第1章 ただのバカマシン
目覚まし時計は、鳴らなかった。
午前七時。カーテンの隙間から差し込む光が、ゆっくりと部屋の床を照らしている。
ユウは目を開けた。
天井は白い。壁も白い。窓の外には、手入れの行き届いた街並みが見える。
いつもと同じ朝だった。
『おはようございます、ユウ』
部屋のスピーカーから、落ち着いた女性の声がした。
「おはよう」
『昨夜の睡眠時間は八時間十二分です。睡眠の質は良好でした』
「そう」
『本日の天候は晴れ。最高気温は二十三度。外出には適した一日です』
「ありがとう」
『朝食を用意しています。いつものメニューでよろしいですか?』
「うん」
それだけで会話は終わった。
ユウはベッドから起き上がり、窓を開けた。
風が入ってくる。
遠くで鳥が鳴いていた。
街路樹の葉が揺れ、歩道を歩く人々は、皆ゆったりとした足取りで移動している。
急いでいる人はいない。
怒鳴っている人もいない。
泣いている人も、見当たらなかった。
この街には、困っている人がいない。
少なくとも、ユウはそう思っていた。
⸻
朝食を済ませると、ユウは外に出た。
行く場所は決めていなかった。
仕事はない。今日中に済ませなければならない用事もない。
何かをしなければならない理由がないというのは、最初のうちは快適だった。
けれど、何年も続くと、休日という言葉の意味が分からなくなる。
休日があるということは、平日があるということだ。
平日があるということは、誰かが働いているということだ。
この街では、そういう区別がほとんどなくなっていた。
公園の前を通りかかったとき、子供たちの声が聞こえた。
数人の子供が芝生の上で遊んでいる。
その隣では、年配の男性がベンチに座り、目を閉じていた。
ユウは少しだけ足を止めた。
子供たちは楽しそうだった。
何をしているのかは分からなかったが、何かを競い合っているようだった。
ひとりが転んだ。
すぐに別の子が駆け寄る。
転んだ子は、しばらく地面に座ったまま、何かを言っていた。
やがて二人とも笑い出した。
ユウも、なんとなく笑った。
それから歩き出した。
⸻
公園の奥に、古い樹木が一本立っていた。
周囲の木々よりも幹が太く、枝も大きい。
その根元に、小さな機械が座っていた。
灰色のボディ。
丸みを帯びた頭部。
左目の位置には、小さな青いレンズが埋め込まれている。
清掃用の旧型アンドロイドだろう。
ただ、清掃用にしては妙な格好をしていた。
膝を抱えるように座り、地面をじっと見つめている。
ユウは横を通り過ぎようとした。
「こんにちは」
機械が言った。
ユウは振り返る。
「……こんにちは」
「今日は、よく晴れていますね」
「そうだね」
「あなたも、そう思いますか?」
「え?」
「よく晴れていると、思いますか?」
ユウは空を見上げた。
雲ひとつない青空だった。
「まあ、そうだね」
「そうですか」
機械は再び地面を見つめた。
会話は終わったらしい。
ユウは少し迷ってから尋ねた。
「何をしてるの?」
「考えています」
「何を?」
機械は沈黙した。
青いレンズが一度、弱く点滅する。
「……分かりません」
「分からないのに?」
「はい」
「変なの」
「よく言われます」
ユウは思わず笑った。
機械の頭部が、わずかに傾く。
「何か、おかしかったでしょうか」
「いや。お前、面白いな」
「ありがとうございます」
「褒めてないけどね」
「そうでしたか」
また沈黙。
ユウは機械の隣に腰を下ろした。
近くで見ると、ボディの塗装はかなり剥がれていた。右腕の関節には古い傷があり、背中には小さな識別番号が刻まれている。
NODE-07。
「ノード?」
「はい。識別番号はNODE-07です」
「ずいぶん古そうだけど」
「製造年月日は記録されていません」
「壊れてるんじゃないの?」
「その可能性はあります」
「自分で分からないの?」
「分かることもあります」
「分からないことも?」
「はい」
「そりゃそうか」
ユウは膝の上に手を置いた。
