16.魔女襲来
六日間のお盆休みを終え、さくらは元気に出社していた。
満員電車を避け、いつも通り一本早い電車に乗ると、そこはいつもよりも空いていて無事座ることができた。
一駅、二駅と会社が近づき、連休明けのけだるげな表情を浮かべた人々が乗り込んでくる。なんとなしにそれを眺めていると、そこに見慣れた姿が目に入りドキリと心臓が飛び跳ねた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
駅で会うことはあったが、電車の中で会うのは初めてだった。
さくらがはにかんだ笑みを浮かべて挨拶を返すと、伊織は当然のようにさくらの前に立った。
伊織の鞄を目にし、持ちます、と言いかけたさくらだったが、横からかけられた声に差し出しかけた手が引っ込む。
「神崎チーム長、おはようございます」
「ああ、おはよう。田崎さん」
声をかけてきたのは伊織と同じ商品開発室の女子社員だった。いかにもデキるオンナ、という風貌だが、その声色は嬉しげで伊織への好意が見えた。
「あら、高橋さんじゃない? おはよう」
「おはよう」
「ちょっとー。あなたはいつも倉庫番で楽だけど、チーム長はいつも忙しい方なのよ? それなのに立たせておいてあなたそのままぼーっと座ってるの?」
その言葉には明らかな侮蔑の色が見える。自分は伊織の仕事を近くで見ているから忙しさを知っている。会社に行ったらあちこち走り回ることになる伊織を電車でくらいゆっくり座らせたらどうだと言いたいのだろう。同時に、さくらが出世が見込めない“倉庫”で働いている“リストラ候補”であると思い知らせるのも忘れない。
面倒くさい女に見られたものだ……。さくらは心の中で嘆息した。田崎真梨香は同期の女子社員の中でも出世コースに属した女性だ。伊織が商品開発室企画チーム長になった時、彼の元に配属されるのは、この田崎かさくらの親友である高堂里美か、と言われていた程だ。結果、里美が企画チームに配属されたのだが……。それを根に持ってか、田崎と里美は仲が悪い。というか、いつも自分の望む位置に里美がいるのを田崎が一方的に恨んでいるのだ。その里美が、出世コースから外れているさくらと親しくしているというのも理解できないらしい。田崎は、さくらと親しくしても何の得にもならないと早々に切って捨てた女だった。――つまりは、あのトップ・オブ・ザ・面倒くさい三島留子の派閥の一員なのだ。
伊織の部署内での情報はこの田崎から漏れているだろう。しかも同じ路線ときた。今日のことも留子に伝えるのだろうか……チラと見上げた視線の先で、不敵な笑みを浮かべる田崎の顔を見て、さくらは「昼休みまでには伝わるな……」と確信した。
「私もそう思ったんだけど、女性に席を譲られるのは、神崎先輩をかえって困らせることになるんじゃないかと思ったの」
「そうだね。それは困るな。俺はそんなにひ弱なつもりはないし……。あぁ、でも田崎さんにはそう見えていたのかな。頼りない先輩でごめんね」
「えっ。いえ! そんな風には思っていません! いつも皆をまとめあげる力は素晴らしいと思います! 皆、とても頼りにしているんですよ?」
わかってくれますよね? とでも言いたげに語尾を上げて上目づかいに伊織を見る田崎だが、内心焦っているようだ。まさかこんな展開になるとは思っていなかったらしい。
そんなの知ったことか。さくらはスッと立ち上がると、田崎に座っていた席を示した。
「良かったら田崎さんどうぞ。私少し身体が冷えたので、隣の車両に移ります」
「あ、もしかして隣、弱冷車かな。なら俺も移ろう」
「えっ? あの……ち、チーム長……」
さっさと移動し始めた二人を、田崎はオロオロしながら見ていた。
「ほんと、さくらは面白いな」
「いちいち相手にするのは面倒なんですけどね。どうせ昼前には秘書課軍団に話が伝わりそうなんで」
「秘書課……百合江さんには会った?」
「はい。あの……応援してくれるって。心配かけてすみません」
「俺こそ、ごめん。堂々と守れない自分が歯がゆいよ」
その言葉にさくらは首を振った。
「大丈夫です。これ位、自分でなんとかできます。それに、留子は社長と個人的にも親しいみたいだし、あまり伊織さん自身が表に出ない方がいいと思うの」
「……ごめん。近いうちに、社長には話すつもりだから」
「本当に大丈夫です。それより、会社近いんで少し離れた方がいいと思います。私、ひとつ向こうのドアに行きますね」
「――さくら」
さくらは物わかりが良すぎる。それを強いているのは自分だが、すんなり受け入れてこうして他人行儀に離れて行く恋人の後ろ姿を見て、伊織は苦い思いを噛みしめた。さくらが伊織への寂しい思いを打ち明けたのは、旅行前のたった一度だ。だが、それも自分を前面に押し出したものではない。
さくらはわがままを言わないのだ。
幼い頃に両親を失い、祖父母に迷惑をかけまいと生きてきたことがそうさせているのかもしれない。無理なものは無理。できないことはできない。そう潔く受け入れる。
