33
喉の奥から競り上がるような屈辱を生涯忘れることはないだろう。
血反吐を吐いて倒れていく水鞠を視界に収めながら木立はそう直感した。水鞠の体がゆっくりと地面に着く。重力に逆らってゆっくり倒れるなんてことは当然あり得なくて、水鞠の側の気配がそれだけ早く動くから相対的に倒れる水鞠が遅く見えているだけだ。
水鞠が倒れてから数秒も経たずに自分の体が宙に浮き遅れて痛覚がやってくる。体が地面を転がっていく感覚を頭が処理している間に術式を組む。まずは相手の動きを止めなければ話にならない。
木立が発動した術が一瞬で瑠璃の体を拘束し、その間に回復させられた水鞠が瑠璃にに切りかかった。
しかし瑠璃が拘束されている時間もまたほんの一瞬だった。水鞠の刃が瑠璃に届く前に拘束が解け、水鞠は瑠璃の蹴りを腹に受け吹っ飛ぶ。そのまま修練場の壁に水鞠が叩きつけられるのと木立の足の骨が折られるまでの誤差は一秒ほど。
赤子の手をひねるようになんて話じゃない。瑠璃の動きは動かない木偶を相手に形の確認でもしているかのように機械的に事務的に美しく無駄が無く容赦が無い。退屈そうな表情で木立と水鞠を何度も打ちのめし叩きのめし、それでもまだ足りないと叩き潰す。しつこく、執拗に、つまらなそうに、それでも飽きることなく。何度も、何回も、何十回も。ここまで露骨であれば瑠璃の心情が表情に伴っていないことが嫌でも伝わってくる。
この鬼はこの状況を楽しんでいる。
この鬼は遊んでいるのだ。
殺そうと躍起になっている自分たちで人形遊びでもするように。
そんなこと繧繝衆の人間として許せない。許されるはずがない。
だが許す許さないの決定権が自分に無いということを木立は痛感していた。その権利はこの場で一番強い瑠璃が持っている。弱者である木立は強者が決めた決定に諾々と従うことしか出来ない。
木立は繧繝衆の中で特別強いわけではないが、弱くもないと思っていた。ともに打ちのめされている水鞠と甲級の討伐に加わったこともある。少なくとも並みの鬼相手に一方的に蹂躙されるなどあり得ないと思っていた。五家の人間としてそんなことはあり得てはならなかった。自分が弱いことなんて知ろうとしなかった。そんなこと知りたくなかった。
繧繝、日下部実晴は何を考えてこんなこと仕組んだのか。
瑠璃と直接対峙した繧繝がこの鬼の実力を知らないわけがない。繧繝は自分たちがこの鬼に敵うはずがないことを知った上で戦わせている。こんなものが指導であるわけがない。何か意味があるはずだ。
繧繝の行動は基本的にふざけている。だが無意味な行動は存在しない。本人がそこまで考えているはどうかは別として、繧繝の行動が繧繝衆に不利益をもたらしたことは無い。だから今回の守護四役離脱に関しても、木立は立場上文句を言ってはいるが最終的に悪いようにはならないだろうと確信している。
途切れた意識が浮上する、それが何度目か数えるのはもうやめた。そんなことに頭を使う余裕が無い。
考えろ。
自分たちが叩きのめされるに足る理由。
目の前の鬼が繧繝衆の人間を嬲って許される理由。
危険な鬼が首輪もしないで野放しにされている理由。
木立は不明瞭な意識の中で聞いた瑠璃の言葉を思い出す。
『僕は早くこれを終わらせて妃芽の側に戻りたい』
如月妃芽。この凶悪な鬼の主。
そうだ、この鬼には首輪が無くとも主が居る。凶悪な鬼に反して虫も殺したことが無さそうな凡人だった。物事を深く考えることが苦手そうな学生だった。現代日本の常識的な思考回路に沿った、殺生とは無縁の人間だ。人殺しに抵抗があって然るべきだ。
そんな人間ならば従う鬼が人殺しをすればどうするか。
