10話 聖女は魔獣の気配に気づきます。
目覚ましを止めて身体を起こす少し前、歌のようなものが聞こえた気がした。
寝ぼけた頭で耳を傾けるが、もう聞こえてこなかった。
「勇者様、おはようございます」
エプロン姿のフィリアが声をかけてきた。
「ああ、おはよう」
今日は数日ぶりに落ち着いた動作で、ワタワタもしてなければ焦げた臭いもさせていなかった。
「もう慣れたもんだね」
「まだまだです。でも少しずつ進歩しますよ」
そう言って指先の絆創膏を見せてくる。はキレイなものに交換されていたが、確かに数は増えていなかった。
「そう言えば、さっき歌ってた?」
「ふふ、聞こえました?」
楽しそうに笑っていた。
「教会で週末の集会で歌う讃美歌ですよ」
言われてみればどこかで聞いた気がした。旅の途中に立ち寄った先で何回か、フィリアが寄ったところの子どもたちと歌っていたような。
「さあ勇者様、顔を洗ってからそちらの準備をお願いできますか?」
いつものように布団を片付け、掃除機をかけてから座卓を出す。そこへフィリアが運んできた朝食はトーストにサラダと目玉焼きにコーヒーが付いていた。何日か前は魔法で用意していたメニューが、今は魔法なしで用意できるようになるなんて。
「フィリアは本当にすごいね」
「ふふ、日々精進しておりますよ」
2人して座卓について一緒に手を合わせる。
「「いただきます」」
思わず声が重なって笑ってしまった。
それから食事を終え、一緒に学校へと向かった。
背筋の伸びたキレイな動きで前を歩くフィリアを見てふと思いつく。
「フィリア、明日はやりたいことある?」
「明日ですか? 土曜日ですね」
あごに人差し指を引っ掛け、考えるようにうなる。
「お天気が良ければ、お布団を干したいですよね。お勉強も必要ですし、百科事典も読みたいですし」
このままでは家の中だけで終わりそうだ。
「よかったら、明日は遠出しないか?」
「え……」
不意に立ち止まり、向き直ってきた。
「それって……」
フィリアの顔が花開くように明るくなった。
「お出かけですね?」
「うん、前に言った電車とか船を」
「勇者様! ぜひ行きましょう!」
興奮したフィリアに両手を掴まれる。
「電車に船! 是非乗りましょうね、勇者様!」
「わかったわかった」
楽しそうにはしゃぐフィリアをなんとかなだめる。学校へ足を進めた。
俺もデートを取り付けたことが嬉しく、本当に明日が楽しみだ。
勇者様と明日の約束をして、ソワソワと授業を受けていると、いつもより早く放課後が来た気がしました。
生徒会のお手伝いが終わったところ、不意に胸がざわついた。
続いて暗い中での映像が頭をよぎる。
外を見ても夕方の空はまだ明るく、まだ時間はあるようだった。
「フィリアちゃん、どうしたの?」
「いえ、少し忘れ物を思い出しまして。どうぞ先にお帰りください」
そう言ってお手伝いをした生徒会の方々を笑顔で見送った。それから1人で教室に戻り、頭によぎった映像を思い返す。
どこか奥詰まった路地裏に見えたから、学校の外のようだった。それでも建物の隙間から学校が見えたから、そう遠くないはず。
鞄を持って学校を出る。校舎を眺めて見えた映像との方角を合わせて歩き出した。
しばらくして雑居ビルとマンションの間に路地を見つけて進む。日が隠れてしまい、空よりも暗がりのような道だった。
表通りから隠れた一画に、探していたものは見つかった。こちらが見つからないように物陰から様子を伺う。
大型の蜘蛛の魔物がいた。足だけで人の身長くらいの大きさがある。旅の間に何度も倒したことのある、向こうの世界の生き物だった。お尻から糸を出し、獲物を待ち構える巣を作っている。
どうしてこちらに魔物がいるんでしょう。
考えても仕方がない。今目の前に人の脅威がいる。こちらの人は魔物に対抗できないんだから。
今の私でも!
