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花奴隷調律譚  作者: 駒草
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第9話


 翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。

 キッチンで三種類の培養液を精密にブレンドし、ハチミツをじっくりと湯煎にかけながら、昨夜のノワールの横顔を思い返していた。あの宙ぶらりんで、世界のすべてを疑うような表情。

 それが、どうしようもなく愛おしく、たまらなく楽しみだった。

 

 居間に戻ると、四人はまだ微睡みの中にいた。ノワールだけが、周囲を警戒するようにソファの最果てに身を寄せている。私はその隣へ、衣擦れの音すら立てずに腰を下ろし、琥珀色の培養液を満たしたグラスを彼の大きな手に握らせた。

 アイビーの髪が微かに揺れ、ナイトブルーの瞳が薄く開く。

 私の顔を認識した瞬間、彼の漆黒の花がきゅっと、あからさまに閉じた。

 

「おはよう、ノワール」

 

 彼は手元のグラスを見て、私を見て、またグラスへと視線を戻した。喉は動かない。

 

「飲まなくていいよ」

 

 私は自身の紅茶を一口すすり、窓の外に広がる眩い朝の光を眺めた。ノワールが微かに眉を動かす。拒絶を突きつけてもまったく動じない主人への困惑が、アイビーの葉の小刻みな揺れに滲み出ていた。

 やがて、残りの三人が起き出してきた。

 ブランは私の位置を確認した瞬間、ピタリと動きを止めた。すぐに健気な笑顔を作ったが、白い花が内側へ小さく萎むのを私は見逃さなかった。

 ルージュは覚醒と同時にノワールを鋭く射すように見やり、それから己の掌を苦々しく見つめた。ヴィオレットは、私とノワールの密な距離感を一度だけ測るように盗み見て、すぐに弾かれたように目を逸らした。

 

 しかし、私はノワールの隣から一歩も動かなかった。

 そこを拠点として、ブランの寝癖のついた髪を整えてやり、ルージュの深紅の花に朝露のスプレーをたっぷりと吹きかけ、ヴィオレットの指先の蔓の具合を確認した。

 そして、そのたびに必ずノワールの隣へと戻ってきた。ノワールはその私の執拗な動きを、じっと目の端で追っていた。

 

 午前中、私は三度ノワールに話しかけた。三度とも、砂漠に水が吸い込まれるような無言の返答だった。

 四度目、私が閉じた漆黒の花の根元へ、指先でそっと触れようとした。しかし彼は私の手首を静かに、拒絶の意思を込めて払いのけた。強くはない。だが、明確な一線だった。


 私は払われた手を素直に引き、何事もなかったかのように紅茶を口に運んだ。ノワールが、小さく鼻を鳴らした。

 昼が来た。銀のトレイを持って居間へ戻り、ノワールの前に昨日と同じ特製のハチミツナッツを置く。彼はそれを見つめ、大きな手を伸ばしかけて──止めた。引いた手を膝の上できつく握り直し、私を睨むように見据える。

 

「……試しているのか」

「どちらが?」

 

 ノワールが、苦渋に満ちたように眉を寄せた。

 

「俺がこの家を試しているのか。それとも、お前が俺を試しているのか」

「両方じゃないかな」

 

 私はナッツを一つ、自分の口へ放り込んだ。香ばしく、ひどく甘い。

 

「何万回、何億回試みを重ねられても、私は絶対に飽きないよ。証明したいなら、いくらでも付き合ってあげるよ」

 

 ノワールの頭上の漆黒の花が、ぴくりと痙攣するように震えた。

 その時、ブランが小さく息を呑んだ。主人の関心を奪われたような寂しさに、白い花がじわりと内側へ折れ始める。ルージュが窓辺から振り返り、腕を組んだまま硬く唇を閉ざした。ヴィオレットがソファの隅で、脅えるように膝を抱え込む。

 

 ノワールの視線が、ゆっくりと、値踏みするように三人へと向いた。

 ブランの花の震え、ルージュの異常な沈黙、ヴィオレットの警戒を孕んだ角度。

 それらの情報を順番に拾い上げた次の瞬間──ノワールの漆黒の花を縛り上げていた力が、ほんの一瞬だけ、ふっと緩んだ。

 

 彼はすぐに弾かれたように窓の外へ視線を逃がした。私は確かにそれを見た。

 私はあえて追及せず、代わりにブランの隣へ歩み寄り、折れかけた白い花弁へそっと指を伸ばした。そして、閉じた花びらを一枚だけ、優しく開いてやる。

 

「拗ねなくていいよ、ブラン。君のことも、ちゃんと見ているからね」

 