自分が命じていなくても当然責任を感じるだろう、あるいは責任から逃れようとするだろう。どうすれば責任を取れるのか、相場を知らない子供で頼れる大人も居ないとなれば無理難題を押し付けたとしても断れないに違いない。そして主の身を案じて天狼の縄張りの中についてくるような鬼ならば主の命令に逆らうはずがない。
たとえそれが、自分の角を折れという命令だったとしても。
「水鞠!」
蘇生され意識が浮上すると同時に木立は水鞠を呼ぶ。
瑠璃への攻撃をキャンセルし、水鞠が木立の脇に跳躍する。
「あの鬼の倒し方を思いついた、協力しろ!」
「遅いっすよ!死ぬかと思ったんっすから!」
言葉通り、これが実戦なら自分たちは二人とも確実に死んでいたことだろう。死んでいないのは蜜柑の天恵と瑠璃が手加減しているお陰である。瑠璃からすれば自分たちはいつでも殺せる程度の存在で、主の命令があるから殺していないだけ。
それは情けでもなければ優しさでもない、ただの傲慢だ。木立と水鞠が強制力のない命令を反故にするほどの相手ではないと手加減してもらっているからと言って瑠璃を殺さなくていいという話にはならない。戦いに慣れ他人を痛めつけることに愉悦を覚えるような危険な鬼を野放しには出来ない。
「勝てるんすか?」
「勝てなくてもあの鬼の角を折る方法がある」
「自分は何すればいいんすか?」
詳細を聞く前に水鞠が尋ねる。どうやって、ではなく、何をすれば良いか。熟考しないのは日常では欠点だが戦闘時において水鞠のこういったところは美点だ。
「合図をしたら鬼の注意を引け」
「了解っす」
言いながら木立は索敵を放つ。妨害される可能性も一応考えていたのだが瑠璃が反応する気配はない。ある程度見逃されることは織り込み済みだ。どうせ悪あがきだと高をくくっているのだろう。実際悪あがきに等しい行動である。自分の力であの鬼の角を折ることを諦めたことは事実なのだから。
程なくして木立は放った索敵の一つが消えたのを察知する。如月妃芽は予想通りこの鬼の様子を確認に来るようだ。当然だ。まともな人間ならばこんな鬼を放置するわけがない。索敵が一つまた一つ消えていく感覚で木立は如月妃芽が近づいてくるのを確認しながらタイミングを計る。
「作戦会議は終わりか?」
木立と水鞠が離し終えるのを待って瑠璃が二人に声を掛ける。瑠璃は吹かしていたキセルを懐にしまうと術にも満たないような煙を吐き出した。
「少しは手応えが出てくれると嬉しいんだが。そろそろ弱い者虐めにも飽きてきているんでね」
術を使うつもりが無いのに武器を取り出し、一服が済んだら武器として使うことなく片付ける。使うまでもないということなのだろう。
「蜜柑、あの鬼に弱点はあるか?」
木立は瑠璃から視線を外さずにそれまで自分たちの回復に専念していた蜜柑に話しかける。
蜜柑は一度瑠璃の様子を窺う。その視線に気づいた瑠璃は好きにしろとでも言うように軽く肩を竦めた。
「無い」
「…みーちゃん、あの鬼の味方なんすか?繧繝様に言いつけるっすよ」
「お前らに弱点を突かせてくれるような優しい相手じゃないと言っておるのじゃ、諦めろ。お前たちが敵う相手じゃないのじゃよ」
蜜柑の答えは実に素っ気無いものだった。しかし事実でもある。瑠璃に弱点があるとすれば霊力量がそこまで多くないことだ。そんなことは木立も水鞠も分かり切っている。しかしそれ以前の話なのだ。術の撃ち合いになれば霊力切れを狙えるかもしれないが、瑠璃に術を使わせることなく圧倒されている様では話にならない。
