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飛輪から解放された金城をまず襲ってきたのは浮遊感、それが瞬きする間に落下していく感覚に置き換わる。その瞬きの間に金城は目測で自分の体が地表から三十メートルほどのところに投げ出されたのだと理解した。同時に落下地点から数メートルずれた場所に金城が放り出された地点より低い崖があることを確認する。
金城は飛輪に飲み込まれる寸前に使い損ねた紫金に霊力を込め大鎌の刃先を伸ばし、その刃を崖の岩肌に突き立てた。紫金は凄まじい轟音と抵抗を作り出しながら岩肌を削っていき、落下速度がある程度落ちてきたところで金城は紫金を解除して崖下へと着地する。
周囲を見回してみるが人影一つ見当たらない。仮に第三者が居たとすれば今の落下劇について説明をしなければならなかったからその必要が無いと思えば都合が良かったが。
続いて金城は自分が着地した地面へと目を落とした。金城の腰の高さほどの藪が一面に茂り、その下には落ち葉が幾重にも積み重なった柔らかい土があるのが靴越しに伝わって来る。更に少し目を凝らせば倒木や立ち枯れした木が幾つも放置されているのが見えた。人の手が入っている山であるようには到底見えない。
「繧繝め、何がハイキングだ」
してやられたという苦々しい気持ちで溜息を吐き出しながら金城は苛立ちを収めるために懐から煙草の箱と携帯灰皿を取り出した。
無論金城としても繧繝がハイキングなどという遊興を提供したとは微塵も考えていなかった。これはそんな優しい術ではない、あの術で同様に落とされたのが一般人だったら転落死を遂げていたに違いないのだから。ならば繧繝が自分のことを殺すつもりだったのかと問われればそれも違うと金城は考える。殺すつもりならばこんな回りくどい方法を使う必要が無い。理由は分からないが繧繝は、そして如月妃芽は、自分をあの場から遠ざけたかったが殺すつもりは全く無かったのだ。こちらは最悪殺すことも厭わない覚悟で臨んでいたと言うのに舐められたものだ。
それにしても瞬時に人間一人分の質量を遠くに飛ばすなど何とも出鱈目な術式だ。たった一回の発動で甲級の霊力保有量に匹敵する霊力を消費するようでは実用的とはとても言えない。仮に思いついたとしても実行する人間は当代繧繝以外は存在しないだろう。と言うよりも膨大な霊力を消費するあの術は繧繝の地位に居る者でなければそもそも扱えるものではないと金城は判断する。つまり繧繝衆に属する者であっても同じ術を扱うことは出来ない、そして繧繝自身であっても連発することは不可能だと思われる。限られた状況下でなければ警戒する必要は無いだろう。
煙草をくわえ火を点けようとしたところで金城が持つ端末が振動し着信を知らせる。随分と奥深い山中だったので電波が入ることを想定していなかったが、落下の際に肉眼で市街地が見えていたのだから考えてみれば当たり前の話である。金城は自らの認識の甘さに少し脱力感を覚えながら通話ボタンを押した。
「私だ」
『伯父上、ご無事ですか』
電話の相手は分家筋の金城宗司、金城清にとって甥にあたる人間だ。甲級捕獲の指揮を任せた宗司がこうして電話を掛けてくるということは捕獲が終了したことを意味する。それが成功か失敗かなど考えるまでも無い。
「甲級は逃したか」
『申し訳ありません、俺の力が及びませんでした。いかなる処罰も受けます』
「いや、いい。今回は不測の事態が多かった。それにそちらを離れた私にも非がある」
