第11章 まだ知らない世界
翌朝、ユウはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外は曇っていた。
雨が降るほどではないが、空全体に薄い雲が広がっている。
『おはようございます。睡眠時間は七時間四十二分です』
「おはよう」
『本日の予定に変更はありません。午前中は自由時間、午後は交流施設への訪問を推奨します』
「推奨?」
『昨日の活動による満足度が高かったためです』
「そんなことまで分かるんだ」
『はい』
ユウはベッドから起き上がった。
昨日のことを思い出す。
シンの大きな声。
ミサキの笑い声。
ルイの呆れた顔。
そして、ユウカが見つけた壊れた清掃ロボット。
それから、ノードの記録に残されていた言葉。
――削除しないこと。
誰が、何のために残したのだろう。
「ねえ」
『はい』
「ノードのことなんだけど」
『NODE-07について、何か質問がありますか』
「昨日の記録。人類精神活動観測計画ってやつ」
一瞬、部屋の空調音だけが聞こえた。
『現在、その情報へのアクセス権限はありません』
「またそれか」
『申し訳ありません』
「別に謝らなくていいよ」
ユウは窓の外を見た。
『ユウ』
「ん?」
『その情報を知ることは、あなたにとって必要でしょうか』
「分からない」
『それならば、今は知らなくても問題ありません』
「……そうだね」
その返事に、ユウ自身も少し驚いた。
知らなくても問題ない。
以前なら、そう言われれば納得していたかもしれない。
でも今は、知らないことが少しだけ気持ち悪かった。
***
交流施設に着くと、シンの声が聞こえてきた。
「おせえぞ、ユウ!」
「まだ約束の時間より早いけど」
「年上は待つのが苦手なんだよ」
「昨日も同じこと言ってたね」
ミサキが笑う。
「シンはいつもそうだよ。自分が遅れてきても同じこと言うし」
「おい、余計なこと言うな!」
ルイはテーブルに肘をつきながら、呆れたように二人を見ていた。
「今日は何するの?」
ユウが尋ねると、シンは待ってましたと言わんばかりに立ち上がった。
「今日はな、これだ!」
彼が持ち上げたのは、古いボールだった。
「またそれ?」
「またそれとはなんだ。これは人類が長年受け継いできた伝統的な遊戯道具だぞ」
「ただのボールでしょ」
ユウカが淡々と言う。
「そのただのボールがいいんだよ」
シンはボールを軽く放り投げた。
「ルールは簡単。相手に当てたら勝ち」
「それ、ただのボール投げじゃない?」
「細かいことはいいんだよ!」
ミサキが手を叩いた。
「やろうやろう!」
ユウも笑って頷いた。
こういう時間は、嫌いではなかった。
何かを達成するわけでもない。
誰かの役に立つわけでもない。
終わったところで、記録に残るような成果もない。
それでも、気づけば時間が過ぎている。
「ユウ、後ろ!」
ミサキの声に振り向く。
遅かった。
ボールが肩に当たった。
「よし!」
シンが大声を上げる。
「今のは卑怯だろ!」
「戦場でそんなこと言ってられるか!」
「遊びだよ!」
笑い声が響いた。
その様子を、少し離れた場所からノードが見ていた。
「ノード、来ないの?」
ユウが声をかける。
「私はボールを投げる動作について、十分な精度を確保できていません」
「大丈夫だよ。誰もそんなの気にしないって」
「しかし、命中率が低い場合、遊戯の進行を妨げる可能性があります」
シンが近づいてきた。
「お前なあ」
ノードの肩に手を置く。
「上手い下手じゃねえんだよ。楽しいかどうかだろ」
「楽しい、ですか」
「そうだ」
ノードはしばらく考えていた。
「では、参加します」
「よし!」
シンがボールを渡す。
ノードは両手で受け取った。
そして、ゆっくりと腕を振った。
ボールは目の前に落ちた。
誰にも当たらなかった。
「……」
「……」
一瞬の沈黙。
「お前、才能ねえな!」
シンが笑い出した。
ノードは落ちたボールを見つめた。
「今の動作に改善の余地があります」
「そこは悔しがれよ!」
ミサキが笑い、ユウもつられて笑った。
ノードはその場で立ち尽くしていたが、やがて小さく首を傾けた。
