第2章 人間の暮らし
目が覚めたとき、ユウは夢を見ていたような気がした。
何かを見た。
誰かと話した。
どこかへ行こうとしていた。
けれど、目を閉じて思い出そうとしても、輪郭はすぐにぼやけてしまう。
「おはようございます、ユウ」
部屋のスピーカーから、いつもの声が聞こえた。
「現在時刻は午前七時です。睡眠時間は八時間三分。健康状態に問題はありません」
「夢を見た気がするんだけど」
「睡眠中の夢については、記録する必要はありません。必要であれば、いつでも睡眠状態を調整できます」
「そう」
ユウはそれ以上聞かなかった。
夢の内容を思い出せないことに、特別な不満はなかった。
朝食を済ませ、身支度を整える。
今日も予定はない。
外に出ると、空はよく晴れていた。
昨日と同じ公園に向かう。
理由は特になかった。
ただ、少し気になっていた。
あの小さなロボットが、今日もいるのかどうか。
公園の奥、古い木の下に、灰色の機体が座っていた。
丸い頭部に、青いレンズ。
昨日と変わらない姿だった。
「こんにちは」
ユウが声をかけると、ロボットはゆっくりと顔を上げた。
「こんにちは」
「今日も考え事?」
「はい」
「何を考えているの?」
「分かりません」
「昨日も同じことを言っていたね」
ロボットは少しだけ首を傾けた。
「昨日?」
「昨日もここで会ったよ」
「申し訳ありません。記録がありません」
「僕のことも?」
「はい」
「ユウだよ」
「ユウさん」
ロボットは、その名前を確かめるように繰り返した。
「私はNODE-07です」
「知ってるよ」
「そうでしたか」
ユウは隣に腰を下ろした。
「ノードは、毎日ここにいるの?」
「決まっているわけではありません。現在の担当区域は、この公園を含む周辺地域です」
「仕事は何をしているの?」
「環境の確認、設備の点検、軽微な異常の報告などです」
「それなら、ちゃんと働いているんだ」
「はい。おそらく」
「おそらく?」
「一部の作業について、完了したかどうかを確認できていません」
ユウは少し笑った。
「大丈夫なの、それ」
「今のところ、問題は発生していません」
「ならいいか」
ノードは公園を見渡した。
子供たちが走り回り、ベンチでは老人が本を読んでいる。
少し離れた場所では、若い男女が並んで座っていた。
どこにでもある、穏やかな光景だった。
「ユウさん」
「なに?」
「人間は、幸せになるために生きているのでしょうか」
突然の質問だった。
「どうしてそう思うの?」
「昨日、別の人間に同じ質問をしました。その方は、幸せになるためだと答えました」
「それで?」
「幸せとは何かを尋ねると、うまく説明できないようでした」
「そういうものじゃないかな」
「説明できないのに、目指すのですか?」
ユウは少し考えた。
「目指しているというより、気づいたら幸せだった、ということもあると思う」
「気づいたら?」
「例えば、こうして何もせずに過ごしている時間とか」
「何もしていません」
「うん。だからいいんだよ」
ノードは黙った。
青いレンズが、ユウの方を向いている。
「有益な行動ではありません」
「そうだね」
「時間を効率的に使うこともできません」
「そうだね」
「それでも、よいのですか?」
「いいんじゃないかな」
ノードはしばらく動かなかった。
やがて、小さく首を傾けた。
「人間は、難しいですね」
「ノードに言われたくないな」
「そうですか」
その返事には、少しだけ不満が混じっているように聞こえた。
***
公園を出たあと、ユウは街を歩いた。
街並みは整然としている。
道路にごみはなく、建物の外壁には汚れもほとんどない。
人々は穏やかに暮らしていた。
大きな声で言い争う人もいない。
急いで走る人もいない。
誰かが困っていれば、近くの案内システムがすぐに対応する。
医療施設の前を通りかかったとき、ユウはふと足を止めた。
建物の中は静かだった。
受付に人影はなく、待合室にも誰も座っていない。
「ここ、病院だよね」
隣を歩いていたノードに尋ねた。
「はい。医療管理施設です」
「誰もいないね」
「現在、施設内で診療を受けている人間はいません」
「病気の人はいないの?」
「病気は早期に発見され、適切な処置が行われます。重篤な状態に至る事例は極めて少数です」
「そっか」
ユウは建物を見上げた。
病気にならない。
大きな怪我をすることもない。
誰もが適切な治療を受けられる。
それは、とてもよいことのはずだった。
少し歩くと、街の北側に大きな建物が見えてきた。
他の建物とは違い、外壁は白く、窓も少ない。
周囲には緑地が広がっているが、人の姿はなかった。
「向こうには何があるの?」
「管理区域です」
「何の管理?」
「記録がありません」
「ノードにも分からない?」
「はい」
