17
妃芽の規則的な寝息が聞こえるようになってから数分後、瑠璃は読んでいた教科書を置いて静かに立ち上がった。そしてベッドの側まで静かに移動し、熟睡している妃芽の顔に掛かった髪を指先でそっと払い、宝物にでも触れるように優しく頬を撫でる。それに対して妃芽が何の反応も示さずに警戒心の欠片も無く寝入っていることを確認して音を立てないように部屋を後にした。
階下に降りて真っ先に目に入ったのは赤い角。そして同じように赤い髪。
ソファーに座りテレビを見ていると思われるその後姿を視認すると瑠璃は忌々しそうに舌打ちをする。
「おい、無能」
「儂の名は紅玉だ。無能などという名の者はこの家に居らんぞ、角欠け」
振り返りもせずに声だけを返してくる紅玉を馬鹿にするように瑠璃は鼻で笑う。
「角欠けと言う名の鬼も存在しないぞ、ぼんくら」
「見たままの事実であろう、この家には角の欠けた間抜けは一人しかおらんのだからな」
紅玉もまた瑠璃を馬鹿にするような笑みを貼りつけて首だけで振り返った。
「一晩家を空ける、念のため結界を張り直しておけ」
「誰に命令しておる。何故儂が貴様の指図を受けねばならんのだ」
「僕が一ノ鬼でお前が凡百だからだ」
「貴様が何であろうと聞いてやる義理は無い。儂に下命出来るのは我が主、妃芽のみだ」
「言われてからでなければ動けないのか、薄鈍」
「少なくとも貴様のような愚物の言葉で動くほど軽くは無いぞ」
二人の間の空気が張り詰め、どちらからともなく互いに自らの武器を手に取った。双方相手の動きを呼吸一つさえ見逃すまいと注視する。
しかし瑠璃は構える前に動きを止めて溜息を吐き出し、静かに武器をしまった。
「止めだ、お前と言葉を重ねたところで埒が明かない。結界は自分で張り直す」
「ふん、殊勝な心掛けだ」
「勘違いするな、妃芽からお前と喧嘩をするなと言われているだけだ。妃芽の願いでなければお前を生かす理由など一つも無い」
そこでふっと部屋の電気が消えた。妃芽の母親が部屋の電気を消したのである。
部屋の電気が消えながらも煌々とテレビの画面が光っているのだが母親はそれに気づかぬ様子で部屋を後にした。瑠璃が目を凝らすとテレビの周囲には術の痕跡が残っており、おそらくテレビを消されないように紅玉が何か細工をしたのだろうと勝手に納得する。
「今のは妃芽の親か?」
「わざわざ聞かねば分からんのか?主と共に食卓を囲んでおったであろう」
「何故殺していない?」
内容に反して日常の些細なことを問うような抑揚の無いその問いかけに紅玉はわずかに眉を寄せる。紅玉は言葉の意図を探るように瑠璃を見るが、まるで自分の問いが当然の疑問であるかのように瑠璃は眉一つ動かさなかった。
「何故殺す必要がある?主の親だぞ?」
「だからどうした、僕にとって尊ぶべき者は妃芽だけだ。妃芽を産んだ時点で親はその役割を終えている。それに死んで困るものでもない」
「人の子というものは親という存在が必要なのだ。愛子も天涯孤独な身の上であったためにそれはもう様々な苦労をだな、」
「他人の話に興味は無い、妃芽は親が居なくなろうとも僕が側に居る。もし仮にあれを人質にでも取られて妃芽が判断を誤ったらどうする?それで妃芽が危険な目に遭わないと何故言い切れる?あれは妃芽にとって害だ。そうでなくとも見鬼を持たせずに妃芽を産んだ大罪人共だ、殺す理由は多々あれど生かしておく理由が無い」
紅玉はわざとらしく溜息を吐き出して、それから皮肉を込めて口の端を吊り上げる。
「ならば主に問うが良い。邪魔だから親を殺しても構わぬか、とな」
そう言われた瞬間、瑠璃の表情が微かに動いたのを紅玉は見逃さなかった。
「貴様が主の親を弑逆すれば儂はその旨を余さず主の耳に入れよう。さてはて、我が主は斯様な不届き者を側におくであろうか?」
「その時はお前のその角をへし折ってその五月蝿い口を二度ときけなくするだけだ」
「はっ、笑わせるな。残った貴様を疑わぬほど我が主は阿呆ではないぞ?」
紅玉の言葉に瑠璃の微かだった表情の変化は顕著になる。瑠璃は敵意も不快感も隠そうとせずに紅玉を睨みつけ忌々しそうに歯を軋ませた。それを見た紅玉は心底愉しそうにソファーの背もたれに身を乗り出す。
「儂を殺して罪を擦り付けるか?出来るものなら試すが良い。だが儂は貴様より長くこの家に居ながら主も家族も害したことは一度も無いぞ。それなのに親が死に儂の姿が消える、貴様が来た途端にな」
害したことは一度も無いと言っている紅玉は妃芽に命に関わる大怪我をさせているのだが、その間封印されていた瑠璃は知る由も無い。
瑠璃は殺気を隠そうともせずに舌打ちする。
「やはりあの時殺しておくべきだった」
「貴様のその表情を見れただけでも死に損なった甲斐があるというものだな」
瑠璃はその挑発に今度は乗らずに部屋の出口へと歩いていく。
「妃芽が目覚める前には戻る」
「角欠け、一応礼儀としてどこに行くのか聞いてやろう」
「お前に角欠けと呼ばれるのが不快だからな、角を直しに行く。昼間に放った偵察に反応があった。…あの時お前の角を折っていればわざわざ他の鬼を狩りに行く必要も無かったんだがな」
その昼間に放った偵察は封印が解けた際に紅玉が妃芽の付近に居ないかを探るための術で、それにたまたま他の鬼が掛かったのだがその場に居なかった紅玉が知る由も無い。
部屋のドアに手を掛け、瑠璃は何かを思い出したかのように一度紅玉を振り返る。
「昼間の術、見事だった。僕の目を以てしても解析出来なかった術はあれが初めてだ」
瑠璃の言っている術が妃芽に掛けて見せた必勝の呪いであることを理解すると紅玉は笑みを消した。
「ふん、あれは儂の術ではない。かつての友が遺したものだ」
「だろうな、お前のような単純頭が生み出せる代物じゃない。だから褒めている」
その言葉に紅玉が顔を歪めるより先に瑠璃は部屋を出て行った。嫌味を言うのが目的で紅玉の反応なんてどうでも良いと言わんばかりの態度に今度は紅玉が舌打ちをする番だった。
「やれやれ、厄介なものを拾ってきたものだな、我が主は」
妃芽からすれば紅玉も同様に厄介なものに分類されているのだが、そんなことを露ほども考えていない紅玉は盛大な溜息と共にチャンネルを変えるのだった。




