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紅いドラム  作者: 國栖治雄
13/14

 永遠の別離

 病院は伏見通りを越えた裏通りに、寂れ果てた佇まいの中で血の匂いをプンプンさせていた。消毒液の匂いがオレを参らせた。

 多分、まだ若いんだろうが、疲れ果てた表情の看護婦が、オレたちをオットーのおふくろさんの所へ案内してくれた。

 看護婦ってのは、なぜあんなにも無表情で無感動、その上いかにも老成した感じなんだろう。それになんとも色っぽいってのはどうしてだろう。白衣の中でどことなく、投げやりな、あばずれた感じがするのも、おかしな話だ。彼女たちのスリッパみたいな靴は、ラバーがくっついているみたいで音がしないのに、オレたちの与えられたスリッパは、コンクリートの上で乾いた高い音を立てるのは嫌がらせだろうか。

 おふくろさんは、オレたちを見て優しく、でも弱々しく笑った。オレはなんだかぞっとして顔を背けた。乾いてひび割れのある薄茶色のベンチシートに腰掛けた彼女は、小さく見えた。短く刈り込んでウェーブをかけた髪が、青ざめて汗を浮かべた額にべったりと張り付き、急にやつれた彼女の顔はいっそう老けて見えた。

「あの子が手術室に入ったので、マスターにはお店に帰ってもらったのよ」

 彼女はそれだけ言って顔を伏せ、オレたちはうなずくことも忘れて、ずいぶん長い間立ったままで、まだ彼女が何かを言うはずだと思って待っていた。

 やがて看護婦の一人が、手術中のランプのついている部屋から抜け出してきて、オレたちを見回し、「どなたか血液型B型の方は」と尋ねた。

「足りないんですか。血が」

 おふくろさんは妙にゆっくりと落ち着いて聞き、看護婦がためらって言いよどんでいると、「私、B型ですよ。前にもあの子には血をあげたんですから」と告げた。

「オレもBだと思うんだ。中学の時に調べたきりだけど」

 オレは看護婦の腕を思わず掴んで言った。

「オレは自分の血液型を知らないな」

 ジムが当惑したような表情で言った。いかにもすまなそうな言い方に、オレは奴をかわいいと思った。

 レイとサラも自分の血液型を知らなかった。

「マスターはどうですか」とオレは勢い込んでおふくろさんに聞いたが、彼女は黙って首を横に振った。

「どれぐらい足りないんですか」

 サラが白衣の背中に聞いた。

「日赤からの血液が届くまでに、五、六百CCあれば、と先生がおっしゃっていますが」

「いつごろ届くんでしょう」

「もう向こう出ているはずです。三十分ぐらいかかるでしょうね。ただ」

 看護婦の言い方は自信に溢れているとは言えなかった。

「血液は二週間しか保存が効かないんです。できるだけたくさん届けてもらうようにお願いしているんですが」

「早くしよう」

 レイがオレの肩を小突いて言った。

 オレたちは、その看護婦について隣の部屋に入った。石油ストーブに火をつけて看護婦は出ていき、冷え切った広い部屋で、オレたちは一時間とも思える長い間待った。

 医者が出し抜けに部屋に入ってきて、後から来た看護婦が、オレとおふくろさんをまるでクッションのないベッドに寝かせ、手際よく耳を切って血を少し取った。医者はほとんど無言で、ガラス板に散った血にスポイトで液を加えたり、顕微鏡で覗き込んだりした。

「いいだろう、お母さんは少し疲れてらっしゃる。君から始めよう」

 医者は、上着を脱ぐようにオレに言い、ひと通りオレの身体を診ると、看護婦にオレを引き渡した。

 オレは隣の部屋に連れて行かれ、むせ返るような消毒液と血の匂いの中で、衝立のこちら側のベッドに寝るように言われた。

 床はタイル張りで、壁はどこも真っ白だった。

 天井から無影灯がせり出していて、トンボの複眼をお化けにしたようなそれは、ほんのちょっとオレに怖気を感じさせた。

 鉄のパイプに白いカーテンを吊しただけの衝立の向こう側では、血に飢えたメスが、オットーの肉体を切り刻んでいるのだと思うと、急に吐き気がしてきた。

 若い医者が、無表情な眼差しでオレを覗き込み、「別に痛くないはずだが、全く感じないってわけでもない。気を楽にして、身体の力を抜いて、ただ横になっててくれればすぐ終わるよ」と言った。

