終止符
とつぜん、オレはあることに気がつきます。この話はこのことを思いついて書き始めたんじゃないかと思います。まあ、良くある悲恋ですね。
やけにオットーのドラムが走る。
変だなと思ったのは、サラがブルークリスマスを歌い始めてすぐだった。曲目はハードなものからソフトのバラードへと移って行き、オットーのおふくろさんがリクエストしたりして、会場全体にリラックスした雰囲気が漂い、ミニコンサートは盛り上がってきていた。
時間はもう三時をずいぶん過ぎていたと思う。途中でマスターの入れたコーヒーを啜っただけで、オレたちは二時間余りを休みなくメロディーとリズムの中で呼吸していた。
レイが、一曲終わるたびにオレたちに目配せをして、小休止の合図を送るのだが、その度にオットーのスティックは次のナンバーへの拍子を取り始めて、オレたちはいつ果てるともないジャムセッションに引きずり込まれていた。
ブルークリスマスのスリーコーラスに入った時、レイが真剣な眼でオレの方を見ているのに気がついた。レイもオットーの変化に気がついたようだった。ジムもまたオレを見てうなずいた。背を向けて歌っているサラのことはわからないが、みんなオットーが少しばかり異常なことに気が気がついたに違いない。
そう気づいてから、ラストコーラスまでがオレには、とてつもなく長い時間に感じられた。
やがて背中の割れたサラのドレスがゆっくりと前に折れ曲がって拍手が湧き上がり、オレはまだ共鳴しているピアノの鍵盤を閉じた。オットーに、もう弾かないよと伝えるために、はっきりと音を立てて。
「休もうか」とレイがオットーに声をかけた。オットーは肩で息をしながら黙ったまま、スティックを握り締めていた。まだ、演奏りたいとその表情は言っていた。
「アンコール、アンコール」
マスターが手を叩きながら叫んだ。オレはその無神経ぶりに腹を立て、ありったけの憎悪を込めて睨みつけたが、酒が入って、ますます脳天気になり、雇い主にゴマをするチャンスと勢い込んでいる男には通じるわけもなかった。
釣られて拍手がひとしきり起こった。他の店を休業にして集まっているウェイトレスや、バーテンダーたちがオットーのおふくろさんに遠慮しながら 手を叩いているのがよくわかった。
「続けてちょうだい」
おふくろさんはためらった末に、きっぱりした口調でレイに言った。レイは言い返そうとしたが、その言葉は、盛り上がって強くなった拍手にかき消された。
オットーはもう限界に来ていると、オレたちは感じていた。疲れきって、リズムは狂い始めているのに、わけのわからない何かがオットーを急き立て、ものに憑かれたように先へ先へと追い立てているのだ。
「オーケー」
しかたなく、レイはオレにピアノの蓋をもう一度開けるようにと合図した。
「何か軽いものを一曲やろう。それから休もう。何がいいかな」
「Yesterdayで いきましょう」
サラが提案した。ビートルズは、もう否応なくオレたちのレパートリーに入り込んできていた。JAZZだとかROCKだとか、いや、CLASSICを含めたありとあらゆるジャンルを飛び越えた存在になりつつあった。
いいぞ、とオレは思った。ドラムの負担の軽い曲だ。
「いいね。それで行こう。オットー、準備はいいかい」
レイはコントラバスボンボンと拍子をとって叩いた。
「ブルーサンズが演奏りたい」
オットーが、首を横に振って聞き取りにくいかすれ声で言った。
レイは顔をしかめた。
ドラマーにとって、これほど演奏りがいのある曲もないだろうが、今のオットーには出来ればやらせたくない。特に退院して間もないオットーには、病院へ逆戻りの可能性すらある。オレたちは互いに顔を見合わせ、誰が止めるかを探りあった。
「ブルーサンズだ」
オットーはもう一度言った。口調に、かすかに咳き込むような気配があった。オレはレイに首を横に振って見せたが、レイはオットーをしばらく見つめていて、それから肩をすくめた。
こうなったら、誰も説得できない。言い出したら聞かないのは、甘やかされて育ったお坊ちゃまの特質だ。
「ジム、クラリネットだろ。君は拍子木を取れ」
レイはジムとサラに声をかけて、それから、しかたないな、というようにため息をついた。
チコ・ハミルトン・クインテットでは、バディー・コレットがクラリネット、ジム・ホールがギターを演奏っていて、ピアノは無い。死んだ堀越は、ギターのセクションをピアノに置き換えた手書きの楽譜を残してくれていて、オレは何度か苦労しながら演奏したことがあった。
急に場内が暗くなった。マスターが気をきかせて、客席のほうの明かりを消したらしい。舞台は真上からのスポットライトでまぶしいくらいだ。
オットーのマレットが、あの独特の怪しいフレーズを流し始めた。
