろ持ってきました」と笑った。
凛は事情を話した。
最初はうまく、言葉にできなかった。半年間ほとんど誰とも、まともに話していない。声の出し方すら忘れかけていた。それでもぽつりぽつりと話した。フリマアプリで、呪いと書かれたVHSを買ったこと。再生したら、防音室の少女が映っていたこと。電源を切ったのに、響きが消えないこと。蛇口の水音が足音が自分の声が、ずれて聞こえること。
話しながら凛は何度も、口ごもった。馬鹿げていると自分でも思った。音が遅れて聞こえる? 響きが消えない? そんなもの、疲れか気のせいか、あるいは――頭がおかしくなったのだと、思われるに決まっている。実際凛自身半分は、そう疑っていた。美月を喪った悲しみが、とうとう自分を、壊しはじめたのではないかと。
だから覚悟していた。美波が気の毒そうな顔で「先輩少し、休んだほうがいいですよ」とやんわり心の病を、ほのめかすことを。あるいは笑い飛ばすことを。
けれど。
美波は笑わなかった。気の毒そうな顔もしなかった。
話を聞き終えると彼女はまっすぐに、凛の目を見て言った。
「先輩。それ気のせいじゃ、ないと思います」
凛の心臓が跳ねた。
「音がずれて聞こえるのも、響きが消えないのも……音響的には、ありえる現象なんです。条件さえ揃えば。先輩の話ひとつも、馬鹿げてません。むしろすごく具体的で、筋が通ってる」美波はリュックをぽんと叩いた。「だから調べましょう。音のことなら私わかりますから」
凛は不覚にも泣きそうになった。
半年間誰にも言えなかった。言えば心配される。気を遣われる。腫れ物に触るように扱われる。だからぜんぶ、ひとりで抱えてきた。なのにこの後輩は。たった一言で凛の抱えていたものを、「気のせいじゃない」とまるごと受け止めてくれた。
信じてもらえるということがこんなにも、あたたかいとは。
「ありがとう」と凛は小さく言った。
「お礼なんていいですよ」美波はにっと笑った。「私が聞きたいんです。先輩の部屋で何が鳴ってるのか。……あちょっと不謹慎ですけど。わくわくしますこういうの」
その屈託のなさに、凛は半年ぶりにふっと肩の力が抜けた。
凛がラジカセでB面を再生して聞かせると、美波の表情が変わった。
最初の数秒彼女は、うっとりしたような顔をした。何千もの環境音を集めてきた耳が、この音の、ただならぬ深さに反応していた。「……すごい」と思わず漏らす。けれどすぐその横顔から、血の気が引いた。聴き込むほどに、これが「集めてはいけない音」だと、彼女の本能が気づいたように。
美波はリュックから機材を取り出し、ラジカセにつないだ。ヘッドホンを耳に当て音声を、波形として、ノートパソコンの画面に映し出した。
画面に緑色の波形が走った。
美波の指が止まった。
「……先輩これ」
彼女の声がさっきまでの高揚を、失っていた。
「この声の下に……人の声じゃない帯域が、混ざってます。すごく低い。たぶん人間の耳には、ほとんど聞こえない音です」
美波は画面を指さした。緑の波形のずっと下。ほとんど平らに見えるその底に。
別の波が潜んでいた。




