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第11話「カセットの声」

 カセットを再生する機械は、あの店で見つかった。


 テレビデオを買ったリサイクルショップ。薄暗い雑多な店内。古い家電が棚という棚に、積み重なっている。どれも誰かが手放したもの。誰かの生活の抜け殻。その奥に老店主は座っていた。


 凛がカセットの話をすると、店主はまた少しだけ手を止めた。皺の刻まれた顔が、ゆっくりと凛を見上げる。その目が何かを、見透かすようだった。哀れむようなそれでいて、何も言うまいと決めているような。


 だが今度は何も言わなかった。ただ奥から古いラジカセを出してきて、「これもいる口かい」とだけ言った。


 凛は、ふと気づいた。そのラジカセには、ほかの商品のような埃が、積もっていなかった。まるで、ついさっき棚の奥から出して、布で拭いておいたかのように。凛がカセットの話を切り出すより前から、それは店主の手の届くところに、用意されていた。


 いる口。


 その言い方が引っかかった。まるでこうなることを、知っていたみたいに。次に凛が何を持ってくるか。その次に何を必要とするか。すべて見えているみたいに。先回りして、待っていたみたいに。


 「あの」と凛は思いきって訊いた。「このテープのこと、何か知ってるんですか」


 店主はしばらく黙っていた。それからぼそりと言った。


 「知らんよ。ただ……ときどき来るんだ。あんたみたいな客が。古いものを、再生する機械を探しに。何年かに一度。みんな同じ目をしてる」


 みんな同じ目。


 凛がそれ以上訊く前に、店主は背を向けた。話は終わりだというように。凛はラジカセを抱えて店を出た。何年かに一度訪れる、同じ目をした客。その何人が、いまどうなっているのか。考えると背筋が冷えた。


 部屋に戻り、凛はラジカセにカセットを差し込んだ。リールはいつのまにか、また止まっていた。


 差し込む指先に、ふと違和感があった。


 カセットが、温かい。


 ずっと寒い店先に置かれていたはずなのに。凛の手のなかで、それは人肌のような温もりを持っていた。まるで、ついさっきまで誰かが握りしめていたように。あるいは――この小さな箱のなかに、まだ何かが、生きているように。凛は思わず指を離した。プラスチックの表面に、自分の指の跡が、うっすらと汗で残っていた。


 気のせいだ。暖房のせいだ。そう思おうとしながら、凛は再生ボタンを押した。


 ザーというヒスノイズ。テープ特有の砂のような音。そしてその奥から――声が、聞こえてきた。


 女の人の声だった。低く疲れたけれど優しい声。


 「……美咲。聞こえてる? お母さんよ」


 凛の心臓が跳ねた。お母さん。これは美咲の母の声だ。二十六年前病室で、娘に語りかけた。


 「あなたが眠っているあいだに、これを録っているの。起きたら聞かせようと思って。あのね美咲。今日はねいいお天気だったのよ。病室の窓から、ずっと空が見えてね……」


 他愛のない語りかけだった。入院している娘へ、母が吹き込んだ日記のような声。天気のこと。差し入れのこと。早く退院して、また一緒にピアノを弾こうねという願い。


 凛は聞きながら胸が痛くなった。この声の主は知らないのだ。このひと月あと娘が死ぬことを。だからこんなに優しく、未来の話ができる。


 その優しさが凛にはつらかった。半年前まで凛にもこんなふうに、名前を呼んでくれる人がいた。美月だ。「凛、凛」といつも二回呼ぶのが癖だった。この母の声を聞いていると、そのもう聞けない呼び声が、重なってよみがえる。会ったこともない、二十六年前の母娘の声が凛自身の、失われた時間をそっと撫でていく。テープのなかの誰かの優しさに、凛は涙ぐんでいた。


 しかし――聞いているうちに、凛は違和感に気づいた。


 母の声に時折別の音が混じる。


 語りかけの言葉と言葉のあいだ。息継ぎのわずかな隙間。そこに低い唸りのようなものが、潜んでいた。ヒスノイズとは違う。テープの劣化とも違う。何かもっと意志のあるもの。


 凛は音量を上げた。


 その隙間の音に耳を澄ませた。


 音量を上げたのは失敗だった。


 マリーは言っていた。音を大きくしすぎないようにと。


 凛が母の声の隙間に潜む唸りを聞き取ろうと、つまみを回したその瞬間。


 声が伸びた。


 「……びょうしつの、まどから……」と言っていた母の声が、ぐにゃりと間延びした。テープの回転が、急に遅くなったように。でもラジカセのリールは、正常な速さで回っている。回転は変わっていない。なのに声だけが低く、長く引き伸ばされていく。


 女の声が男の声のように低くなり、やがて人の声ですらない、何かの唸りになった。


 ワウフラッター。テープの揺れ。凛はその言葉を、あとで知ることになる。しかしこのときは、ただ恐ろしかった。優しかった母の声が、自分の手で音量を上げたとたん、別のものに変わってしまった。


 凛は慌ててつまみを戻した。


 声が元に戻った。「……ずっと空が見えてね」。何事もなかったように、優しい母の声が続いている。


 凛はラジカセから、少し身を引いた。


 今のはなんだったのか。音量を上げると声が伸びる。低くなる。人ではない何かに近づく。まるで大きな音の中にだけ、別の「それ」が隠れているみたいに。


 マリーの警告の意味が、少しだけ分かった気がした。音を大きくしすぎないように。大きくすると――聞こえてしまうのだ。普段は母の声に隠れている、その底の何かが。


 凛は音量をぎりぎりまで絞った。


 それでも聞いた。聞き続けた。母の声を。美咲への語りかけを。なぜならその声は、優しかったから。半年間誰の声も凛のところまで届かなかったのに、この二十六年前の母の声だけは、まっすぐに凛の胸に届いた。


 テープが、A面の終わりに近づいた。母の声が最後の言葉を紡いだ。


 「……またね美咲。お母さんまた来るからね」


 そしてA面が終わった。


 カチンとラジカセが止まった。


 凛はしばらく動かなかった。それからテープを裏返した。B面を確かめるために。


 B面には、何も録音されていないはずだった。母はA面だけを、娘のために吹き込んだのだから。


 でも凛が再生ボタンを押すと――B面からも、声が聞こえてきた。

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