-3- 歪
壁の時計が音を立てて静寂を刻んでいた。
――シグマ工業
その言葉の余韻だけが重く、深くその場にのしかかっていた。
「例の事故の時......あんたの親父は行方不明に?」
初めに沈黙を破ったのはエドワードだった。
「...父は生きていました」
俯き加減だったイザベラが顔を上げる。
「生き延びたっていうの...あれを......?」
――死者百余名、行方不明者数百名。
彼女が驚くのも無理はなかった。
「...はい。父は一度だけ、家に帰ってきました。でも――」
爆発の原因は、10年以上経った今でも明らかになっていない。
――事故とは限らなかった。
「彼は消えました。......何かから逃げるように」
その声が、揺れていた。
いつしか、窓の外は暗闇に沈んでいた。
どこかで猫が鳴いている。
「あんたの親父はあれを生き延びた。......それ以上でもそれ以下でもない」
エドワードがそれだけ言って、立ち上がる。
彼の行く先は――玄関だった。
エリナも、無言のまま腰を上げる。
――断られた。
彼女はそう悟った。
白い、小さな手が真鍮のドアノブへとかけられる。
「......探せないことはない」
エリナが驚いて振り返る。
その眼前には、一枚の名刺。
『セレスティア探偵事務所 エドワード・シャーロック』
「え...?」
「明日の朝、またここに来い」
エリナの瞳に光が宿る。
「本当で――」
――がちゃり
歓喜に満ちた声を遮るように、エドワードはドアを押し開けた。
蒸し暑い夏の空気が肌をなでる。
「これ以上遅くなると、また厄介な奴に絡まれるぞ。早く帰れ」
「は...はい!ありがとうございます!」
――――――――――――――――――――――――――――――
軽い足取りで路地を歩いてゆく後ろ姿を、じっと窓越しに見つめる赤い光。
「シグマ工業、ねぇ......」
イザベラは、手に持っていた依頼書を机の上へ放り投げた。
「要警戒ってとこかしら。......『彼ら』との関係を疑ったほうがいいわね」
「その線はないな」
「...本気で言ってるの?」
エドワードが振り返った。
赤い光と青い瞳が交錯する。
「......当てはある」
――――――――――――――――――――――――――――――
――チリリン...
ドアベルが軽やかな音を立てる。
窓から差し込む光の筋の中、彼はいた。
「来たな」
エドワードはそれだけ言って、エリナを昨日の机へと案内した。
「...すごい」
机を埋め尽くすほど大きな地図。
そこには、滑らかな曲線と直線で構成された島々の姿。
「あら、おはよう」
依頼人の到着に、イザベラは温かい笑顔で出迎える。
「あ...おはようございます」
その青い瞳に、温かさは宿っていなかった。
「まずは、ペンダントの示している目標地点を探す。昨日の写真を見せてくれ」
エリナがスマホを差し出すと、エドワードは映し出される画像をもとに次々とピンを刺していった。
その手に迷いはない。
彼の視線は、スマホと地図を行き来するだけだった。
(......さすが、アンドロイド)
ものの10分もすると、地図の上にすべてのピンが打たれた。
色とりどりの層が、一つの円を形成している。
その中心――
「ここだ」
エドワードはそこに、一つの白いピンを刺した。
「どこですか...ここ」
少なくとも、地図には何の図形も、文字も載っていない。
「見に行けばわかる。いくぞ」
「えっ...今、ですか......?」
その大きな手は、すでにドアノブへとかけられている。
「善は急げ、だ。謎が待ってる」
それだけ言うと、彼の姿は扉の向こうへと消えた。
「珍しく張り切っちゃって...ほら、行くわよ」
「は...はい」
玄関の戸が閉められる。
数分前の喧騒が嘘だったかのように、部屋は静まり返っていた。
ただ、遠くから聞こえる蝉の声が、長い一日の始まりを告げていた。