元々甲級の捕獲には術封じが必須だった。宗司がまだ術封じを完全に扱えない以上、いくら効果範囲が広いと言っても金城は迂闊に離れるべきではなかったのだ。しかし白金の不在により戦力が心許ない状況で黒金の回収に動かないという選択肢は金城には無かったし、黒金を容易く倒し金城を挑発する材料にするような相手を放置するわけにもいかない。結果として金城はあの場を離れ単独行動せざるを得なかった。つまり学校で黒金に如月妃芽を追わせた時点で彼女の計算の中だったと言うことだ。
「損害は?」
『死者は鬼を含めて出ていませんが一名が重傷、鬼一匹が角を一部折られました』
宗司の報告を聞きながら金城は煙草の先端に火を点ける。
鬼の角を折っておきながら殺していないというのは少し気になるところだ。大体の鬼は闘争本能の塊で命のやり取りを好む傾向にあり、勝者は敗者から角を奪い己の糧とすると言うのが基本的な鬼の考え方だ。主を持つ鬼ならばその辺りの行動も主となった者の意向に従うが、主を得ていない鬼が倒した鬼の角を半端に折るだけで済ませると言うのは少しばかり不自然な話である。
『伯父上が別行動に移ってから予定通り甲級を消耗させていましたが途中から乙級が乱入し、伯父上の術封じが切れると同時に甲級はその乙級と共に逃亡しました。負傷者を出したのはその乙級です。戦力的に追撃が難しいと判断し術のみで追跡を掛けましたが途中で何者かに術が解除されたようで対象を完全に見失ってしまいました。逃亡した方向は把握しているのでこれからそちらへ向かって索敵を、』
「待て、今何と言った?」
『…申し訳ありません。逃した上に追跡も満足に出来ないなど、』
「違う、その前だ。乙級が乱入してきた?」
聞き返しながら金城の背中に嫌な汗が伝う。如月妃芽の側に居なかった彼女の鬼、そして金城が堤防に上がったとき彼女が見ていた方向。判断する情報としてはあまりに少なく不確実な内容だ。あり得ない、そう思いながら沸き上がる不安を無視することが出来なかった。
『はい、角が青い乙級でした。特徴からして今日伯父上が見た鬼と同じ鬼だと思われます』
その言葉を聞いて、まさか、と思う反面、やはり、と思っている自分が居ることに金城は素直に驚き、そしてそれは正当な評価だと考える。
金城が如月妃芽の元に行った時彼女の鬼は側に居なかった。あの時金城は自身に不意打ちを仕掛けるのではないかと警戒していたがそうではない。最初から彼女の狙いは金城ではなく甲級の捕獲を阻止することだったのだ。金城をあの場から引き離す為に大将である自らの身すら囮として使い、手薄になったところで彼女の鬼がまんまと甲級を助け出す。甲級が乙級と共に逃亡したということからして甲級は彼女の元に下ったと考えた方が良いだろう。普通ならば助けたとして甲級の鬼が易々と従うとは思えないが、相手は如月妃芽だ。繧繝を二区から引きずり出し守護四役を裏切らせるような謀略家である。想像の範疇を超えた行動と結果を簡単に引き出して然るべきだと考えた方が良いだろう。
金城は自分は恵まれた人間だと思っていた。金城家の当主として日々の研鑽は惜しまなかったし、その努力が無駄にならないだけの才能もある、周りを従える能力とカリスマもあると自負している。
だが如月妃芽という怪物はそんな金城の自信を真正面から瓦解させてみせたのだ。
『伯父上?如何されました?』
黙り込む金城を気遣う宗司の声が電話越しに聞こえる。宗司だけではない、重傷を負った一名以外がその場で金城の判断を待っているのだ。守護四役第三席。金城家当主。先頭に立つ者として迷うことも判断を誤ることも許されない。
そして今回は明らかに自分たちの分が悪い。
「作戦は中止だ、撤退する」
『は?ですが、それでは…』
「今回は我々の負けだ。相手が悪い、そしてその相手の情報も少ない。戻ってから話すが今日一日で状況もかなり変わった。深追いは無用だ、戻れ」
『…分かりました、撤退します。戻った際に詳細を聞かせて下さい』
