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だが青年はそんなことお構いなしに何か閃いたのかそうだと顔を上げた。
「要らない紙か布をくれないかい?」
突拍子も無い申し出にえ、と思わす声が漏れる。
「なんで?」
「君のために目に見える形にしてあげようと思って」
別に頼んでいないけれど。でも彼が何をするのか、どういう世界が見えているのか、少し興味があるので鞄を漁って要らなそうなプリントを一枚彼に差し出した。
「見てて」
青年はそのプリントを受け取ると端をつまみ腕を大きく振って宙に投げた。たかだか一枚の紙を投げたところで空気の抵抗を受けて大して飛ばないがその紙は不自然にふわりと宙を舞う。そこでおや?とプリントを凝視する。すると青年がキセルを一度くわえてから、宙を漂う紙にふっと息を吹きかけた。
次の瞬間音も無く紙に切れ込みが入り、A4コピー用紙のプリントは爪の大きさほどの紙吹雪へとその姿を変える。
わあ、と感嘆するがそれだけでは終わらない。紙吹雪は重力に従ってひらひらと落ちていくのだが、ぴたりと空中で落下が止まったのだ。その様子は浮いているというよりも見えない何かの上に載っているようである。クモの巣に葉っぱが絡まっている状態に近いかもしれない。だが紙吹雪を吊っている糸は全く見えない。
驚く私をよそに青年がキセルの先で紙吹雪が宙に浮いている辺りを指し示した。
「ちょうどこの紙の動きが止まっているところに罠が張り巡らされているんだ」
返事もそこそこに私はついつい拍手を送る。青年からすればこれは自分を縛り付けているものであり拍手をもらって嬉しいようなことではないだろうに。だが仕方ない、まるで手品でも見せてもらったかのような感動があるのだ。そして事実としてこれを見せる相手が鬼ではなく人間だったのなら私は手品か何かだと思っていたに違いない。
紙吹雪が吊られていたのはほんの数秒で、その後は糸が切れたようにひらひらと自重に従って地面へと落ちていく。そしてその紙吹雪が地面に付くかつかないかといった、次の瞬間。
突然、青年が立ち上がった。
静かにすっと、ではなく何かに身構えるように大仰に。吃驚して隣に座る私まで立ち上がりそうになるくらいだった。青年は立ち上がったまま目だけで落ち着きなく周囲を見回し、キセルをくわえて息を吐き出す。何が起こったのか分からないが、立ち上がってからそこに至るまでの動作の速さで彼の緊張が否が応でも伝わった。
「…何かあったの?」
恐る恐る声を掛けると彼はこれまた勢いよく私の方を振り返る。その表情がまたなんとも、何と言うのが正しいのだろうか。驚愕に満ちていることだけは確実に分かるのだが他が一切読み取れない、今までの私の人生で他人から向けられたことの無い類の複雑な表情だった。
「一体、何を……」
「へ?」
うわごとのように要領を得ない言葉を聞き返すと、青年は途端に力が抜けたようにベンチへと腰を落とした。
「あの?」
「待って、今状況を整理するから」
果たして整理しなければいけないような状況だっただろうか。あの紙吹雪を作り出したのは青年自身だったはずだが。それとも何か予想外の出来事でも起きたのか。予想外の出来事、罠を仕掛けた人物が近くにやってきたとかか。でもそれにしては悠長にベンチに座り直して考え込むような姿勢に入っている。もう何が何だか。
「…そういえば、まだ名前を聞いていなかったね」
数分間の沈黙の後、青年の第一声がこれだった。豆鉄砲というか暴投を食らった気分である。確かにお互いに名乗っていなかったが、今の今までそれに気づきもしなかったのだが、しかし自己紹介の前に今さっきの不審な行動に対しての説明が欲しい。
「如月妃芽、ですけど」
「そう、妃芽か。良い名前だね」
なんと答えたら良いのか分からず取りあえずありがとうとだけ返す。それから満足そうに微笑む青年と数秒見つめ合い、居たたまれずに口を開いた。