サラの拍子木が乾いた感じで食い込んでいく。ジムがいつになくうまい調子でリズムに乗ってきた。最初の山場では オレのピアノのスタッカートがよく切れた。レイのベースがオットーのマレットと絡み合って腹の底に響いてくる。
やがて、オレのピアノとジムのクラリネットがクライマックスに至る上り坂を駆け上がりはじめると、オットーのドラムも後を追いかけるように強く、急ピッチに、強く、力強く、熱い風が吹き上げてくるかのように。
クライマックスの寸前で、ドラムが遅れ急激に途絶えた。
オレはスポットライトの中で、白い薔薇を深紅に染めながら、ドラムセットの中に崩れ落ちていくオットーを、まるでスローモーション映画を見ているような、遠い現実味のない情景として眺めていた。
サラと、おふくろさんの悲痛な叫び声が、ぷっつりと切れたその曲のクライマックスとなった。
外は明るかった。
冬の午後三時半は暗いもの薄暗いものだと思っていたが、闇の中から這い出してきたオレたちには日差しが眩しく、オレたちはうつむいて、救急車の走り去った方へ向かって歩き始めた。
「今度こそ、死ぬな」
レイが、大きなオーバーコートの中にサラの細い身体を包み込みながら、つぶやくように言った。
オレを含めて誰もその言葉に抵抗しなかった。いつかこんなことになるだろうとオレは思っていた。そしてそうなることを半ば恐れ、半ば期待していたのかもしれない。
こんなことでもなければ、今ある全てが変わらないまま、オレの青春がそのまま押し流されてしまいそうに感じていたからだ。
オットーのおふくろさんとマスターの鳥居は、救急車に同乗して行ったので、店を閉めるのにオレたちはてんてこまいさせられた。ぶっ続けで演奏った約二時間半の緊張が、オレたちを思ったよりずっとひどく疲れさせていた。
ビルとビルとの谷間に差し掛かると、冷たい夜風がオレたちのコートの裾から潜り込んできて、背中のあたりを凍えさせた。
「あの時のママさんはすごかったなぁ」
ジムがコートの襟を立てながらオレに言った。オレは、声を出すと寒さが余計に身に染み込むような気がしたので、黙って頷いてみせた。
ジムの言うのは、あの混乱のすぐ後で、オットーのおふくろさんが見せた態度だった。
口から血を吐きながらオットーが倒れたのを、おふくろさんは真正面から見ていたはずだ。彼女の悲痛な叫び声を、オレは非常に鮮明に覚えている。
コントラバスを放り出して駆け寄ったレイに、上を向かせちゃダメよと叫んだこともだ。上を向かせると血が吐き出せなくて窒息してしまうんだそうだ。
多分、恐ろしく高価なコートの袖でオットーの口のあたりを拭って、マスターに一一九番に電話するように言い、集まっていた女の子や、他店のマスターたちに帰るように命令した時の彼女は、必死にスティックを操っているときのオットーの表情に、非常に似通った人間の苦痛の限界といったものを見せていた。
オレのおふくろも、あんな顔をすることがあるんだろうかとオレは思った。
女ってのはみんな、本性はあんなものかもしれない。女の方が原始的な本能を心の中に残しているらしい。確かヘミングウェイだと思ったが、戦争が起ころうと、女は朝、昼、夜の食事のことを考え続ける、という言葉がある。ずっと古い、ギリシャからローマの誰かの言葉かもしれないが、女には絶対に男には真似のできない特質がある。だからこそ男は女を求め、女は男を自分の胸の中で生活させる。女はいつも男の無能ぶりをバカにしながら、その生きることの無能さのゆえに男を愛するのだ。
歩き続けながら、オレはふと、オットーには愛する女と愛してくれた女がいたのか、と考えた。
オレは、その時、突然すべてがわかったような気がして、反射的にレイのコートの中で肩を丸めているサラを振り返った。
レイが、びっくりしたような顔をしているオレを見て、なんだ、と言いたげにうなずいた。
オレはちょっと慌てて、首を横に振り、また前を見て石畳に目を落とした。
オレは多分、間違ってはいないだろう。自分の確信に結びつくあらゆる場面を思い出そうとした。
あの日、土砂降りの中で、自分の身体なんかどうなってもいいと思いながら、オットーはサラを、サラだけを待ち続けていたのだ。
オレは今になってそう確信した。
サラがレイの胸に胸に抱かれながら、幸せそうな口調で、ごめんねオットー、心配かけて、と言うのを聞くために。
彼は冷たい雨に打たれながら、何時間も待ち続けたにちがいない。
サラの血のついたハンカチを握りしめていたのには、意味があったのだ。
オレは、強烈なカウンターパンチを喰らったかのようによろめいた。
オットーの情念が、オレの心の中で増幅し、より激しく甦って、胸の中で嵐となって吹き荒れた。
「どうしたい」とジムがオレの腕をとってきた。
オレはむせ返るような感動の中で、無理に笑ってみせた。
「何でもない。ちょっと死にかけただけさ」




