チート能力はありませんでした
「全然……」
息を吸う。
痛すぎて、声が裏返る。
「チートなんてないじゃああん!」
蓮の情けない叫びが、森に響いた。
そこから先の記憶は、ほとんどない。
誰かの叫び声。
地面を揺らす魔物の足音。
金属がぶつかる音。
そして、自分の体がまったく動かないという事実。
最後に見えたのは、鎧を着た誰かがこちらへ走ってくる姿だった。
あ、これ死んだかもしれない。
そう思ったところで、蓮の意識はぷつりと途切れた。
次に目を覚ました時、蓮は知らない天井を見ていた。
「……どこだ、ここ」
体を起こそうとする。
「いっ……!」
全身に痛みが走った。
腕も痛い。
足も痛い。
背中も痛い。
たぶん、痛くない場所を探す方が早い。
蓮は恐る恐る自分の体を見下ろした。
包帯。
包帯。
包帯。
右腕にも、左腕にも、足にも、胸にも、これでもかというくらい包帯が巻かれている。
「ミイラかよ……」
ここは病院のような場所だろうか。けれど、蓮の知っている病院とは全然違う。
白い壁はない。
消毒液の匂いもしない。
点滴もなければ、心電図の機械もない。
代わりにあるのは、木でできた天井と、薬草のような匂い。
窓辺には乾いた草の束が吊るされ、ベッドの横には、見たことのない器具が並んでいた。
その時、ベッドの周りに人がいることに気づいた。
制服を着た女性たち。たぶん、ここの職員。
それから、鎧を着た男たち。森で魔物と戦っていた騎士たちだろう。
蓮が目を覚ましたことに気づいたのか、鎧姿の男が身を乗り出して何かを言った。
「■■■■! ■■、■■■■■■?」
「……」
分からない。
やっぱり、何を言っているのか分からない。
別の騎士も何か言う。
「■■■■、■■■■■■!」
職員らしき女性も、心配そうに蓮の顔を覗き込んでくる。
「■■? ■■■■?」
音は聞こえる。
でも意味にならない。
さっき森で聞いた時と同じだ。
異世界の言葉は、蓮にはただの記号みたいに聞こえた。
蓮はしばらく黙っていた。
いや、正確には、何も言えなかった。
体は痛い。
状況は分からない。
言葉も通じない。
異世界に召喚された。
モンスターに突っ込んだ。
一撃で吹っ飛ばされた。
目が覚めたら全身包帯。
しかも、誰とも会話ができない。
「まじかよ……」
蓮は半泣きで呟いた。
「せっかく異世界に来たのに、チート能力もなければ言葉も通じないなんて……」
その瞬間。視界の端に、半透明の文字が浮かび上がった。
――世界の声――
【スキル】言語理解 を習得しました。
「……え?」
蓮は瞬きをした。
次の瞬間。さっきまで記号みたいにしか聞こえなかった声が、急に意味を持った。
「おい、大丈夫か!」
「意識が戻ったぞ!」
「無理に起きるな。まだ傷が塞がりきっていない」
蓮は目を見開いた。
言葉が分かる。
さっきまで何一つ理解できなかった異世界の言葉が、当たり前みたいに頭に入ってくる。
日本語に聞こえているわけではない。
知らない音のはずなのに、意味だけが自然に分かる。
そんな不思議な感覚だった。
「おい、聞こえているか?」
赤茶色の髪をした鎧姿の男が、蓮の顔を覗き込んだ。
年齢は三十代くらいだろうか。
短く切った髪。
顔に残る小さな傷。
厚い胸板。
腰には剣。
見るからに戦い慣れていそうな男だった。
少し怖い。
でも、目つきは思ったより優しかった。
「あ……はい」
蓮が答えると、男は安心したように息を吐いた。どうやらこちらの言葉も通じるようだ。
「やっと返事をしたか。ショックで言葉を失ったのかと思ったぞ」
「いや、その……さっきまで本当に何を言ってるか分からなくて」
「何?」
男が眉をひそめる。
まずい。
いきなり変なことを言ったかもしれない。
周りの騎士たちが、一斉に蓮を見る。
「お前、何者だ?」
「なぜあの森にいた?」
「どこの者だ?」
質問が一気に飛んできた。
「え、えっと……」
