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そうして瑠璃と二人きりになった部屋。
「さて、話をする前に確認しておかなければならないことがある」
瑠璃が口を開いた瞬間、ぞわりと全身の産毛が一斉に粟立った。
上機嫌になって出て行った紅玉とまるで反比例したかのように目の前の瑠璃の機嫌が急激に落下している。何故。さっきまでも紅玉と口論をしていて決して機嫌が良いとは言い難いものだったのだが、少なくとも紅玉に皮肉を言ったり馬鹿にしたような笑みを浮かべる程度の余裕があった。しかしながら今目の前に居る彼はどうだ。彼の視線は、今さっき紅玉を見送ったことを後悔してしまうほどに、内臓の奥の方まで冷えてくるような恐怖を感じてしまう。殺気、ではないと思いたい。もし瑠璃が私を殺そうとしたらお札が無くなった現状では抗う方法が全く無い。
どうしよう、今からでも紅玉を呼び戻すべきだろうか。あ、ダメだ、この部屋には防音の術が掛かっているんだった。紅玉の馬鹿、何かあって呼んでもこれだと聞こえないじゃないか。ドラマなんか見てないで戻ってきて。
「君はいつもあんなことをしているのか?」
部屋を満たす底冷えするような空気をそのまま音にしたかの如くの地を這う声が私の現実逃避していた意識を引き戻した。無表情の瑠璃が、名前の通り瑠璃色をした目が、動けない私の心の内を読み取ろうかとするように顔を覗き込んでくる。何か答えなくてはと口を開いてみるが声帯が震えず音にならない吐息が喉から出てくるばかりだ。
何も答えない私に、無表情に僅かに苛立ちを滲ませた瑠璃が徐に私の首に手を掛ける。
「答えろ。僕が居ない間、あの紅玉とかいう鬼にいつもあんな真似をしていたのかと聞いている」
ぐっと首に掛けられた指に少しだけ力が入り背筋が凍る。気道は全く絞まっていないのに呼吸を全て支配されたような錯覚を感じた。いや、錯覚ではない。瑠璃が今指に力を入れてしまえば首を絞めるどころか容易く折られてしまうだろう。下手をすれば刎ね飛ばされるかも。今、彼の手に握られているのは首ではない、私の命だ。
「あんな容姿以外に取り柄の無い無能より僕が劣っているというつもりか?」
命の危機に私は必死になって首を横に振った。
優劣については私には判断出来ないが、瑠璃のいうところのあんな真似というのはきっとほっぺにちゅーのことだろう。それならば自信をもってノーと言える。あんなのが通常運転だと流石に困る。いくら紅玉が同性でその美貌が美術品のようだといっても典型的な日本人の感性を持って育った私がそんな恥ずかしいことを日常的に出来るはずがない。何より首を縦に振ろうものならば私の首が物理的に飛びかねない。それだけは何としても避けなければ。
「…質問を変える。どちらを一ノ鬼に選ぶつもりでいる?」
瑠璃の指先にまた少し力が入り爪の先が皮膚に食い込む感触がする。思わずひっと声が出そうになるのを寸でのところで堪えた。もうこれ質問じゃない、ただの脅迫だ。
この場を切り抜けるためには瑠璃の望む回答を選ばなければならないのだが、なんと答えれば彼の望んだ答えになるのか全く分からない。手がかりがまるで無い、致命的である、そもそもイチノオニって何、ちゃんと説明して。選ばれて嬉しいものなのか、不名誉なことなのか、それによっても正解が変わるのだけど。不正解だと物理的に首が飛ぶ可能性があるので慎重に、けれどもだんまりを決め込むわけにもいかないので迅速に判断しなくては。
『僕は君を主とし、君の一ノ鬼になる者として危険を排除しなくてはならない』
不意に瑠璃が以前言ったセリフが頭の中で蘇る。
そうだ、確か瑠璃は公園で紅玉を捕らえた時にそう言っていたはずだ。よく覚えていた、偉いぞ私。あの時、瑠璃は紅玉を排除した上で自分がイチノオニになると言っていた。つまり瑠璃は紅玉より自分のほうがイチノオニに相応しいと思っているということで、それがどんなものであったとしても選ばれたくないということは無いはずである。無いはずであって欲しい。
「る、瑠璃っ、に、お願いしようかと思ってたんだけど、嫌だった?」
喉の筋肉が引きつるような感覚がして変に声が裏返ったけれど無理やり声を絞り出す。もうイチノオニが何とかはどうでも良いけど瑠璃がなりたいなら勝手になれば良いと思う。目の前の命の危険からすればそんなことは些細なことだ。どうか正解であってほしい。人生に明確な夢や目標を持っていない私だけれど、それでも当然命は惜しい。
やたらに長く感じる数秒の後、瑠璃はようやく首から手を離した。
「なら良い。万に一つも無いだろうが君があの鬼を選んだらどうしようかと思ったけど、要らない心配だったみたいだね」
良かった、正解だった。紅玉と言ってしまったらどうされるところだったんだろう。心配しかない。




