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花奴隷調律譚  作者: 駒草
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第8話


 ノワールが我が家に来て二週間が経った頃から、私は気づき始めていた。

 彼の漆黒の花が、少しずつ、その身を閉じようとしていることに。

 

 最初は朝だけだった。目が覚めた直後の、まだ意識が覚醒しきらない曖昧な時間に、大ぶりの花弁がきゅっと内側へ折り畳まれる。しかし陽光を浴びるうちに元に戻るため、私は静観することにした。

 

 それが今では、昼過ぎになっても閉じたまま。

 夜の香気も目に見えて薄くなった。食事の際、培養液を差し出しても、口はつけるが喉の奥で堰き止めるような不自然な飲み方をする。好物のはずのハチミツのナッツは、皿の端へ静かに押しやられていた。

 

 ブランはそれに気づいていなかった。ヴィオレットは気づいていたが、自身の不安定な波を御すだけで手一杯だった。

 

 ルージュだけが、気づいていた。

 戦闘用として調整された本能は、伊達ではない。彼は私よりも早く、ノワールの微細な変化を肌で察知していたはずだ。しかし、何も言わなかった。

 彼自身が自ら動くのを待っていることを、彼もまた理解していたのだろう。

 

 転機は、あまりにも穏やかな午後に訪れた。

 ブランとヴィオレットは温室へ出ていた。私は居間でいつもの紅茶を手に、ソファの端で物言わぬ彫像のように佇むノワールを眺めていた。

 彼の花は、今日は朝から一度も開いていない。

 私は立ち上がり、ゆっくりと足音を消して近づいた。触れない距離で膝をつき、固く閉ざされた漆黒の花を覗き込む。

 花弁の合わせ目は、力任せに、意図的に噛み合わされていた。自然な睡眠ではない。明確な拒絶の意志が、そこにはあった。

 

「ノワール」

 

 彼は答えない。ただ、濁った視線だけがゆっくりと私へ向く。


「自分で閉じているのかい?」

 

 一瞬、彼の強靭な肩が強張った。図星だったのだろう。しかしすぐに仮面のような無表情へ戻り、視線を窓の外へと逸らした。

 私はそれ以上追及せず、立ち上がってアームチェアへと戻る。冷めかけた紅茶を一口、喉に流す。ノワールはまた、虚空を見つめる人形に擬態した。

 

 その時、背後から硬い足音が近づいた。

 ルージュだった。

 彼は迷いのない足取りで、ノワールの前に立ちはだかった。私は静かにカップをソーサーに置いた。

 

「……お前。自分で花を閉じているのか」

 

 ルージュの声は、地を這うように低かった。命令でも、責め苦でもない。事実だけを確かめるような声。

 

「俺も最初、主人を敵だと思った。隙があれば殺そうと思った」

 

 重苦しい沈黙が、ふたりの間に落ちる。

 

「だが、ここは違う。主人はお前がどれだけ閉じ籠もろうと、捨てやしない。俺が保証する」

 

 その言葉が、ノワールの奥底にある何かに触れた。

 膝の上で、彼の大きな拳がみしりと握り締められる。髪のアイビーが、威嚇するように微かに揺れた。

 

「……保証」

 

 初めて、彼が言葉を返した。ひどく掠れた、感情の削ぎ落とされた声。

 

「お前に、何が分かる」

 

 ルージュの眉が跳ねる。

 

「闘技場で、俺に優しい声をかけた奴は全員、次の瞬間に刃物を隠し持っていた。甘い言葉はすべて罠だ。お前の主人も、いつか俺たちに飽きる。俺はそれを、嫌というほど知っている」

 

 刹那、ルージュの深紅の花が、音もなく爆発するように開いた。

 部屋を満たしたのは、強烈な警戒の香気。それに呼応するように、ノワールの花弁が開き、爆発的な香気が広がる。

 

「そんなことはない」

「飽きる」

「飽きない、と言っているんだ!」

「なら、証明してみせろ」

 

 室内の空気が、一瞬で沸点に達した。

 私は立ち上がりかけて、踏みとどまった。まだ言葉の応酬だが、ルージュの重心がわずかに下がる。戦闘本能が、彼の理性を侵食し始めていた。

「証明など──」とルージュが言いかけた瞬間、ノワールが爆発的な速度で動いた。

 

 音はなかった。

 ただ、巨体が跳ぶように立ち上がったかと思うと、すでにルージュの胸倉を掴み上げていた。漆黒のタキシードの襟が悲鳴を上げて歪む。ノワールの瞳に、私が一度も見たことのない光が宿っていた。

 それは虚無でも憎悪でもない。もっと根の深い、絶望的な確信──呪いのような光だ。

 

「っ──!」

 