木立は蜜柑の回答に感情を動かすことは無かった。有益な情報が出れば有難かったが正直回答が何であれ今の木立には関係ない。こちらにやってくる如月妃芽との距離を測りながら時間を稼げればそれで良かった。
まだ少し早いが、そろそろ動き出さなければこちらの意図に気付かれる可能性がある。
「水鞠、行くぞ」
木立は刀を構え切っ先を瑠璃に向ける。水鞠は構えるより先に瑠璃へと切りかかった。瑠璃は水鞠の斬撃をかわし腕を掴んで切りかかって来た勢いのまま投げ飛ばす。水鞠が地面に叩きつけられる寸前でなんとか受け身を取るのと木立が切りかかるのがほとんど同時。木立の刃の軌道を鎬を撫でるようにして逸らし鳩尾に蹴りを入れる。
「……」
そこから更に数手交わしたところで瑠璃は目ざとく変化に気付いた。先ほどまでと少し動き方が違う。先ほどまで殺されないことと蜜柑に回復されることが前提にあるので受け身や防御をほとんどしない捨て身の攻撃が多かったが妙に慎重になっている。どうやら何か企みがあるらしい。
羽虫風情が小賢しい。
周到に用意していた作戦なら兎も角、その場の思いつき程度で実力差が埋まるなど思い上がりも甚だしい。どうやら散々打ちのめしてやったというのに未だ身の程が理解出来ないようだ。呆れを通り越して哀れにさえ思う。繧繝が厄介な相手だったから繧繝衆の人間はどの程度なのかと思っていたが警戒した自分が馬鹿だった。こんなものは時間の無駄遣いだ。
瑠璃が小さくため息を吐き出す。
その隙に木立が背後から切りかかる、が、刃が触れる寸前で瑠璃が振り向き様に木立の腕ごと刀を振り払った。音を立てて木立の左腕が折れ刀が叩き飛ばされる。骨折の痛みに歯を食いしばりながら木立は折られたのが足じゃなかったことに安堵した。
「水鞠!」
木立が水鞠の名前を叫ぶ。
水鞠は直感でそれが合図だと理解し、木立に追撃が入る前に瑠璃へと切りかかった。瑠璃はその斬撃を軽く弾き、標的を木立から水鞠に変え拳を振るう。
「『水鏡』!!」
水鞠が叫んだ瞬間、瑠璃との間に薄い円盤のようなものが出現する。瑠璃はそれが何らかの術であることをすぐに判断し、理解した上でそのままそこに拳を叩きこんだ。
「!」
瑠璃の拳が円盤に触れた途端にその腕の骨が軋み髄まで激痛と衝撃が走る。
攻撃の反射。水鞠を殴るつもりだったダメージがそのまま自分の腕に跳ね返ってきている。見たことない術式に瑠璃は口の端を上げた。
鬼が作る術の大半は威力こそ申し分ないが火力重視で燃費が悪く単調になりがちだ。紅玉のように霊力が潤沢であればそれでも戦えるのだろうが瑠璃はそのやり方が合わないし、そもそも好まない。その点脆弱な人間は少ない霊力でも使えるよう術に工夫が見られる上に発想が豊かだ。
水鞠が使ったこの術もそうだ。相殺ではなく、防ぐわけでもなく、跳ね返す。鬼ならば避けて反撃した方が速くて確実だと考えるからこんな術は思いつきもしないだろう。率直に言えば実戦向きではないが相手の意表を突く一手としては有効かもしれない。術式の完成度も高い。強いて難点を上げるとすれば、
「脆い」
霊力を腕に集中的に回し破壊される腕を回復させながら水鞠の術式を一通り観察した後、瑠璃は力任せに腕を振り抜いて水鏡を叩き割った。
「ぐ、ぅ…!」
その余波で水鞠の体は軽く吹き飛ばされるが受け身をとって体勢を立て直し即座に刀を構える。
瑠璃は水鏡を叩き割った拳を開いてから握り直し感触を確認する。術で強化しているとはいえ拳で叩き割れる強度では使い物にならない。人間相手なら兎も角、鬼を相手に使うとすればせめて紅玉の炎を跳ね返せる程度には改良しなくては。いつぞや紅玉が自分の術を真似て不意打ちをしてきたことを思い出す。胸糞悪い思い出だ。今の術で似たような状況をあいつにくれてやろう。術を真似して返すより紅玉自身の術をそのまま返してやったなら悔しさに歪む顔はさぞ見ものになるだろう。
