4
事態が急変したのは学校が終わってから。
帰宅するなりそれまで私の側に控えていた瑠璃が私を追い越してずかずかと家の廊下を進んでいく。驚いた私が靴を脱いで慌てて後を追いかけるとリビングは既に瑠璃のものと思われる術の刃で埋め尽くされていた。私がその光景に対して文句を言うより先に、紅玉が私にドラマの感想やお帰りを言うより先に、瑠璃のキセルが紅玉の鼻先に突きつけられる。
「お前のような害悪を野放しにした僕が馬鹿だった、今すぐ表に出ろ。息の根を止めてやる」
朝の不機嫌など可愛いものに思えるほどすごい剣幕で瑠璃が紅玉を睨みつけた。それに対して紅玉は臆した様子を微塵も見せずに、どころか、面倒くさそうに瑠璃を睨み返す。しかし睨み合ったのもほんの数秒で紅玉の視線はすぐに私の方へと向いた。
「貴様が莫迦だということは否定のしようも無いが…主よ、どうしたのだ此奴は。元々正気とは言い難かったがとうとう気でも触れたのか?」
「ふざけるな!妃芽の体に傷を付けておいてっ!顔を見せることすら図々しいというのに側に居座るなど恥を知れっ!!」
鬼気迫る表情の瑠璃が紅玉の胸倉を掴む。紅玉はそれを振りほどくことすらせず、やはり煩わしそうに溜息を吐き出すだけだ。
「側に侍ることが図々しいか否か、決めるのは貴様ではないだろう。主の裁量を勝手に推し量るとは烏滸がましいにもほどがあるな」
「死ね、死んで詫びろ!お前の命程度で贖えるものではないが命を以てして玉体に傷つけたことを償え、痴れ者が!」
「主への謝罪であればもう済ませた。そして貴様にする謝罪など一つとして無いわ」
紅玉からこの件に関して謝って貰った記憶は無いのだが言い出せる状況ではない。瑠璃の怒鳴り声に体が竦んで動かない。止めなければ、そう思っているのに声を出すことすらままならなかった。
そんな私の状態に気付いた紅玉がこんな緊迫した状況下に相応しくない柔らかく麗しい微笑みを浮かべた。瑠璃に一度負けているはずなのにどうして笑ってられるのだろう。どうかと思う、正気を疑う。
「案ずるな主よ。此奴はじきに……ほら見ろ、来たぞ」
紅玉がにっと口の端を上げる、さっきの柔らかい笑みと違って悪巧みが成功したような笑い方だ。
それと同時に、瑠璃が出していた術が砂細工が形を崩すように散っていった。
「………くっ…!」
何が起きたのか理解するより先に今度は瑠璃が額に脂汗を浮かべて膝をつく。苦しそうに呼吸を乱し、それでもなお紅玉を憎らしそうに睨みつける。そんな瑠璃を扇子で口元を隠した紅玉が馬鹿にするように見下ろした。
「ふん…昨晩の狩りに家の結界、認識の阻害、物見の妨害。そして今繰り出した術。まあ、貴様にしては粘った方ではないか?」
「っ…黙れ!!」
指を折り何かを数える紅玉に瑠璃が唸る。殺気はそのままに、けれどもさっきのような覇気は既に無い。部屋を満たしていた術も消え、少なくとも目に見える危険は去ったと思って良さそうだ。
恐怖を出し切るように肺の中にある空気を絞り出し、息を深く吸う。恐怖はまだ残っているが動くことは出来るし声も出せそうだ。
残った恐怖をなるべく表に出さないように、私は紅玉に静かに問いかける。
「…紅玉、何したの」
「儂は何もして居らぬ。人間に体力の限界があるように鬼にも術を使う限界があるということだ。そして此奴は限界まで力を使い切った愚物というだけの話よ。儂とこの愚物とでは力の量に天と地ほどの差があるでな、儂と同じ働きをしようとすれば此奴の力がすぐさま底をつくのは必然だ」