「えっと、あなたの名前は?」
「教えたいのはやまやまだけど、僕は君に名乗る名前を持っていない」
は?と眉間にしわが寄る。え、何コイツ態度悪い。素直に名乗ったこちらが馬鹿みたいじゃないか。それにお断りの文句が神様のそれとほとんど一緒である。鬼は名前を聞かれたらそう答えるという習性でも持っているのだろうか。どうかと思う。人間に対してそんな態度で接するから狩られるんじゃなかろうか。
困惑する私をよそに青年が、だから、と言葉を続けた。
「君が僕に、名前を付けてくれないか」
言ってから彼はどこか照れくさそうに眼を逸らす。そんな彼を目の前にして私は今朝の神様の言動を思い出していた。
『だからと言って何故呼び方を戻す!呼び方が分からぬならば、汝が……っ、もう良い!』
「ああーーっ!!」
点と点が繋がったような感覚に思わず大声を上げる。青年がびくりと肩を跳ねさせ、それから不可解なものを見るように眉根を寄せた。
「何?」
「神様が、あ、昨日言ってた神様を自称している鬼のこと。昨日家に帰ってからその鬼があなたと同じように名前が無いって言っていたから、名前をつけて欲しかったんだって納得しちゃって」
名前が欲しくて名前が無いと言ったのに呼び方を戻したら確かに不機嫌になる。だってそういう意図で言ったのではないのだから。いやそれにしたって分かり難い。これは神様が悪い、私は悪くない。
「まさかその鬼、今も君の家に居るんじゃないだろうね」
「え、居るけど。言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
いつの間にやら青年の表情は昨日会ったときみたいに険しいものになっていた。そんな顔をされたって、会ったばかりの相手に話すような内容でもないし聞かれても居ないのだから仕方ないじゃないか。
「……その鬼に名前をあげたのかい?」
「えっと、その時は意味が分からなくて、そのまま神様って呼んじゃっているんだけど。あー…だから不機嫌だったんだ。帰ったら何か適当に名前を付けた方が、」
「っ、駄目だ!」
私の言葉を遮るように青年が叫ぶ。今度は私が吃驚する番だった。
驚いた私の表情を見てから青年は、はっと我に返ったように居住まいを正し、気を取り直すようにわざとらしく咳ばらいをしてみせる。
「…聞いた限りだけど、その鬼は人の常識が通じないところがある。不用意に名前を付けて懐きでもされたら厄介だ」
それに関しては名前を付ける云々の前にもう手遅れな気がする。拗ねていても家を出て行くつもり無さそうだし。懐いているかどうかは別として気に入っているのは確かだろう。
返答に困っていると青年が溜め息を吐き出し、彼の手がこちらに伸びてくる。その手はごく自然な動作で私の制服のポケットから何かを抜き取った。
それは一週間前、神様が閉じ込められていた神社に貼ってあったお札である。彼がこうして引っ張り出すまで貼り直しに行くのをすっかり忘れていた。
「最悪の場合はこれを使うと良い」
青年はキセルをくわえてからお札にふっと息を吹きかける。そしてそのお札を何事も無かったように私のポケットヘと押し込んだ。
「術を直しておいた。不意を突けば君でも鬼を封印することくらい出来るはずだ」
封印。神様があの神社に閉じ込められていたみたいな?
おうおう、物騒だな。
「…そうならないように気を付けるけど」
端末で時刻を確認してそろそろ帰ろうかと立ち上がると、妃芽、と早速教えたばかりの名前で呼び止められた。
「僕は明日もここにいるから、名前を忘れずに考えてきて」
さっき神様には名前をあげたら駄目だと言った口で平然と名前を要求してくるものだから驚きが隠せない。神様の考えることは当然分からないのだが、彼の考えることもそこそこ理解できない。そもそも他人に名前を付けた経験なんて無いのに無駄に期待値を上げられても困るのだが。
名前、か。どんな名前なら彼は気に入るのだろうか。