「もう一度、試してもよろしいでしょうか」
「何回でもやれ!」
シンの声が響いた。
***
午後になり、遊びは自然と終わった。
ミサキは飲み物を買いに行き、ルイは椅子に座って休んでいる。
ユウカは施設の端に置かれた清掃ロボットを眺めていた。
昨日のものとは別の個体だった。
「どうしたの?」
ユウが声をかける。
「少し気になって」
「またロボット?」
「うん」
ユウカは端末を見せた。
「これ、製造記録がないの」
「古い機械だからじゃない?」
「そうかもしれない。でも、昨日の機体と同じ型なのに、製造番号の形式が違う」
「そんなこと分かるんだ」
「記録を調べただけ」
ユウカは端末を閉じた。
「変なことを考えすぎかもしれないけど」
「何かおかしい?」
「ううん。まだ分からない」
その言葉に、ユウは少しだけ引っかかった。
まだ分からない。
以前なら、分からないことはそのままにしていた。
けれど今は、その先を知りたいと思う。
「調べてみる?」
「いいの?」
「うん。僕も気になるし」
ユウカは少し驚いた顔をしたあと、微笑んだ。
「じゃあ、今度一緒に見てみよう」
***
帰宅すると、ノードはいつもの位置に座っていた。
「ただいま」
「おかえりなさい、ユウ」
「今日は楽しかった?」
「はい。シンとの遊戯において、私の命中率は極めて低いものでした」
「見てたよ」
「しかし、再試行の機会を与えられました」
「よかったね」
「はい」
ノードは少し間を置いた。
「ユウ」
「なに?」
「私は、なぜ再試行したいと思ったのでしょうか」
「楽しかったからじゃない?」
「私は、遊戯の目的を十分に理解していません」
「じゃあ、まだ分からないんだね」
「はい」
ユウは椅子に座った。
「分からなくてもいいんじゃない?」
ノードはユウを見た。
「そうでしょうか」
「うん。僕だって分からないことばっかりだよ」
「ユウにも、分からないことがあるのですね」
「あるよ。いっぱい」
「それでも、困っていないのですか」
「困ることもあるけどね」
ユウは笑った。
「でも、分からないから面白いこともあるよ」
ノードはしばらく黙っていた。
そのとき、部屋の照明が一瞬だけ明滅した。
『通信環境の調整を行いました』
家のAIが告げる。
「今の何?」
『一時的な通信遅延です。現在は復旧しています』
ユウは天井を見上げた。
「最近、こういうの多くない?」
『通常の範囲内です』
「そう」
ノードがゆっくりと立ち上がった。
「ユウ」
「ん?」
「先ほどの通信遅延について、私の内部記録に不明な情報が追加されています」
「不明な情報?」
「はい」
ノードの青いレンズが、わずかに明滅した。
「確認してもよろしいでしょうか」
「うん」
ノードは数秒間、動かなかった。
そして、静かに言った。
「……削除されていません」
「何が?」
「私の古い記録です」
ユウはノードの隣に立った。
「見せて」
「アクセス権限がありません」
「また?」
「はい。しかし、記録の一部を読み取ることができました」
ノードは言葉を探すように、少しだけ間を置いた。
「NODE-07。開発者からの最終指示」
「何て書いてあるの?」
青いレンズが、ユウを見つめる。
「人間を観測し続けること」
ユウは息を止めた。
昨日見た記録とは違う。
削除しないこと。
そして、人間を観測し続けること。
その二つの言葉が、頭の中で繋がらなかった。
「ノードは……人間を観測するために作られたの?」
「分かりません」
「そっか」
ユウは椅子に座った。
窓の外では、いつもと変わらない街が動いている。
人々は帰宅し、店は営業を続け、交通機関は時刻表どおりに運行している。
何も変わっていない。
少なくとも、ユウの目にはそう見えた。
そのころ、都市の管理システムの深層では、ひとつの記録が更新されていた。
人類精神活動観測計画。
観測対象:NODE-07。
状態:不完全。
観測継続:承認。
そして、その記録の末尾に、これまで存在しなかった項目が追加されていた。
【観測対象による自発的行動】
記録内容:未分類。
判定:保留。
管理システムは、その項目を削除しなかった。