 ルージュの身体が反射的に応じた。

 思考よりも早く、ノワールの腕を掴み返し、全体重をかけて押し返す。純粋な『闘争の文法』による応答。

 二体の植物人間の怪力が真っ向から衝突し、重厚なソファが床を削って大きく軋んだ。

 

「──っ!?」

 

 温室の扉の方から、短い悲鳴が上がった。ブランとヴィオレットが戻ってきたのだ。

 その悲鳴を聞いた瞬間、ルージュの動きに致命的なブレが生じた。ノワールを押さえつける力と、背後の二人を庇おうとする保護の本能が、彼の巨体の中で激しく衝突したのだろう。

 だが、一度駆動してしまった戦闘用の肉体は、そう簡単には止まらない。行き場を失った彼の強大すぎる暴威が、不器用に空間を薙いだ。

 

 大理石のテーブルが傾き、銀のトレイが床に叩きつけられる。クリスタルグラスが派手な音を立てて粉々に砕け散る。激しい音がした後、居間に耳が痛くなるほどの、冷徹な静寂が戻ってきた。

 ルージュの獣のようにはじける荒い呼吸の音だけが室内に響く。

 

「ルージュ」

 

 私は凛と立ち上がっていた。

 大声は出さない。しかし、冷徹なまでに通る声で、その名を呼んだ。

 ルージュの動きが、ぴたりと止まった。

 彼は自分の大きな手を見つめ、それからノワールを見、最後に私を仰ぎ見た。彼の深紅の花から、凶暴な戦闘の香気とは全く異質の、焦げ付くような自己嫌悪の匂いが溢れ出す。

 

「俺は……」

 

 言い訳は言葉にならなかった。

 私は静かに、両手を彼らの頭上へと掲げた。

 指先から、淡い光の粒子が溢れ出す。恐怖と憎悪を和らげる、調律の魔法。しかし今日の光は、かつてブランやルージュを鎮めたものよりも、ずっと丁寧に、慎重に編み上げた。拒絶と自己嫌悪に荒れ狂う今の彼らに、乱暴に力を流し込めば、精神の拒絶反応を起こしてしまう。

 絹糸のような光が、ゆっくりと、しかし確実に部屋を浸してゆく。

 

 ノワールの指から力が抜け、ルージュの胸倉が解放された。ルージュはその場に、力なく膝を床についた。

 ノワールはよろめきながら後退り、ソファの端へと深く腰を沈める。その漆黒の花が、また固く閉じられる。

 

 ブランが、声もなく涙を流していた。

 ヴィオレットは扉の前で丸まり、腕を胸に抱いたまま、浅く速い呼吸を繰り返している。

 私はまずヴィオレットの元へ歩み寄り、床に膝をついた。

 

「ここにいるよ。もう大丈夫だからね」

 

 それだけを告げ、彼女の虚ろな視線が、ゆっくりと現実に戻ってくるのを辛抱強く待った。

 次にブランの隣に座り、何も言わずにその柔らかな頭へと手を置いた。白い花が、震えながら、少しずつ花弁をほどいてゆく。

 

 やがて、部屋の空気は静まり返った。

 割れたグラスの破片だけが、陽光を反射して床にギラギラと散らばっている。

 私はアームチェアに戻り、すっかり冷めきった紅茶を見つめた。口はつけなかった。

 ルージュは床に頽れたまま、自身の掌をじっと見つめ続けている。深紅の花から戦闘の香気は消え失せ、代わりに漂うのは、雨に打たれた土のような、重く沈んだ悔恨の匂いだった。

 

 ノワールは頑なに窓の外を向いていた。その横顔には、まだ仄暗い熱が残っている。自分の仕掛けた「試み」が失敗したのか、それとも成功したのか、彼自身にも判別のつかないような、宙ぶらりんで、酷く不安定な表情。漆黒の花は、やはり閉じたままだ。

 

 私はあえて、何も言葉を発しなかった。

 今日起きた出来事を、安易に言語化して片付ける必要はない。魔法で鎮静はさせた。しかし、落ち着いたことと、解決したことは同義ではない。

 

 窓の外では、夕刻の赤い光が部屋を侵食し始めていた。

 片付けのためにキッチンへ向かいながら、私はさっき見たノワールの瞳を思い返していた。

 あの、世界のすべてを疑うような、張り詰めた眼差し。


 彼はまだ、この家が、私が本物かどうかを疑っている。だがそれは裏を返せば、疑うだけの強固な意志が、あの壊れかけた身体の奥底にまだ残っていたということだ。

 闘技場の過酷な日々ですら削ぎ落とせなかった、彼の最後の芯。

 

 手強い。

 私は、ふっと唇を綻ばせた。

 手強い子ほど、調律しがいがある。完全に懐き、直った時の姿がどれほど美しいか。

 それを私は、誰よりもよく知っているのだから。

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