何から説明すればいいのか分からない。
というか、こっちが聞きたい。
なぜ森にいたのか。
なぜ異世界に来たのか。
誰が自分を呼んだのか。
そもそも元の世界に帰れるのか。
考えているうちに、蓮はこの世界に来て最初に見た文字を思い出した。
――世界の声――
異世界召喚が行われました。
夏目 蓮 15歳
異世界召喚。
小説やゲームでよくあるやつだ。
召喚というからには、誰かが呼んだはずだ。
王様とか。魔法使いとか。神官とか。
この世界にもそういう儀式があるのかもしれない。
蓮はゆっくり息を吸った。
「あの、俺は……夏目蓮って言います」
「ナツメ、レン?」
赤茶色の髪の男が、聞き慣れない名前を確かめるように繰り返した。
「はい。蓮でいいです」
「レンか、お前はどこから来た?」
蓮は少し迷った。
でも、嘘をついても仕方がない。
「俺は、この世界とは別の世界にいました」
部屋の空気が少し変わった。
騎士たちの表情が鋭くなる。
蓮は慌てて続けた。
「朝、家を出たんです。今日から高校……えっと、学校に行くところで。玄関を開けて外に出たら、急に光に包まれて。それで、気づいたらあの森にいて……」
言いながら、自分でも思った。
怪しすぎる。
完全に不審者の説明だ。それでも、言うしかない。
「たぶん、俺は召喚されたんだと思います。俺を召喚したのは、あなたたちですか?」
「召喚?」
男の目が細くなる。
周りの騎士たちがざわついた。
「召喚された人間だと?」
「そんな話は聞いていないな」
「いや、でも……あの連中なら、俺たちに知らせず何かやっていてもおかしくない」
「あの連中?」
蓮は思わず聞き返した。
赤茶色の髪の男が、少し言いにくそうに頭をかいた。
「ああ。魔導師団の連中だ」
「魔導師団……」
名前だけで、なんとなく分かる。
魔法を使う人たちの組織だ。
「俺たち騎士団も、奴ら魔導師団も、どちらも王国直属の部隊だ。だが、その……」
「仲が良くないんですか?」
蓮が聞くと、男は苦笑した。
「あぁ……あいつらは剣を古くさい戦い方と言う。俺たちは魔法という未知の力を信用しきれない。まあ、要するに昔からくだらない意地の張り合いをしている」
隣にいた若い騎士が、少し顔をしかめた。
「それに、魔導師団は秘密主義だ。王命が絡めば、こっちに情報を伏せることもある」
召喚の儀式。
王立魔導師団。
秘密主義。
少なくとも、この世界に召喚という概念はあるらしい。
つまり、自分の話が完全な妄想扱いされる可能性は少し下がった。
「だが、分からんな」
赤茶色の髪の男が腕を組む。
「え?」
「仮に魔導師団が召喚の儀式を行ったとして、なぜお前は森に一人でいた?」
「それは……俺にも分からないです」
本当に分からない。
呼ばれたなら、普通はそれっぽい場所に出るものではないのか。王宮とか、神殿とか。
少なくとも、森のど真ん中に放り出されて、魔物に殴られる流れは聞いたことがない。
「それに、過去に異世界から召喚された人間は、みな強力な力をもって召喚されているが、」
男は、包帯ぐるぐる巻きの蓮を見て言った。
「お前は、そうは見えない」
「……ですよね」
蓮は小さく頷いた。
さっき、自分の体で証明済みだ。
チート勇者どころか、入学式にも行けていないただの高校一年生である。
男はしばらく考え込んだあと、大きく息を吐いた。
「分かった」
「何がですか?」
「召喚の儀式があったか、少し俺の方で調べてみる」
「本当ですか?」
「ああ。ただ、正面から魔導師団に聞きに行くわけじゃない。今はまだ、お前の話の真偽も分からないからな。それとなく探る」
「ありがとうございます」
蓮がそう言うと、男は手を軽く振った。
「礼を言うのはこちらだ」
「え?」
「お前があの魔物の注意を引いてくれたおかげで、こちらは隙を作れた。無謀だったが、無意味ではなかった」
その言葉に、蓮は少しだけ救われた気がした。
一撃で吹っ飛ばされたけど。
死にかけたけど。
