第十一章 新学期と新たな顔
新しい学期が始まった。
「アマテラス」の東大キャンパスに、新入生が溢れている。
初々しい顔の一年生たちが、キャンパスの地図を手に右往左往している。先輩たちがサークルや同好会の勧誘を行っている——が、当然「東大地球防衛同好会」は勧誘などしない。
「新入生か」と甚之助は食堂で昼ご飯を食べながら言った。「俺たちも二年前はああだったな」
「俺はそんなに迷子だったか」と駿は天井を見上げた。
「最初の日に宇宙ステーションの構造が面白くて探検してたら迷子になってた」
「あれは探検だ、迷子じゃない」
「どっちでもいい」
ヨーコは黙ってラーメンを食べていた。
「ヨーコ、食べながらタブレット見るな」
「見ないと見落とす」
「何かあったか?」
「新入生の中に気になる人がいる」
「気になる?」
「怪しい」
「怪しい?」
「私が傍受してるネットワークのトラフィックに、この人の行動パターンと同期してる部分がある」
「それってどういうことだ?」
「この人が動くたびに、ネット上に特定のパターンの通信が発生してる。普通の人はそんなことしない。追跡タグを持ってるか、あるいは——自分でそういう通信を発生させてる」
「諜報員?」
「可能性がある。でも外見は……」
ヨーコがタブレットの画面を駿と甚之助に向けた。
食堂の入口に立つ一人の新入生。
小柄で、どこか大人しそうな印象の——少女だった。
髪は黒く、目が大きい。もじもじとしながら食堂の席を探している。
「あの子が?」
「外見は完全に普通の大学生。でもネットワーク解析は嘘をつかない」
「様子を見よう」と駿は言った。「決めつけは禁物だ」
「もちろん。今は観察だけ」
「名前は?」
「入学者名簿で確認した。神楽坂澪、十八歳。宇宙工学部新入生。実家は地球の東京」
「普通の情報だな」
「表向きはね」
◆
神楽坂澪は、食堂に入って席を探しながら——こっそり周囲を観察していた。
(思ったより難しい。「アマテラス」の規模は地球のキャンパスとは全然違う)
彼女は新入生だが、内心では慣れていない。
なぜなら——彼女もまた、ここに入学してきた目的が「普通の勉強」だけではないからだ。
席に座って、小さなタブレットを出した。
表面上は授業のシラバスが表示されているが——内部では、あるターゲットのプロファイリングが走っている。
ターゲット。
「東大地球防衛同好会」の三名。
澪は地球の内閣府が秘密裏に設けた「地球防衛モニタリング組織」の協力者だ。正式な組織員ではないが、天才的な工学技術を買われてスカウトされた。
「謎の三人組の正体を特定する」
それが、彼女に与えられた任務だった。
ただし——澪自身は、この任務に複雑な感情を持っていた。
(謎の三人組は確かに地球を守ってる。それは事実。なのになぜ……)
任務だから動く。でも心のどこかに、引っかかるものがある。
「あの、ここ座っていいですか?」
突然声がかかった。
澪が見上げると——背の高い、黒髪のミディアムヘアの青年が立っていた。
「ど、どうぞ」
青年は向かいに座った。
「新入生?」
「はい」
「どの学部?」
「宇宙工学部です」
「へえ。俺は宇宙物理学部。三年の藤堂です」
「あ、神楽坂といいます」
「神楽坂さんか。早速で悪いけど——迷子になってる?さっきから食堂の中を三周してた」
「三周……気づかれてたんですか」
「なんとなく」
澪は恥ずかしくなった。
(私の観察力はまだまだだ)
「慣れたら面白い場所だよ、ここは」と青年——藤堂駿——は言った。「何か困ったことがあれば気軽に声をかけて」
「ありがとうございます」
駿は席を立った。
「邪魔したな。それじゃ」
澪はその背中を見送りながら——タブレットの画面を見た。
ターゲットプロファイルの中の一つ。
(藤堂駿、二十歳、宇宙物理学部三年……)
偶然だろうか。
あるいは——
(偶然じゃないかもしれない)
澪は少し考えた。
(ターゲットが先に接触してきた?いや、あれは普通の親切心に見えた……でも、こんなに早く接触するのは——)
複雑な計算が頭の中で走り始めた。
◆
「接触した」と駿は甚之助とヨーコのいる作業室に戻って言った。
「え?」とヨーコ。「何でいきなり接触するの?」
「向こうの観察力と反応を見たかった」と駿は答えた。「観察している最中に、誰かに観察されていると気づいたら——普通の人は動揺する。でも彼女は気づいていなかった。ということは——」
「訓練を受けてるけど、まだ経験が浅い、かな?」
「そう思う。諜報員なら俺が接触してきた時点で警戒するはずだ。でも彼女の反応は——本物の驚きだった」
「なら何者だ?」
「わからない。でも——しばらく観察する価値がある」
「接触したら逆に観察しにくくなったんじゃない?」
「いや。接触したから観察できる」
「難しいな」と甚之助は言った。
「スパイの読み合いだ。漫画で読んだことがある」
「漫画の知識でやるな」
「でも役に立ってる」
甚之助はため息をついた。
◆
一週間後、駿はまた食堂で澪と話した。
今度は偶然ではなく、意図的に同じ時間帯に行った。
「また会いましたね」と澪は言った。
「そうだな。慣れた?」
「少し。キャンパスの地図を頭に入れた」
「頭に入れるのが早いね」
「好きな方なので」
話をしながら、駿は澪の目の動きを観察していた。
会話しながら、周囲の状況を確認している。自然に見せているが——確かに定期的に視野を広げている。
訓練を受けている。
でも——この少女の目には、任務だけで動いている人間の目には見えない何かがあった。
迷い。
あるいは、葛藤。
「一つ聞いていいですか」と澪が言った。
「どうぞ」
「藤堂さんは——なぜ物理学部に?」
「宇宙が好きだから。もっと正確に言えば、宇宙の謎が好きだ。謎があれば解きたくなる」
「謎……」
「澪さんは?宇宙工学部に入ったのはなぜ?」
「私も——宇宙が好きです。でも、違う理由も……」
「違う理由?」
「えっ、なんでもないです」
「そうか」
会話が途切れた。
「藤堂さん」と澪は少し考えてから言った。「もし——もし誰かが正しいことをしていても、それが許可されていない方法だとしたら、どう思いますか?」
「面白い質問だ」と駿は答えた。真剣に考えながら。
「許可されていない方法でも——守るべきものを守れているなら、俺は正しいと思う。ルールは道具だ。守るべきものより、ルールの方が大事になってしまったら本末転倒だ」
「……でも、それは自分で判断するものじゃなくて……」
「俺は自分で判断する。それしかできないから」
澪は少し黙った。
「正直な人ですね」
「そう言われる」
「怖くないんですか。自分で判断することが」
「怖い。でも誰かが判断しなきゃいけない場面があって——誰もしないなら、俺がする」
澪の目に、何かが揺れた。
「……ありがとうございます」
「なんの礼だ?」
「いろいろ、考えるきっかけになりました」
◆
その夜。
澪は自室のタブレットに向かって、報告を書いた。
「ターゲット観察報告書——しかし今日の会話の内容は報告には含めない」
彼女は少し考えてから、タブレットを閉じた。
(私は何をしているんだろう)
任務で来た。でも——正しいことをしている人たちを捕まえることが、本当に正しいのか。
答えは出なかった。
ただ、タブレットの前で、澪はしばらくの間、星の見える窓を眺めていた。