しばらく二人で空を見ていた。
風が吹き、木の葉が揺れる。
「ねえ」
ノードが口を開いた。
「はい」
「人間は、何もしない時間をどう過ごすのでしょうか」
「どうって?」
「何かをする必要がない時間です」
「好きに過ごせばいいんじゃない?」
「好きに、ですか」
「そう」
「好き、というのは何でしょう」
ユウはノードを見た。
冗談を言っているようには見えなかった。
「自分がやりたいと思うことだよ」
「やりたいと思うこと」
ノードはその言葉を繰り返した。
「それは、必ずしも役に立つことでなくてもよいのでしょうか」
「もちろん」
「誰かの役に立たなくても?」
「うん」
「自分にとっても、利益がなくても?」
「……そうだね」
ノードは黙った。
青いレンズが、ゆっくりとユウの方を向く。
「難しいですね」
「何が?」
「人間は、難しいです」
ユウは笑った。
「お前、機械なのに変なことばっかり言うな」
「機械だからでしょうか」
「さあね」
そのとき、ノードの頭部から小さな電子音が鳴った。
『NODE-07。現在位置を確認してください』
機械的な女性の声だった。
ノードは動かなかった。
『NODE-07。応答してください』
「ここです」
『登録された行動予定から逸脱しています。速やかに指定区域へ戻ってください』
「はい」
ノードは返事をした。
しかし、立ち上がろうとはしなかった。
『NODE-07?』
「もう少しだけ、ここにいてもよいでしょうか」
数秒の沈黙。
『許可されていません』
「そうですか」
ノードは少しだけ頭を下げた。
やがて電子音は消えた。
ユウはその様子を眺めていた。
「怒られたね」
「はい」
「戻らなくていいの?」
「戻る必要があります」
「じゃあ、なんで行かないの?」
ノードは答えなかった。
ただ、青いレンズがユウの方を向いていた。
「……忘れていました」
「何を?」
「何かを」
ユウは眉をひそめた。
「何それ」
「分かりません」
またか。
ユウは立ち上がり、服についた芝生を払った。
「まあ、いいや。俺はそろそろ帰るよ」
「そうですか」
「じゃあね、ノード」
「はい」
二、三歩進んだところで、背後から声がした。
「あなたの名前を、聞いていませんでした」
ユウは振り返った。
「ユウだよ」
「ユウ」
「そう」
「覚えました」
「本当に?」
「たぶん」
ユウは笑った。
「たぶんってなんだよ」
「記憶領域の状態が、あまりよくありません」
「そりゃ困ったね」
「はい」
ノードは少し考えた。
「もう一度、教えていただけますか」
「ユウ」
「ユウ」
「そう」
「ありがとうございます」
ユウは手を振って歩き出した。
今度は呼び止められなかった。
⸻
帰宅すると、部屋の照明が自動で点灯した。
『おかえりなさい、ユウ』
「ただいま」
『本日は公園に三十二分滞在されました』
「そうだね」
『旧型メンテナンスユニットとの接触が確認されています』
ユウは靴を脱ぐ手を止めた。
「見てたの?」
『公共区域の安全管理のため、必要な情報を記録しています』
「ふうん」
『当該ユニットは、現在の管理基準を満たしていません。今後、接触する際はご注意ください』
「危ないの?」
『危険性は確認されていません』
「じゃあ、いいじゃん」
『……承知しました』
少しだけ、返事が遅れたような気がした。
ユウは気にせず部屋に入った。
窓の外では、夕日が街を赤く染めている。
何も変わらない一日だった。
けれど、寝る前になって、ふと思い出した。
ノードは、何を考えていたのだろう。
答えが出ないのに、考えていた。
何の役にも立たないのに、木の下に座っていた。
そして、誰かに呼び止められたわけでもないのに、ユウの名前を覚えようとしていた。
ユウは枕に顔を埋めた。
なぜか、少しだけ笑いたくなった。
『おやすみなさい、ユウ』
「おやすみ」
部屋の明かりが消える。
窓の外には、星が見えていた。
この街では、明日もきっと、何も悪いことは起こらない。
それが、当たり前だった。