私が知らない間に紅玉が何か働いていたらしいことに密かに驚きながら、瑠璃が紅玉に地力で劣ると言っていたことを思い出す。朝、家の結界を張り直したのは瑠璃だった。それを張り続けたままというのは紅玉にとっては何でもない事であっても瑠璃にとっては負担になるということなのだろう。
「戦いは逸品だが他がお粗末だったな。まあ、短い間だったが同じ主に仕えた誼だ。苦しまぬように送ってやろう」
やっと一息つけると思った矢先、悪辣な笑みを浮かべた紅玉が瑠璃の角に手を掛けた。
それが意味するところに気付いて慌てて紅玉の手首を掴んで制止する。
「紅玉!何してるの!!」
「殺すのだ。此奴から仕掛けたのだから主も文句はあるまい」
「絶対ダメ!何で文句言わないと思ったの?!喧嘩しないでって言ったでしょ!!」
私が怒鳴ると紅玉はあっさりと瑠璃の角を手放した。それに安心する前に膝をつく瑠璃の耳元に紅玉の扇子が添えられる。
「主がこう言っておる。頭を垂れて命を乞うならば考えないことも無いぞ?」
「誰が、お前なんかにっ…!」
「…だそうだ、主。此奴は死んでも構わぬそうだぞ」
「そんなこと言ってないでしょ。紅玉、武器をしまって」
紅玉は言われた通りに扇子を瑠璃から離して片付ける、ことなく。ぱちんと小気味の良い音を立てて閉じた扇子の先を私の鼻先へと突きつける。
「主よ、今この場でどちらかを取るのか選べ」
「は?」
真剣な表情をした紅玉の綺麗な双眸が真っ直ぐ私を見つめる。深い赤色をした瞳はドラマを見ている時のようなキラキラとした楽し気な輝きが見えず、ただ冷酷に選択を突きつけてくる。
「儂と此奴はそりが合わぬ。生涯分かり合うことはなく、また共に並ぶことは無いだろう。汝が要る方を選び、不要な方を今この場で捨てよ」
紅玉の思いがけない言葉に息を飲む。
何と答えるのが正解なのだろう。紅玉を選べば間違いなく瑠璃を殺してしまう。だからと言って瑠璃を選んだとしても紅玉は瑠璃を殺してしまうだろう。私が止められるなんて思えないし、身動きを取れない状態の瑠璃はまともに抵抗出来ない。気に入らなければ私ごと殺すことも出来る。そうでなくとも今、紅玉は自分が選ばれないとは思って居ない。不調の瑠璃と自分を比べれば私が紅玉の方を選ぶと思って居るのだろう。
しかしながら、紅玉は私が以前言った大前提を忘れている。
私はどちらか片方だけを手放すつもりは一切無い。
「要らない」
私が発した一言に紅玉の表情が揺らぐことは無かった。代わりに瑠璃が息を飲む音が聞こえた。作り物のように美しい紅玉の顔を睨みつけて私は言葉を続ける。
「片方だけしか選べないなら、私は両方とも要らない。瑠璃を捨てるつもりは無いし、ここで瑠璃を殺すなら紅玉には出て行ってもらうから」
死ぬかもしれないと思った。紅玉は瑠璃と違って私に執着しているわけではない。
危惧した通り、紅玉が形の良い目をすっと細め扇子をばっと広げて振りかぶる。それを攻撃か何かかと思った私は紅玉が振りかぶった腕を下ろす前に咄嗟に身構え、瑠璃は私を庇うように前に出た。
しかし空気がぶわりと動くような感覚がしただけで私に、そして瑠璃にそれ以上の衝撃がやって来ることは無かった。
「家の結界を張り直しただけだ、儂が主を害するわけがなかろう。……瑠璃とやら、主の恩情に感謝することだな」
紅玉は、ふん、と面白く無さそうに鼻を鳴らして二階へと上がっていく。
そこで丁度買い物から帰って来た母の声が聞こえてきて、私は急に戻ってきた日常に安堵から足の力が抜けてへたり込んでしまった。