全身包帯だけど。
それでも、少しは役に立った。そう思えるだけで、だいぶ違った。
「名乗るのが遅れたな」
男は胸に手を当てた。
「俺はグレン・レイヴァン。ルミナス王国騎士団、第三隊の隊長をしている」
「グレン・レイヴァンさん……」
「グレンでいい」
グレンはそう言って、少しだけ笑った。
怖そうに見えるけど、悪い人ではなさそうだ。
少なくとも、森でいきなり吹っ飛ばされた蓮を見捨てなかった。
今の蓮には、それだけでも十分だった。
「ただし、レン」
「はい」
グレンの表情が、少し真面目になる。
「今話したことは、他の人間には言うな」
「召喚されたってことですか?」
「ああ。お前自身、まだ何が起きたのか分かっていないんだろう? なら、むやみに話を広げない方がいい」
「分かりました」
確かに、その通りだ。
異世界から来ました。
召喚されました。
世界の声が見えます。
そんなことを言いふらしたら、どう考えても面倒なことになる。
「それと、この服もまずいな」
グレンは、若い騎士が手にしていた布の塊に目を向けた。
それは、森で倒れていた蓮が着ていた制服だった。
新品だったはずの高校の制服は、土と血で汚れ、ところどころ破れている。
ブレザーの袖は裂け、シャツには爪で引っかかれた跡まで残っていた。
「この国では見ない服だ。目立ちすぎる」
「なるほど……」
蓮は包帯だらけの体を少しだけ見下ろした。
今の自分は、当然その制服を着ていない。
治療のために、薄い布の寝間着のようなものを着せられていた。
華の高校生活初日に着るはずだった制服は、異世界初日の戦闘服みたいになっている。
「誰か、着替えを用意してやれ。あれを着て外に出したら、悪目立ちする」
グレンがそう言うと、近くにいた若い騎士が頷き、着替えを取りに向かう
「カイル」
「はい?」
グレンの呼びかけに着替えを取りに行こうとしていた若い騎士が振り返る。
「しばらく、お前がレンにこの世界のことを教えてやれ」
「俺が?」
「歳も近いだろう。こいつは、いきなり知らない世界に放り出されて何も分からないはずだ」
カイルと呼ばれた若い騎士は、少し考えるような顔をした後、蓮を見た。
蓮も、包帯ぐるぐる巻きのまま小さく頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「……まあ、分かった。動けるようになったら、いろいろ教えてやるよ」
「ありがとうございます」
カイルは少し照れくさそうに目をそらした。
グレンは満足そうに頷く。
「まずは怪我を治せ。話はそれからだ」
「はい」
「あと、無茶に動くなよ。また魔物に殴られたいなら別だが」
「もう絶対嫌です」
蓮が即答すると、周りの騎士たちが少し笑った。
その空気に、蓮も少しだけ笑った。
朝、家を出た時。
蓮は今日から華の高校生活が始まると思っていた。
新しい教室。
新しい友達。
入学式。
もしかしたら、曲がり角で食パンをくわえた美少女とぶつかるなんて、ベタな出会いもあるかもしれない。そんなくだらないことまで、少しだけ期待していた。
けれど現実は、玄関を出た瞬間に異世界へ飛ばされ、曲がり角の美少女ではなく、巨大なモンスターに殴られた。
正直、最悪だ。
チート能力はない。
元の世界に帰る方法も分からない。
自分を召喚したのが誰なのかも分からない。
それでも、泣いていても何も変わらない。
ここが本当に異世界なら。
そして、すぐに元の世界へ帰れないのなら。
まずは知らなくちゃいけない。
この世界のことを。
自分が置かれた状況を。
そして、生きていく方法を。
蓮は包帯だらけの手を、ゆっくり握った。
「……やるしかないよな」
華の高校生活は、始まらなかった。
代わりに始まったのは、わけの分からない異世界生活。
チートなし。
知識なし。
全身包帯。
最悪のスタートだ。
それでも蓮は、小さく息を吸った。
この世界で、生きていくために。




