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そんないつも通りの日常が一変したのは三時間目の授業中だった。
どうやら以前のこの授業で宿題を出されていたらしく先生が黒板に問題を書き出してその下に生徒の名前を書いて指名していく。私はつい先日まで入院していたので以前の授業には出ておらず、存在すら知らない宿題を当然やってあるわけもなく、先生もそれを把握しているので私の名前が黒板に書かれることは多分無い。座学でありながら見学をしている気分である。皆が自分を指名されるのではないかと怯える中で私だけが蚊帳の外だ。中より外の方が安全ならば外に出されても不満は無い。これだと蚊帳の外と言うよりは観客席である。
指名が終わり名前を書かれてしまった生徒が解答を書くために黒板の前へとちらほらと出始めた。その内の何人かがこっそり友達にノートを借りているのが見えたが、先生もそれを咎めるほど鬼ではないらしい。
そんな中、一番難しそうな問題に名前を書かれた生徒が解答を終える。テストでもよく上位に名前を見る優等生で、先生はランダムで名前を書いていたように見えたけれど多分この問題だけはちゃんと解けそうな生徒に指名したのだろう。
難しそうに見えた問題はやはり難問だったらしく、優等生の解答を確認した先生が感心したようすで拍手を送った。つられて何人かがまばらに拍手をして、私もそれにつられて拍手を送る。
空気が変わったのはその直後だった。
頭で何かを考えるより先にぞわりと全身に鳥肌が立った。それに伴って体が命の危機を察知したかのように心臓の辺りが私の意思とは関係無くぎゅっと収縮するのを感じる。指先が痺れたように微かに震え、肺が上手く空気を取り込めなくて呼吸が浅くなる。それはまるで紅玉と青年が戦っていた時に感じていたような、自分の命が如何にちっぽけで頼りないものかを突きつけられたような恐怖。圧倒的な力の前では吹けば消えてしまうような存在だと思い知らされる絶望。
額に脂汗が滲んでくるのを感じながら少しでも情報を得ようと目だけで周囲を見回し、一ヶ所、異物を捉えて釘付けになった。
私の影。その輪郭がぐにゃりと不自然に歪み、動き、うねり、まるで別の形になろうとするかのように形を変えていく。別の生き物のように動いているのにその根元が確かに私の足元に繋がっていて、それがまた得体の知れない恐怖を私にもたらしてくる。
息を飲んでその様子を凝視していると突然影の中から腕が伸びてきてぐしゃっとお札を握りつぶした。
「っ…?!!」
思わず悲鳴を上げそうになったのを寸でのところで飲み込んだのは、お札を握りつぶした腕の袖に見覚えがあったから。そんなはず無い。だって封印されているはずなのだから。内側からはどうにもならないんじゃなかったのか。
腕に続き出てきたのは、肩、半身、もう半身。
和装から覗く詰襟に頭に伸びる先端が掛けた青い角。
紛れも無い、封印されているはずの青年がそこに立っていた。
「なん、でっ?!」
椅子が倒れるのも構わず勢いよく立ち上がろうとして、しかし足に力が全く入らず、結果として大袈裟なくらい無様に転倒することになる。派手な音に相応しく強烈に肩を床に打ち付けたため、解説を始めようとしていた先生が慌てた様子でどうしたのかと説明を求めてくるが正直答えられる状態じゃない。
その間の青年はと言えば険しい顔で周囲を用心深く見回し例の如くキセルをくわえて煙を吐き出した。それから少ししてから肩の力を抜いて這いつくばっている私の方向へ向き直る。
「妃芽、状況の説明をくれないか」
待って、私も説明が欲しい。