「耳から取るんですか」とオレが聞くと、「あれは検査の時だけ。腕からだよ」と感情の欠片も感じさせない言い方で説明しながら、オレの身体にシーツをかけ、腕にゴムを巻き付け、橈骨(とうこつ)の付け根をアルコールで強く擦った。

 そこだけがやけに寒いなと思った途端、針がオレの筋肉に突き刺さった。嘘をつけ、やっぱり痛いや。とオレは思った。ゴムが緩みオレの腕は急に熱くなった。


 空虚さがオレの心を支配していた。

 オレが横になっているベッドからは、日が暮れていく外の空風景がよく見えた。

 ベッドの横にはサラとジムが座っていた。

 レイは調べてみるとB型だったそうだ。日本人は二割くらいしかB型はいないはずなのに、ここはB型だらけだな、とジムが笑った。

 おふくろさんの次にレイがあの無影灯を見上げることになっていると、サラがぽつりぽつりと教えてくれた。

 ビタミンとブドウ糖を注射されて、オレはお払い箱ってわけだ。ビタミンがオレの口の中が薬臭くしていた。

 身体全体に気だるさがあった。乾ききった口の中を、舌で湿らせながら、オレは何か大切なことを忘れているような気がしていた。

 それは紙に書いて頭の裏側に貼り付けておいたはずなのに、今、その紙は裏返しになっている。そんな感じだった。


 いつの間にか、眠っていたらしい。オレは意識を取り戻した。

「オットーはどうなったんだろう」

 誰に尋ねるのでもなく独り言のように言ったオレに「まだ手術が終わらないのよ。日赤から血液は届いたようだけど」とサラは、起き上がろうとしたオレの肩を支えながら教えてくれた。

「助かる見込みはあるのかな」

「ずいぶん無理してたからなあ」

 ジムはロングピースをくわえたものの。火を点けるのを忘れているようだった。

「どれくらい眠っていたんだろう」

 オレたちの中で時計を持っているのはレイとサラだけだ。

 前にオットーも盲人用の時計を持っていたそうだがオレを見たのは壊れたものだった。そういえばオットーは盲人用と名のつく物を極端に嫌っていたようだ。

 ひとりっ子のわがままなのか、将来の頑固さなのか、オットーには妙にきっぱりしたところがあった。こうと決めたら、決して引き下がらない一徹さが、こんな不幸を呼び込むことになったのだが、それでもきっと後悔なんかしていないだろう。

 隣の手術室がちょっとざわめいたかと思ったら、扉が開いて、真っ青な顔のおふくろさんが、看護婦の助けようとする手を振り払って出てきた。

「人によっては気分が悪くなることもあるんです。しばらく横になっててください。お願いします」

 看護婦はサラに命令して戻っていった。

 すりガラスをはめ込んだ扉が、コトリと音を立てて閉まるのをおふくろさんはじっと耳をすまして聞いていた。サラが黙って彼女の腕を取り、オレは慌ててベッドから降りた。おふくろさんは小さな声で、ありがとうとだけ言ってベッドに座った

