高校生活、開始五秒で終了
夏目蓮、十五歳。
今日から高校生になる。
新品の制服はまだ少し硬くて、首元のボタンが妙に苦しい。鏡の前で何度もネクタイを直して、髪もそれなりに整えた。
完璧、とは言えない。
けれど、悪くはない。
「よし」
蓮は小さく頷いた。
今日から始まるのだ。
中学とは違う、新しい生活。新しい教室。新しい友達。
もしかしたら、漫画みたいな出会いだってあるかもしれない。
放課後、クラスメイトと寄り道をして、くだらない話で笑って。
体育祭で少しだけ活躍して、文化祭で意味もなく忙しくなって。
何となく気になる子ができて、何となく目が合って、何となく青春っぽいことが起きる。
そんな、いわゆる華の高校生活。
蓮はそれに、かなり本気で憧れていた。
「蓮、そろそろ行かないと遅れるわよ」
リビングから母の声がした。
「分かってる!」
蓮は鞄を肩にかけ、玄関へ向かう。
靴を履く。
深呼吸をする。
ドアノブに手をかける。
今日から俺は高校生だ。
そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「行ってきまーす!」
蓮は勢いよく玄関のドアを開けた。
そして、一歩外へ出た。
その瞬間。
世界が、白く弾けた。
「……は?」
目の前が真っ白になった。
眩しい、というより、光そのものに飲み込まれるような感覚だった。足元の感触が消え、体の重さも分からなくなる。
落ちているのか。
浮いているのか。
立っているのか。
何も分からない。
声を出そうとしたが、喉が動かなかった。
次の瞬間、蓮は地面に倒れていた。
「いっ……!」
頬に土がついている。
鼻の奥に、草と湿った土の匂いが入ってきた。
蓮はゆっくり顔を上げた。
そこにあったのは、家の前の道路ではなかった。
通学路でもない。
住宅街でもない。
見渡す限り、森だった。
「……え?」
蓮は立ち上がり、周囲を見回した。
知らない場所だった。
少なくとも、自宅の前ではない。近所の公園でもない。そもそも、こんな深い森は蓮の住んでいる町にはなかった。
「いやいやいやいや……」
夢か。
そう思って頬をつねる。
普通に痛かった。
「夢じゃないやつだ、これ」
その時だった。
蓮の目の前に、半透明の文字が浮かび上がった。
空中に、淡い光の板のようなものが現れる。
そこには、こう書かれていた。
――世界の声――
異世界召喚が行われました。
夏目 蓮 15歳
蓮は数秒、何も言えなかった。
文字を読む。
もう一度読む。
三回読む。
それでも意味は変わらない。
「異世界召喚……?」
口に出した瞬間、ようやく現実味が追いついてきた。
異世界召喚。
ゲームとか小説でよくある、あの。
普通の人間が突然別世界に呼ばれて、勇者とか救世主とか呼ばれて、チート能力で無双して、ついでに可愛い仲間が増えていく、あれ。
「……いや、待て」
蓮は自分の手を見た。
特に光ってはいない。
剣も持っていない。
謎の紋章も浮かんでいない。
けれど、召喚されたのは事実らしい。
世界の声とやらが、わざわざそう表示している。
「まさか、本当に……?」
その時、森の奥から大きな音が響いた。
金属がぶつかるような音。
何かが地面をえぐる音。
そして、怒号のような声。
蓮は反射的に身をかがめた。
「な、なんだ?」
音のする方へ、そっと近づく。
木の幹に身を隠しながら覗き込むと、少し開けた場所が見えた。
そこには、鎧を着た人たちがいた。
騎士。
蓮の頭に、そんな単語が浮かぶ。
銀色の鎧。
剣。
盾。
マント。
その騎士たちが、巨大な何かと戦っていた。
蓮の知っているどんな動物とも違う。背中には黒い棘が並び、腕は人間の胴体ほど太い。口元からは濁った息が漏れていて、爪は短剣みたいに鋭かった。
「なんだ、あのモンスター……」
蓮の喉が鳴った。
本当に異世界に来てしまった。
そう思うしかなかった。
騎士の一人が叫ぶ。
「――■■! ■■■■、■■■■!」
「……なんて?」
言葉が分からない。
音としては聞こえている。
けれど意味がまったく入ってこない。
まるで、知らない記号をそのまま耳に流し込まれているようだった。
「■■■■! ■■!」
別の騎士が叫ぶ。
魔物が腕を振るう。
騎士の一人が盾で受け止めたが、そのまま数歩後ろへ押し込まれた。
まずい。
素人目にも分かった。
騎士たちは苦戦している。
蓮は木の陰で息を殺した。
普通なら、逃げるべきだった。
今すぐ反対方向へ走って、どこか安全な場所を探すべきだった。
けれど、蓮の頭の中には別の考えが浮かんでいた。
異世界召喚。
モンスター。
騎士団。
危機的状況。
この流れ。
この配置。
どう考えても、主人公が覚醒する場面ではないか。
「……いや、あるだろ」
蓮は小さく呟いた。
チート能力。
まだ分からないだけで、絶対に何かあるはずだ。
ステータスは見えないけど、世界の声は出た。つまり、この世界にはそういう仕組みがある。
だったら、召喚された自分に何もないわけがない。
ここで助けに入って、眠っていた力が目覚める。
騎士たちは驚く。
もしかして勇者様なのか、とか言われる。
そこから物語が始まる。
蓮の胸が、恐怖とは別のもので高鳴った。
十五歳の判断力は、ときどき致命的に都合がいい。
「よし」
蓮は木の陰から飛び出した。
「うおおおおおお!」
騎士たちが一斉にこちらを見る。
「■■!? ■■■■■■!」
「■■■■! ■■、■■■■!」
何を言っているのかは分からない。
けれど、たぶん止めている。
危ないから下がれ、とか言っている。
そんな気がした。
でも、もう走り出してしまった。
蓮は拳を握りしめ、魔物に向かって叫んだ。
「このチート勇者に任せろ!」
魔物が、ゆっくり蓮を見た。
ただ、邪魔な小石を見つけたみたいな目だった。
「……あれ?」
次の瞬間。
魔物の腕が横から飛んできた。
速い。
そう思った時には、もう遅かった。
「っ――!」
蓮の体が宙を舞った。
視界が回る。
空が見える。
木が見える。
地面が見える。
背中から茂みに突っ込んだ。
肺の中の空気が全部出た。
「がっ……は……!」
痛い。
とにかく痛い。
チート能力は発動しなかった。
謎のバリアも出なかった。
隠された剣も現れなかった。
騎士たちの叫び声が遠くに聞こえる。
蓮は震える手で地面を掴みながら、涙目で呟いた。
「全然……」
息を吸う。
痛すぎて、声が裏返る。
「チートなんてないじゃああん!」
蓮の華の高校生活は、開始五秒で終了した。
そして異世界生活は、開始五分で死にかけた。