宗司との通話を終えた金城は一枚札を取り出し黒金に向けて術で帰還命令を送る。そして携帯灰皿に一度灰を落としてから一息煙を吸った。
こうして撤退することさえ如月妃芽の策の内なのだろう。それが分かっていながら撤退を選ぶことしか出来ないことが酷くもどかしい。しかし相手の意表を突きたいがために自らの後継にしようと育てている人材を使い捨てるなどメリットが少な過ぎる。
煙が肺を満たす感覚を味わいながら金城は敗因を考える。
彼女との初対面、あの時にどこにでも居そうなあの少女が稀代の怪物であることを想定出来ていれば何か違ったのだろうか。いや、無理だ。二区から提供された彼女の資料からしてもそんなものは片鱗すら窺えなかったのだ。事実、繧繝でさえ彼女が鬼の主である認識が無かったような口ぶりだった。周到な彼女が紙切れの資料からその才を読み取らせるようなヘマをするはずが無い。
あの時、如月妃芽と二度目の対面をした時に白消が発生しなければまだ勝機はあったかもしれない。白消さえ無ければ繧繝を抑え、如月妃芽の身柄を確保あるいは始末することが出来たと言うのに。せめて白消が発生したあの時、前兆か何かさえ感じ取れていればあるいは何か変わったのではないか。いや、不可能だ。一体誰があの時あの場で白消が発生するなど予想出来ただろう。今回ばかりは運が悪かったとしか、
「……いや」
あの状況を想像できる人物が居たとして、それは誰か。
あの時あの場に最初に居た人物は誰だったか。
自分は一体誰に誘導されてあの場に行ったのだったか。
そう考えた時、金城の頭に真っ先に少女の姿が浮かび鳥肌が立つ。今回の一件は全てが如月妃芽の掌の上だった。そう考えれば説明がつく。
如月妃芽はあの場で白消という埒外の災害が起こると最初から分かっていたのだ。金城から逃げることが目的であれば学校の呼び出しとはいえ応じずに逃げ出せば良い。それをわざわざ一度金城の前に姿を見せた上で挑発してみせた、まるで彼女自身に警戒心を向けさせるように。そして金城をあの場に誘導し、繧繝自身に守護四役の離脱を表明させる。その上で白消によって術封じをかき消し金城を戦線から遠ざける。
結果として如月妃芽は今回の一件だけで一切の損害を出さずに繧繝衆をいう強力な後ろ盾と甲級の鬼を手に入れて見せたのだ。
「くそ、なんてことだ」
金城は気持ちを落ち着けるように吸った煙をゆっくりと吐き出す。
仮にそうだとすれば白金は恐らく生きていないだろう。今回の彼女の作戦は白金が生きていれば実現不可能なものだ。そんな障害を彼女が捨て置くわけが無い。そもそも第三席である金城が自ら彼女の居る学校を訪ねたのも元を辿れば白金失踪の手がかりとなればと考えていたからだ。金城の誘導と邪魔者の排除、白金を始末することは彼女にとって一石二鳥だったに違いない。
勝敗は戦う前から決まっていると言うがこれほど鮮やかにしてやられたことは無い。それも自分の半分も生きていないような子供相手にである。自分より強い人間や自分より才覚溢れる人間を金城は何人か知っている、例として挙げるなら繧繝もその一人だ。だがたった一戦でここまで絶望的な差を感じたのは初めてだった。同じ時代に生まれてしまったことを恨まずにいられなかった。せめてあと十年遅く生まれていてくれたらと願わずにいられなかった。
だが金城がそれを口にすることは無い、言葉に出さないことが敗北した金城にとってせめてもの矜持だった。
「完敗だな…。見事だ」
頭が冷えて一番に出てきた言葉は素直な称賛だった。これから先、自分はあれを相手にしなければならない。腹の中に虫を飼うつもりは無いと考えていたが、今になると敵に回すくらいならば腹の中で飼っていた方がましだったのではないかと思えてしまう。
金城は煙草をくわえ敗北と共に煙を味わってから、その火をそっと灰皿の中に消した。