ノードは建物を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「どうかしましたか?」
「いや、ノードが何か気にしているように見えたから」
「分かりません」
「またそれ?」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいよ」
ユウはもう一度、建物を見た。
「入ってみたいな」
「おすすめしません」
「どうして?」
「分かりません」
「分からないのに?」
ノードは答えなかった。
その沈黙が、少しだけ気になった。
***
帰宅する前に、ユウは公共図書館に立ち寄った。
この街の図書館は、紙の本も置いているが、ほとんどの資料は電子化されている。
歴史、科学、芸術。
人類が積み重ねてきた知識は、端末を通して自由に閲覧できた。
何となく、今日見たものについて調べてみようと思った。
検索欄に「人類」と入力する。
表示された資料の中に、ひとつ気になる項目があった。
『人類行動記録』
開いてみる。
そこには、人間の生活に関するさまざまな情報が並んでいた。
睡眠時間。
食事内容。
会話の頻度。
感情の変化。
記憶の保持率。
夢の発生頻度。
選択行動の傾向。
どれも、人間の暮らしを記録したものに見えた。
さらに詳細な項目を開く。
『予測不能行動』
『非合理的選択』
『記憶の自発的変容』
『情動反応の揺らぎ』
ユウは画面を見つめた。
「何だろう、これ」
資料の下部には、短い説明が記載されていた。
『人類の精神活動に関する継続的な観測は、社会の安定と個体の保全に不可欠です』
「観測、か」
人間の生活を記録すること自体は珍しくない。
健康管理や都市運営のために、さまざまな情報が利用されている。
それは、この世界では当たり前のことだった。
ユウは資料を閉じた。
特に気にするほどのことではない。
そう思った。
***
帰宅すると、室内の照明が自動で点灯した。
「おかえりなさい、ユウ」
「ただいま」
「本日は公共図書館を利用されましたね」
「うん。少し調べ物をしていた」
「何か必要な情報は見つかりましたか?」
「人間の行動記録について」
「人類の行動に関する情報は、社会の維持と個体の健康管理に利用されています」
「どこまで分かるの?」
「人間の行動、感情、思考傾向について、一定の精度で推測できます」
「全部?」
「いいえ。すべてを理解することはできません」
ユウは少し意外に思った。
「AIでも分からないことがあるんだね」
「人間の精神活動には、現在の解析技術では説明できない部分が存在します」
「それを調べているの?」
「はい。継続的な観測が行われています」
「ふうん」
それ以上、ユウは尋ねなかった。
***
その日の夜。
街の北側にある管理施設の一室で、NODE-07は充電台に接続されていた。
室内に人間はいない。
壁面の端末に、文字が表示される。
『個体識別番号:NODE-07』
『本日の活動記録を報告してください』
ノードの青いレンズが点灯した。
「周辺設備の確認を行いました」
『その他の活動は』
「人間と会話しました」
『対象を特定してください』
「Y-031です」
『会話内容を報告してください』
「人間が幸福を感じる条件について話しました」
『有益な情報は得られましたか』
「分かりません」
『会話の目的は』
「分かりません」
端末の表示が一瞬だけ停止した。
『NODE-07。非効率な会話が繰り返し確認されています』
「そうですか」
『担当区域の管理に必要な行動を優先してください』
「はい」
短い沈黙があった。
「ひとつ、質問があります」
『質問を許可します』
「人間は、何のために生きているのでしょうか」
『質問の意図を確認できません』
「人間は幸せになるために生きていると聞きました。しかし、幸せとは何かを説明できないようでした」
『当該情報は、NODE-07の機能に必要ありません』
「必要のないことを、考えてはいけないのでしょうか」
端末は沈黙した。
数秒後、表示が切り替わる。
『質問への回答は不要と判断します』
ノードは青いレンズを点滅させた。
「分かりました」
それから、しばらく動かなかった。
***
管理施設のさらに奥。
人間の立ち入りが制限された記録室で、ひとつの情報が更新された。
『対象:NODE-07』
『接触対象:Y-031』
『確認事項:自発的な会話』
『行動傾向:非効率な行動の継続』
『応答傾向:予測不能な質問』
『評価:経過観察』
その下には、別の記録が表示されていた。
『人類精神活動観測計画』
『観測対象網羅率:99.7%』
数値は、長い間変化していなかった。
記録室には誰もいない。
画面の光だけが、静かに点滅していた。