そこで瑠璃は自分の意識している範囲から木立が抜けていることに気が付き、ざっと周囲に視界を広げた。木立を視界に捉える間に水鞠が切りかかって来たのを片手で制しながら、いつの間に拾ったのか刀を持ったまま明後日の方向に走っていく木立を見つけ、その更に先に居た人物に瑠璃は目を見開く。
「…妃芽?」
木立の動線の先に居たのは瑠璃の主、如月妃芽だった。
自分の主に刀を抜いて迫る不届き者がいる。瑠璃は妃芽に危険が迫っていると即座に判断し、邪魔者である水鞠を雑に蹴り飛ばして木立を視界に収めると何を考えるより真っ先にキセルを取り出し術式を組み始める。
そこにはまだ怒りや焦り恐怖は無い。ほぼ反射的に主人の害となる者を排除しようと動き出す。そうしなければならなかった。その反射には側に他の鬼が控えていることなど関係ない。自分の手で確実に主人の害悪を取り除かなければならない。そうでなければならなかった。
術式を組む瞬き一つ分の間に状況に感情が追いつき始める。一番最初にやってきたのは怒りだった。主人を殺そうとしている人間と、主人をこんな場所に連れてきた役立たず。
殺してやろうと思った。
殺さなければならなかった。とりあえず人間のほうから。無能の処理はその後だ。
殺すことは元より確定しているが、より凄惨に。この世に別れを告げる間も無く、こんな馬鹿なことをする人間をこの先出さないために見せしめとして。
水鞠は塀に叩きつけられ遠のく意識の中で瑠璃が術を展開するの見て絶句した。鬼が人間より術の扱いが長けているのは当然だが、それにしたって上空を埋め尽くすほどの術を一瞬で、水鞠の知る限りそんな芸当が出来るのは甲級の鬼くらいなものだ。
勝てない、と悟る前にその術の矛先が木立であることに気付く。
水鞠は途切れそうになる意識の端を必死に掴んで気合のみで体を動かす、動かそうとした。その途端骨が筋肉が悲鳴を上げ立ち上がることすらままならなかった。蜜柑が回復させてくれるのを待っていたら間に合わない。木立が死ぬ。口から出た声が悲鳴だったのか木立の名前だったのか、あるいは全く意味をなさない音だったのか、水鞠自身も分からなかった。
木立は死を覚悟した。今この瞬間組まれているであろう術式を見ずとも背後に感じる殺気だけで分かる。今までの屈辱はあの鬼にとっては遊びでしかなく、なんなら遊びですらないほんの手遊びでしかなく、殺そうと思えばいつでも殺せたのだ。
自分が死ねば確実に繧繝衆全体が、ひいては繧繝が動く。それでもこの鬼だけならばあるいは耐えられるのかもしれない。だが如月妃芽は確実に耐えられない。人殺しの罪悪感、鬼を連れるという意味の再認識、繧繝衆からの責任の追及。逃げたとしても繧繝衆は全力で追っ手を掛けるだろう。最近まで普通の暮らしをしていた子供の精神をすり減らすには十分だ。そうなれば彼女は鬼を差し出すだろう。逃げようが逃げなかろうがこの鬼の角は確実に折ることが出来る。
木立は視界の隅に瑠璃の術を捉える。恐らく見えている倍以上の数の術が自分の背後には展開されているに違いない。なるほど。勝てない相手だ。あの鬼が仮に人間であったなら頭を下げてでも教えを乞うに相応しい相手だっただろう。自分の命はあと何秒だろうかと考え自分にとってかけがえのない人間が脳裏に過った。その存在は木立の決意を更に固める。死ぬのが自分で良かったとさえ思った。
雌雄を決するその瞬間。
ぱん、と小さく手を打つ音が響いた。