物陰から飛び出す。
「ホーリーライト!」
一息に声を上げて、蜘蛛に向けて手を伸ばす。手の平から光が放たれ、瞬く間もなく蜘蛛の胴体を貫いた。
蜘蛛な体はあっさり崩れ、灰になっていく。
「よかった。まだできた」
誰かに見られる前に終われてよかった。
少しだけ上がった息をゆっくり整える。
路地裏を横断するほどの長く太い糸は残ったけど、蜘蛛がいなければ騒ぎにならないかな?
少し迷っているうちに、足元が見えにくいほどに暗くなっていた。
「早く帰らないと勇者様に心配されますね」
立ち去ろうと駆け出して、道の向こうの空がまだ明るいことに気がつく。影は自分の周りだけだった。
とっさに上を見上げると、一際大きな蜘蛛が降ってきた。走る勢いそのままに飛び出し、地面を転がる。
風切り音が背中をかすめた感触に背筋が震える。先ほどまで立っていた場所に、倒した蜘蛛より大きな蜘蛛が鎌足を地面に突き立てていた。
もう1匹いた……
探知魔法で辺りを伺うが、他にはいないようだった。最初からそうすればよかったのに!
「ホーリーライト!」
蜘蛛に向けて手をかざす。同じように光が蜘蛛を貫い……貫かない!
光は蜘蛛の硬い殻に弾けて消えてしまった。
「なんで」
驚きに固まっているうちに蜘蛛が迫ってきた。
「ライトウォール!」
防御魔法を蜘蛛の間に貼って遮る。
それで蜘蛛を遮れても衝撃に体が弾かれて、背中を壁に打ち付けられる。
痛みに目の前が白黒になる。
集中力が途切れそうになり、歯を食いしばって防御魔法を維持した。
蜘蛛か構わず防御魔法の盾に鎌足を打ち付けてくる。少しずつ盾は形を削られていた。
ダメ、魔力が足りない!
消したら次作れる?
攻撃は?
もう一度打って倒せる?
考えがまとまらない。
聖女なら、このくらいの魔物は簡単に倒せるのに。
今までなら簡単に倒せたはずなのに!
ついには盾が割れて、鎌足が私の足を掠める。
「くぅ!」
逃げようとしたスネを薄く切られ、地面に転がった。体を起こして肩越しに振り返ると、すでに蜘蛛が覆い被さってきていた。
「や」
喉が詰まって悲鳴も上がらない。
まさか、こんな魔物も倒せないなんて。
蜘蛛が鎌足をかかげる。
勇者様!
振り下ろされる。
とっさに顔を背けて目を閉じ、痛みに備えた。
痛みは来ず、代わりに風が吹き抜けた。
目を開けて顔を上げると、蜘蛛がいたはずの場所に望んだ背中があった。
「帰りが遅いと思ったら」
いつか見たように、勇者様の向こうで蜘蛛が灰になっていく。
「とんだ悪い虫がいたもんだ」
「勇者様……」
「大丈夫か?」
振り返って声をかけてくれた。起き上がり地面に座り込んだまま向き直る。
「はい、ありがとうございます」
立ちあがろうとして、足の痛みがひどいことに気がつく。かすめたスネの靴下が裂け、少し血が溢れていた。
「あ、ごめんなさい。少し痛いです」
勇者様の手を借りて立ち上がる。服の砂埃を払って向き直る。
「申し訳ありません。遅れを取ってしまいました。次はこんなことには」
「……」
何か不機嫌そうに口を一文字に結んでいた。
「勇者様?」
「そうじゃないでしょ」
「え?」
何が違うんだろう?
勇者様の否定が分からなかった。
ため息を吐いて勇者様は背を向ける。張り巡らされた蜘蛛の糸に手をかけて、絡めとるように腕をぐるぐる振り回した。
それからギュッと力を込められた音が聞こえると、糸を握った拳が光を放ち、糸が端から灰に変わっていった。
「これで良しっと」
手のひらに残った灰を叩いて落とす。
「さ、帰るよ」
そう言って、勇者様は私の肩に手を置くと抱き寄せられ、膝裏に腕を通してサッと抱き上げられた。
落ちそうになり、思わず勇者様の首に腕を回す。
「ゆ、勇者様? 歩けますよ?」
「ダメ、怪我人を歩かせられない」
鞄も取られ、そのまま飛ぶように走り出す。
「しっかり捕まってて」




