4450万円
津村は完全に浮足立っている自分に気付き、己を叱咤した。
近藤桃らと別れ、一人駅前でボックス呼吸法を6回も繰り返すと、何とか自我を保つことに成功する。
ボックス呼吸法と呼ばれる平常心を取り戻す呼吸を、昨日から何十回と繰り返すことで、ゆっくりと動揺を抑えることができた。4秒息を吸って、4秒吐くことを4回行うのをワンセットにした呼吸法である。
20秒リセットは再び集中力を取り戻すものであるがボックス呼吸法は平常心を取り戻す効果があるとされている。
甲子園出場の際に襲わった技術であったが、慣れることによって効果が上がっているのを覚える。
津村が動揺しているのは、美紗貴や学園の探索部の件ではない。
八王子のダンジョンから帰ってからの22時間は心がずっとざわめいていたのだ。
津村は24時間前から振り返る。
24時間前、津村は八王子の神藤六角のダンジョンで頼まれてスキルの〈溶解〉を連続して使っていた。
〈溶解〉するために出される素材がとんでもない品しかないのを津村は感じていた。
〈溶解〉する前から魔力の壁を感じさせたり、炎のようなうねりを内蔵してあったりと、津村の認識を揺るがすほどの代物ばかりであったのだ。
一個一個何であるか怖くて尋ねられなかったが、佐加井大学理工学部の川崎の興奮は半端なかった。
「非常に高額な素材ばかりで正気でいられなくなるんだよね! 大学が用意してくれるダンジョン素材の予算の100倍は使われていると断言できるんだよね!」
複数の計測と三台のカメラで〈溶解〉を記録する川崎が興奮しすぎて、津村は少し怖かった。
貴重な黄金ミノタウロスの肉を惜しげもなくふるまうなど、津村は六角が全てにおいてレベルが違う存在だと確信した。
そんな津村に磯子は詫びるように語りかけた。
「まだ津村ちゃんが師匠がどないな人物か判断できないとは思うけど、悪い人ではないと――これだけは知っておいてほしいねんな」
磯子は帰り道で六角がまるで巨大な象のようで、人を踏みつぶしかねないところがあるけど、自分が間で調整するから頼りにしてほしいと言われた。
八王子に連れてこられたことを含め、事態を咀嚼するのに時間がかかると津村は思ったが、少なくとも六角を不愉快だとは思っていないと正直に磯子に話した。
また自分が本当に伝説のリビングギアを作れる存在としたら、六角のような大きな存在を頼るのが賢明なのであろうという考えも伝えた。
「会ったばかりな上にかなり個性が強い人だとは思うけど――悪い人だとは思っていないよ」
と津村はいった。磯子が信頼しているようだし、津村も六角を嫌うことは特にない。
ただやはり津村が六角を受け入れるのにそれなりに時がかかることは事実であった。
帰り際に「今日のバイト代と守秘義務契約代を出すから、サインして口座を教えろ」と六角は告げた。
6時間拘束され、魔力回復ポーションを何度も飲んだのでアルバイト代が出るといったのは嬉しかった。
嬉しかったが、口座に振り込まれた金額を見て、精神がきしむほどの大ダメージを受けたのも事実である。
八王子で〈溶解〉の作業終え、下小山田ダンジョンに17時に帰った時に、見知らぬ番号から電話があったのである。
防犯を考え、通話には出なかったが留守電が入っていた。そこでメッセージを確認すると「神藤六角専属の税理士です。今後は津村も面倒を見ることになりました」という話であった。
その税理士は今日、六角から津村に4450万円振り込まれたことと、今後の税金の相談をしたいことを告げてきたのだ。
税理士との電話の後に、津村は磯子に4450万円のことを伝えるとあきれた声を出した。
「あちゃ~! 振り込んでしもうたんか。うちは『まだやめといて』って言ったんやけどね。津村ちゃん、師匠はあんま難しいことを考えるの苦手やねん。せやから今は4450万円は受け取っておいて。まあ半分ぐらい税金で取られるけど――でも〈溶解〉のスキルには4450万円以上の価値があることはほんまやで?」
と報酬自体は正当だと磯子は言ってきたのだ。
もちろん津村は正常ではいられなくなった。
さっきまで数千円の工面をすることに悩んでいたというのに、銀行口座に4450万円があるという現実に脳がおかしくなりそうになったのだ。
それでもその日は23時には寝て7時に起きたが、すぐにボックス呼吸法を使う状態に陥ってしまう。
4450万円のせいで朝食もそこそこに学校にたどり着くと、津村は色々根掘り葉掘り聞かれるであろう事態に気付く。ダンジョン10階層での騒動から初の登校であるからである。
おっかなびっくり校門を抜けたが、何事も置きはしなかった。
いまだにネットで探索部がリンチとトレインを行った疑惑が渦巻いていたが、学校では大騒ぎには至っていない。
とはいえ、これには理由がある。
磯子の師匠・神藤六角が動いたようだった。昨日別れ際に、六角は「今、津村ちゃんが注目されるのは面倒なので、学校の部ともめたことの火消しをしておくか」と言っていたのだ。
実際にそれから、津村のアーカイブ公開要求やSNSでの言及が急速に数を減らしていったのである。
クラスメイトも今回の騒動を知っているらしかったが、いつもより津村をチラチラと見つめてくるだけにとどまった。こちらはいつも口を利かないという暗黙の了解があるおかげで何も言われなかったのだろうと津村は思う。
津村に疑惑について声をかけてきたのは、話したこともない先輩4名であった。好奇心をむき出しに質問してきたが「現状は大混乱でよくわからなかった。〈凍獄〉本牧美紗貴が一番冷静に現状を見ておられたのでそちらの見解が全て」と答えていた。
教師が津村にマスコミが校門で待ち伏せしているかもしれないと忠告しに来たが、それはなかった。
これも恐らくは六角の影響であろう。
津村は神藤六角が結局何者なのか知らない。
ネットで「神藤六角」を検索したがヒットするものがほとんどなかった。ただトゥルーにきこと川崎助教授によると、ダンジョン黎明期の英雄の一人だという。
一時期、大きくマスコミにも登場していたらしいが、ある時期から表舞台に出なくなったという。
六角は間違いなく大物で、ネットにも日本ダンジョン協会にも影響力があるのは疑いようがない。
だからといって4450万円を受け入れるわけでもなかった。六角が大雑把といっても、高校生が受け取るにはあまりに高額過ぎる。
もちろん学校でも、もはや探索部のことには意識が行かず、4450万円のことばかりを考えてしまっていた。
近藤桃達の護衛も務めたが、あまり集中できずに終えてしまう。それどころかところどころ記憶がない有様であったのだ。
4450万円もらったことで辛いのは、磯子以外に相談してはいけないことであった。両親に云う前に税理士と諸々相談しなくてはいけなかったし、当然相南にも話してはいけなかったのだ。
これはなかなかに辛いことであった。正直大金を受け取っても嬉しい実感はまるでない。意味不明な罪悪感で心が無駄に疲れてしまう。
津村は大金を持つということがいいことばかりではないのだと、この時はじめて気づく。




