18 やすらぎ
これは、ヘルロウが堕天する前、クラス替えでフローズと同じクラスになったばかりの話。
フローズは、それまでヘルロウとは一言も口を聞いたことがなかった。
というか、『氷の女王』などと陰口を叩かれるほどの彼女は、この学校のほとんどの生徒と挨拶すら交わしたことがない。
フローズの優秀さに憧れて、親しくなりたがる者は大勢いたのだが、彼女は凍るような視線と沈黙でそれらをすべてシャットアウトしていた。
しかしヘルロウだけは、全く相手をされなくても、懲りずに話しかけてきた。
といっても、ヘルロウの接し方は異質で、媚びることもへつらうこともせず、
「シャンプー変えたのか」「爪切ったのか」「靴を新しくしたんだな」
それが良いとも悪いとも言わず、他の生徒にするように、気付いたことを一方的に口にして去っていくのみ。
フローズはそんなヘルロウのことを、自分以上に変わった天使だ、と内心思っていた。
そんなふたりが初絡みともいえる会話をしたのは、授業の真っ最中。
フローズにとっては晴天の霹靂のような瞬間であった。
「せんせー。ちょっと身体の具合が悪いので、保健室行ってきます」
そう言って立ち上がったヘルロウは、いつもならそそくさと教室の後ろにから出て行くのだが、その日に限っては教壇のほうに向かっていった。
俗にいう『優等生席』の前で止まったヘルロウは、
「フローズ、保健室まで連れてってくれ」
普段ならフローズは無視するのだが、こんなシチュエーションで話しかけられては、答えざるをえない。
「……なんで、私が……?」
「このクラスで一番頭のいいお前なら、授業のひとつやふたつ抜けても問題ないだろう?」
なんだか腑に落ちない理由だったが、合理的な理由でもあった。
もちろん断ることもできたのだが、フローズはある理由で、その申し出を引き受ける。
特に言葉も交わすことなく、ふたりで保健室に向かう。
保健の先生はいなかったが、ヘルロウはおかまいなしにベッドに飛び込んでいった。
「この時間、保健の先生は職員室にいるんだ。だから昼寝するにはうってつけなんだ」
「具合が悪いんじゃなかったの?」
「まあそう言うなって、ベットなら他にもあるから、お前も寝てろよ」
「なんで私が」
「俺より、お前のほうが昼寝が必要だと思うがな。最近、夜遅くまで勉強してて、ぜんぜん寝てないんじゃないか? そのせいで、風邪でもひいたんだろう」
フローズは何があっても表情ひとつ変えないことで有名であった。
しかしこの時ばかりは、瞼をほんの数ミクロン持ち上げていた。
「どうして、それを……?」
「朝からずっと顔色が悪かったし、授業中、頭が少しフラついてた」
フローズは、今度は明確に眉をひそめた。
それは、初めての『動揺』であった。
なぜならば、初めてだったからだ。
自分の変化を見破られたのは。
フローズは、高名なる軍師一族の家に生まれた、エリート天使である。
そのため、幼い頃から徹底して、ありとあらゆる学問を叩き込まれてきた。
そして祖父と父という、きびしいふたり組からこう言われ続けてきた。
「この家の天使は、どんな時であっても顔色ひとつ変えてはならん! なぜならば軍師たるもの、常に沈着でなくてはならぬからだ! 喜びや悲しみ、怒りや動揺、好調や不調、それを悟られるのは、軍師として失格だからだ! フローズよ、どんな時でも表情、そして感情を殺すのだ!」
女性は軍師にはなれないのだが、フローズは軍師としての英才教育を受けてきた。
少しでも泣いたり笑ったりすると、鞭で打ち据えられた。
彼女は幼い頃から、家にも学校にも、安らぎの場はなかった。
身体の調子がいくら悪くても、顔に出せば鞭打ちが待っているので、病気すらも内に秘めた。
風邪をひいてもクシャミなどもってのほかで、悪寒ひとつ表に出すことは許されなかった。
家では母親にも甘えられず、学校でも感情を押し殺していたので、友達もできなかった。
小学生が当たり前のように体験する、青い友情や淡い初恋など、彼女には無縁であった。
そうしていくうちに、自分の心が、表情が、氷結していくように感じた。
小学校を卒業する頃には、『氷の女王』と呼ばれるようになった。
もう、自分は誰にも『悟られない』自信があった。
生物の持つ、生理的反射や無条件反射すらも、制御下に置いたはずであった。
事実、風邪などを引いていたとしても、家族や取り巻きの者たちは微塵も気づかない。
それすらも当たり前になってきて、自分はもう、死ぬまで変わることはないと思っていた。
しかし……気付かれてしまった。
同じクラスになって間もないばかりの、落ちこぼれの天使に……!
それはフローズが忘れかけた感情を、そして身体の震えを呼び覚ますのに十分な威力があった。
しかしそれをやってのけた落ちこぼれ天使は、事もなげにこう言った。
「さっきも言ったけど、お前はもう、学校の授業の内容なんてぜんぶ頭に入ってるんだろ? 無理して優等生ごっこもいいが、たまにはこうやってサボって寝るほうが、今のお前にはよっぽど有意義なんじゃないのか?」
「む、無理してなんか……!」
途中で、ハッと口を押えるフローズ。
こんなに『怒り』で荒げた声をあげたのは、生まれて初めてだったからだ。
「まあなんでもいいや。どっちみち授業をサボった失点は俺に付くんだから、好きにしたらどうだ」
ヘルロウはそれだけ言って、さっさと目を閉じて寝てしまった。
『天使中学』では、教師の指示なく授業を抜けた場合、理由にかかわらず失点が与えられる。
しかしそれは当人のみで、体調不良などで付き添った生徒にはペナルティは一切ない。
「……まさか、ヘルロウ君……。私を休ませるために……?」
しかしもう、ヘルロウからの返事はなかった。
かわりにベッドの上にあったのは、安らかな寝息と、幸せそうな寝顔。
「寝るの早っ」
フローズは思わず、プッと吹き出してしまう。
ついに、『笑い』まで解き放たれてしまった。
彼女は『驚き』のあまり、ついには花開くように、瞼を見開く。
そしてふと、壁に掛かった鏡に映り込んだ自分の顔をみて、つぶやいた。
「私って……。こんな顔、できたんだ……」