だが、それが伊織にはひどく寂しかった。勝手を言っているのはわかっている。それでも、不安定な自分の心を抱えたまま、さくらの存在を公表することはできない。
まだ伊織にはKANZAKIにこの後の人生を捧げる覚悟ができていない。どこかで、自分の、あるいは惣介の代わりになる人物が出てくるのではないかと考えている。それに、百合江も優秀な女性だ。彼女が時期社長でよいのではないかという意見も一族の中にはある。遠縁すぎて、どこの馬の骨ともわからぬ若造には任せたくない思いがあるのだろう。そんな存在が周りにある中、足元をすくわれてはならない。今の伊織にとってさくらは最大の弱点だ。さくらの存在をいいように利用し、伊織を引きずりおろそうと目論む人物も出てくるだろう。それを考えると、こうして交際を内緒にすることがさくらを守ることにつながるのだ。
それに、もしもKANZAKIの名を失ったら……さくらはそれでも、伊織を受け入れてくれるだろうか……それが怖い。
伊織は、自分がとても弱虫で無力だと感じていた。
* * *
「伊織さんと仲良く電車で話していたらしいわね」
めでたく備品管理課にも冷蔵庫が設置され、さくらがいそいそと弁当を開けた時だった。
ノックもなく、倉庫のドアが開けられる。
午後一始まる会議の準備のため、上司である佐々木課長は席を外している。それを知っていてのことだろう。
「出た」
「出た、じゃないわよ。なによ人を幽霊みたいに!」
幽霊の方がマシなんだけど。そう出かかったのを喉元で止めて、さくらはお弁当のフタを戻した。
とうとう痺れを切らしたのか、倉庫に現れたのは三島留子本人だった。
「最近、やけに伊織さんと親しくしているみたいだけど、あんた一体どういうつもり?」
「同じ会社で、しかも新入社員研修でお世話になった先輩だもの。見たら挨拶するわ。社会人だもの。当然でしょう」
「そんなこと言ってるんじゃないわよ。いい? よく聞きなさい。伊織さんがあんたに優しいのは、こんな倉庫に配属されて可哀想に思ってるからよ。頼りない上司一人しかいない備品管理課にたったひとり。だからたまに話しかけてあげてるだけ。それを何か勘違いしてるんじゃないの?」
「勘違い? それは留子でしょう。佐々木課長は頼りになる上司だわ」
「そんなこと言ってるんじゃないのよ!」
ああ、うるさい。さくらは大きくため息をついた。
その態度が面白くなく、留子はヒールを打ち鳴らし更にさくらに詰め寄る。すると、綺麗に彩られた指先をすっと持ち上げさくらの鼻先に突き付けた。
「言っとくけど、私と伊織さん。特別な関係なの。私、社長には普段から可愛がってもらってるし、なにより……私と伊織さん、一緒に住んでるのよ。大人な社会人なら、この意味……わかるわよね?」
思わずハッと目を見開き立ち上がったさくらの表情がよほど気に入ったのか、留子は楽しそうに笑った。
「だから、“可哀想な後輩”以上に想ってもらえてるなんて勘違いは止めることね。伊織さんが困ってるのよ。わかったわね?」
さくらは立ち尽くしたまま何も言えずにいた。
留子はそれを満足げに見返すと、ブランド物の高価な時計をこれ見よがしに見た。
「あら、もうこんな時間。私、重役会議の準備があるのに。早く予約してるイタリアンのお店にランチに行かなくちゃ。こんな倉庫にいちゃ、周りの様子がわからなくて時間も、社内の様子も把握できないわぁ。ああ、だからかしら? 私と伊織さんのことにも気づかなかったのって……」
目的を果たした留子は、軽やかな足取りで去って行く。さくらはそれを茫然を見送った。
どういうことだろう?
勿論、留子の話を鵜呑みにするつもりはない。伊織の直属の部下である親友の里美からも、留子と伊織の話は聞いたことがない。何かあるならば、さくらが伊織と付き合い始めたと知っていながら言わないのはおかしいだろう。
だが、気になる点があるのは確かだ。
里美が、以前留子が社長の車で一緒に出勤したと言っていた。それに、惣介も留子のことを個人的に知っており、留子もプライベートで惣介の店を訪れている。
伊織の気持ちを疑いたくはないが、一緒に住んでいる、など……少し調べたらわかるような嘘をあの留子が言うだろうか?
さくらは卵焼きを口に放り込んだ。だが、朝味見をした時はおいしいと思えた卵焼きは、まったく味がしない。
(留子め。どうせならお弁当食べ終わってからにしてくれればいいのに)
弁当は味気ないものになっていたが、残してはもったいない。さくらはそのまま機械的に次々口に放り込んだ。
(一体、どういうこと?)
さすがに胸がもやもやする。けれど、今朝のやりとりから伊織に聞くのははばかられた。伊織の立場は微妙なものだ。彼はKANZAKIの人間にまだなり切れておらず、借り物の衣装を着ているとさえ言っている。そんな彼に留子とのことを聞くのは、責めているような気がした。
「そうだ! 惣介さんに聞いてみよう」
さくらは思い立ったが吉日とばかりにスマホを手に取った。
この時のさくらは、先日百合江に言われた忠告など綺麗に頭から飛んでいた。




