39 父と息子
そこは、かつてその領内で、もっとも栄華を誇った場所。
大きな川に架かった橋。
そこを渡る人々の顔は、活気と笑顔に満ちあふれていた。
そしてだれもが、橋を渡った先にある大きな屋敷に、羨望と尊敬のまなざしを送っていた。
「ここは川が多くて、他の領地に比べたらいろいろ不便だというのに、何不自由なく暮らせて、本当に有り難いなぁ!」
「この領地の元になった集落ができたのは百年前らしいが、その時は、まともに住めるわけがないって言われてたそうだぞ!」
「でも今じゃあ、よその領地からも引っ越してくるヤツがいるくらいだ!」
「これも何もかも、この橋のおかげだよ!」
「ああ! こんな立派な橋をたくさん架けてくれた、領主様には感謝しなくちゃなぁ!」
そんな光景は、ルシエロ領では日常であった。
しかし今や、その面影すらもない。
戦争の直後のような焼け野原が広がり、人は誰もいない。
死肉にたかるハエのような白アリだけが、黒い霧のように空を覆っている。
かつてはこの領内いちばんの大橋があった川。
30億もの大金を費やして架けられた橋は、もはや残骸が川岸に散らばるのみ。
腐ってばらばらになった木の残骸は、さらなる虫を呼び……。
鼻が曲がるような腐臭を放っていた。
その中に、黒い人影が。
岩によりかかり、死んだ魚のような瞳で、淀んだ川を眺めている。
影のような肌をしているのは、虫がたかっているせいと、何日も風呂に入っていないせいであった。
そこに……。
別の人影が近づいていく。
「ああっ……!? こんな所に繋がれて……! かわいそうに、ブリッヂレイカー!」
「ち……父上……。なんで、こんな所に……」
「お前が川のそばで繋がれていると聞いて、こうやって助けにきたんじゃよ! ささ、枷を外してやろう」
ブリッヂメイカーは、避難所にいる守衛に頼み込んで手に入れた、鍵を使って枷を外す。
そして息子の身体に、パラパラと粉のようなものを振りかけた。
「……なんですか、コレは……?」
「これはな、タンジーという花から創った虫除けじゃ。これがあれば、虫にたかられることもなくなる」
熱心に粉をまぶしてくる父親に、息子は乾いた笑いを漏らす。
「……フッ、花で創った粉なんかで、虫が来なくなるんだったら、誰も苦労は……」
しかし、効果はてきめんであった。
ブリッヂレイカーの身体からは、あっという間に……。
いやそれどころか、まるで魔法のバリアでも張られたかのように虫たちは逃げ去り、周囲2メートルほどからまったく入ってこなくなった。
それまで息子は感情を捨て去ったかのように荒んでいたのだが、これには驚きに目を剥いた。
彼の瞳に光が戻ったのを見て、父親は穏やかに笑んだ。
「これで、落ち着いて話ができるじゃろ。と、その前に……ロクに食べておらんのじゃろう? これを食べるがいい」
サンドイッチと水筒を差し出されるなり、息子はひったくるようにして受け取り、一気にガッつく。
彼は領主になってからはサンドイッチなど粗食だと思っていたが、いまは世界でいちばんの美食に感じられた。
息子が腹を満たして、ひと心地ついたのを確認すると……。
父親は小瓶を取り出し、息子の手に握らせた。
「……今度は、なんなんですか……?」
やや血色の戻った顔で、瓶をしげしげと見つめるブリッヂレイカー。
手のひらサイズの小瓶の中には、オレンジ色の粉末が入っている。
ほのかに、柑橘系の香りがした。
「それはムシヨケギクという花と、レモンを粉末にして混ぜた殺虫剤じゃ」
「さっちゅう……ざい……?」
「そう。ワシがさっき使ったのは防虫剤。虫を遠ざける薬じゃったが、その瓶に入っているのは殺虫剤。虫を殺す薬じゃよ」
息子は半信半疑で、瓶の中から粉をひとつまみ取り出すと、離れた所でブオンブオンと羽音を立てている白アリの群れに向かって撒いてみた。
すると、
……コロリッ!
という擬音がしそうなくらいあっさりと、白アリたちは墜落。
河原の地面に逆さまになってもがいていたが、しばらくすると動かなくなった。
「……す、すごい……!」
「そうじゃろう? これがあれば、白アリを減らすことができる。叩いて殺すよりも早く、火を放つよりずっと安全に……そして確実にな」
「……父上。なぜ俺に、こんなものを見せにきたのですか? 俺のしでかしたことを、責めるためですか?」
「いいや、そうじゃない。その防虫剤を使って、お前が率先して白アリ退治をするんじゃ。そのあとに、皆にしっかりと謝るんじゃ。そうすれば、お前の罪も軽くなるはずじゃ」
なんとブリッヂメイカーはブリッヂレイカーを助けるだけでなく……。
汚名返上のチャンスまで、与えようとしていたのだ……!
たしかにこのおびただしい白アリを退治できれば、ブリッヂレイカーは領地を救ったヒーローになれるだろう。
しかし原因を作ったのもブリッヂレイカーなので、罪は帳消しにはならない。
それでも贖罪の意思は示せるので、投獄や処刑は免れる可能性はじゅうぶんに出てくる。
またとないチャンスであったが、ブリッヂレイカーは瓶を手にしたまま、しばらく無言でいた。
そして、ようやく一言、
「これも……ヘルロウに教えてもらったものなのですか?」
「ああ。その通りじゃ。ヘルロウ様は、このルシエロに生えておる多くの木が、白アリが好むヤワモミだと知っていたんじゃ。それで、いざという時のために、防虫剤と殺虫剤の創り方を教えてくださったんじゃ」
そしてブリッヂメイカーは、「ただ」と前置きして続ける。
これから言うことが、より大切だというように。
「この薬剤の創り方を教えてくださったとき、ヘルロウ様はこうおっしゃっていたんじゃ。なるべくなら殺虫剤は使わず、防虫剤のほうを使ってくれ、と……」
「なぜですか?」
「生きる糧を得るために生き物を殺すのはしょうがないが、それ以外の目的で生き物を殺すのを、ヘルロウ様は良しとしなかったんじゃ。家や畑を守るためなら、防虫剤で事足りるからのう。じゃからワシも殺虫剤は使わずにおいたんじゃ。でも今となっては、そうも言っておれん。ヘルロウ様も許してくれるじゃろう」
ブリッヂレイカーに託されたのは、ふたり分の想いであった。
父親であるブリッヂメイカーと、そして、ヘルロウの。
これで彼も、目が覚めてくれるだろう。
……かに、思われたのだが……。
このあと彼が下したのは、最も愚かな選択であった……!