 ジムが思いだしてくわえ続けていたタバコに火を点けた。

 薄暗くなった部屋の中に、紫色の煙が揺らめいて登っていくのがおぼろげに見えた。

「私にも一本くださる」

 おふくろさんは優しい口調でジムに言った。ジムは戸惑い、それから慌ててポケットを探り残り少なくなったロングピースの箱を引っ張り出して、彼女に差し出した。

「これで私にできることは全部やったわよね」

 確かめるように言って、彼女は大きなため息を、タバコの煙とともに吐き出した。

 それから首をかしげて、しばらく黙っていた。急に彼女が顔を上げてサラを見つめて、何かを言おうとしてやめた時、オレはその表情の中に深い苦悩の情念を見た。

 彼女は立ち上がって、自分のハンドバックを探って手帳を取り出し、なにごとかを書き込んでサラに渡した。

「ここへ電話して、すぐ来るように言ってくださいな」

 理由を尋ねることが許されない種類の頼みだと、オレは思った。

「あの子が」と言いかけて彼女はためらった。それから一言一言区切るようにして言った。

「あの子が今度ばかりはダメなようだって」

 サラは無言でうなずいた。

 おふくろさんが差し出した十円玉を握って、サラは公衆電話を求めてロビーの方へ出て行った。その後ろ姿を目で多いながら、おふくろさんはまた大きなため息を一つ吐いた。

 オレたちは座り込んで何かを待った。


 オレがぼんやりした脳細胞に、涼子の記憶を取り戻したのは、夜の九時を回ってからだった。

 手術はまだ続いていた。途中で黒く固まった血の跡のついたエプロンを隠そうとしながら、いかつい顔をした医者が出てきた。

「手術は終りました。患部に詰まっていた血栓は完全に取り除きましたが、クランケの体力が非常に消耗しています。このまま、もうしばらく様子を見ることにしました」とだけ報告した

 おふくろさんは黙ってかすかにうなずいた。そして、戻ろうとした医者に「助かりますか」と聞いた。

 医者は、じっと彼女を見つめて「全力を尽くします」と、自信を感じさせ、人に安心感を与える言い方で告げた。

 だが、その後で彼が付け加えた言葉でそいつは帳消しになった。

「念のため、ご親族の方を呼んでおいていただいても結構です」

 ショック受けただろうと思ったが、おふくろさんは平然として見えた。

「もう呼びました。ありがとうございます」

 医者はちょっとの間、立ち止まったままうつむいていたが、やがて静かに扉の向こうに消えた。


 午後十時ちょっと前に、彼はやってきた。

 細身の背の高い、五十歳を少し超えたくらいの品の良い紳士だった。すっきりと着こなした地味なスーツは、彼の社会的な地位の高さを示していた。

 看護婦に案内されて部屋に入ってくると、オレたちをゆっくりと見回し、軽く頭を下げた。

 白いところがちらほら見えたが、年の割には長めの黒い髪が額に垂れ下がって、緊張した顔を若々しく見せていた。

 おふくろさんは彼を、しばらく思い詰めた表情で見つめた。

「あなたたち、そろそろ引き取っていただいて結構よ。本当にありがとう」

 彼女は立ち上がってサラの肩に手を置いた。

「あなたたちがいなかったら、私には何もできなかったわ。あの子がもし助かったら、今度こそゆっくり休ませるわね、わがままを言わせないようにしてね」

 微笑を浮かべ、落ち着いて話しているのに、オレは彼女が泣き出しかけているのに気づいていた。オレまでが、どうしたわけか悲しくなってきて、天井を見上げた。

「だから、あのお店のステージは閉めてしまうつもりよ。今月分と、今までのお礼はマスターに預けておくから、いつでも取りにいらっしゃい。突然でごめんなさいね」

 オレたちは何も言えないまま、うなずいた。

「明日になったらはっきりするでしょうから、お知らせするわ」

 それから、彼女はレイに何枚かの千円札を握らせて、みんなで食事をするように言い、もう一度、ありがとう、と頭を下げた。

 オレたちは夢の中を歩いているような気持ちで、入り口に立っている紳士の脇をすり抜けて部屋を出た。戸口で振り返ると、おふくろさんは悲しげに微笑してみせた。レイが扉をゆっくりと閉め、オレたちをそのまま何も互いに言葉も交わさず外へ出た。

 病院の中も寒かったが、外は雪でも降りそうなくらい冷えていた。

 栄町の方へ歩きながら歩き出しながら、オレは涼子のことを考えていた。彼女はまゆみに連れられて、GOODMANSに来ただろうか。

 いくらなんでも、もう帰ってしまっただろう。アパートに訪ねて行ったら、彼女は迎え入れてくれるだろうか。それともオレを待つなんて気持ちは全くなくしているだろうか。

「少し飲もうか」

 レイが言った。

 正直なところ飲みたい雰囲気じゃなかった。

 レイも含めて、みんなそうだっただろう。だけど誰も反対しないまま、レイは最初に見つけた飲み屋の前で立ち止まり、ジムが思い切って戸を開けて中に入った。

 冷酒を三杯ずつと、イカの足の真っ黒に焼いたのとを、黙りこくって平らげると、オレたちは外へ出て、また歩き始め、栄町の交差点でジムが女のアパートに帰っていくと、オレもレイとサラに別れを告げた。

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