 ブランは一瞬で耳まで真っ赤に染め上げ、言葉を失って俯いた。私は彼女の愛らしさに満足し、スープを作りにキッチンへと立った。

 居間からはしばらくの沈黙の後、ブランが勇気を出してノワールへたどたどしく話しかける声が聞こえてきた。返答はない。しかし、ノワールがその場から立ち去る気配もまた、なかった。


 夕方になって、私は窓辺に佇むルージュの隣に腰を下ろした。

 彼は昼下がりの光が傾いていく間も、ずっと椅子で腕を組んだまま、微動だにせずそこにいた。ただ、彼の深紅の花から漂う香気だけが、後悔と焦燥を孕んで少しずつ変化していくのを、私は離れた場所からずっと観察していたのだ。

 

 隣に座っても、ルージュは頑なに動かなかった。視線を窓の外の夕景に固定したまま、強靭な肩が限界まで強張っている。

 私は何も言わず、彼の頭上の深紅の花へとそっと手を伸ばした。朝に吹きかけたスプレーはもう乾ききっていた。

 だからもう一度、私の指先から潤沢な朝露の魔力を含ませてやる。花弁の一枚一枚の型を確かめるように、丁寧に、ひどく時間をかけて愛撫するように。

 

「……主人」

 

 耐えかねたように、ルージュが重い口を開いた。

 その両手は背後に回され、指が強く絡み合って小刻みに震えていた。まるで自分が武器であることを今この瞬間だけでも否定しようとするように。

 

「昨日の、あの醜態は」

「うん」

「私は、取り返しのつかない失態を」

「……うん」

 

 私は手を止めず、花の手入れを続けた。ルージュの言葉を遮ることも、先を促すこともしない。ただ、彼の告白をそのまま空間に滴らせていく。

 

「……申し訳、ありませんでした」

 

 それは、喉を切り裂いて絞り出すような声だった。肌の下で、戦闘時にのみ駆動する緑の脈管が、制御を失ったかのようにドクドクと怒張している。

 私はようやく手を離し、ルージュの顔を正面から見つめた。彼はまだ頑なに横を向いたままだが、大きな顎のラインが、痛いほど微かに引き締まっている。

 

「ルージュ」

「はい」

「昨日の、あの乱暴で不器用な君も、すべて私のものだよ」

 

 ルージュが、初めて弾かれたようにこちらへ顔を向けた。その瞳が大きく見開かれる。

 

「暴走した君も、ノワールに手を出した君も、ブランたちを怖がらせてしまった君も──全部、私が買い取ったその瞬間から、私の大切な所有物だ。都合の良い綺麗な部分だけを愛して、都合の悪い部分は返品するなんて、そんな底浅い趣味は私にはないよ」

 

 ルージュの深紅の花が、驚きと歓喜に耐えかねたように、音を立てて大きく、瑞々しく開いた。

 彼は何かを必死に言おうとして口を震わせ、しかし言葉が見つからずに閉じた。また開こうとして、再び閉じる。

 私はふっと微笑み、再び彼の手入れを再開した。

 

「ただ、一つだけ釘を刺しておくとすれば」

「……は、はい」


 ルージュが背筋を伸ばす。相変わらずの反応に、思わず頬が綻んだ。

 

「次にノワールが何か仕掛けてきた時、私より先に動くことは許さない。君が誰かを守りたいと思うのなら──私の後ろで、私の指示に従って守りなさい」

 

 ルージュの頑なだった肩から、すとんと、全ての余計な力が抜けた。

 それは罰ではない。新しい、絶対的な命令だ。

 

「……御意」

 

 低く、しかし昨日よりもずっと澄んだ軽い声だった。深紅の花から、あの雨に打たれた土のような沈んだ匂いが、綺麗に消え去っていく。

 

 その時、部屋の空気が微かに、熱を帯びて動いた。

 ノワールだった。

 彼は相変わらず窓の外を向いたまま、彫像のように動いていない。しかし、彼の髪であるアイビーの蔓が、こちらの方向へと不自然なほどゆっくりと傾いていた。

 

 私はあえて、ノワールの方を振り返らなかった。

 代わりにルージュの深紅の花に最後の仕上げのスプレーを施し立ち上がる。

 

 私は四人を連れて、大きな寝室へと移動した。月光が床の上の白いシーツを青白く染め、部屋全体を幻想的な光で満たしている。

 

「横になりなさい、ノワール。暴れた体は、私が直す」

 

 低く、しかし逆らうことを許さない絶対的な声音。ノワールは長い、あまりにも重苦しい沈黙の後、ゆっくりと巨体を横たえた。その硬く強張った貌は、再び自分が深く傷つけられるのではないかという、深い猜疑に満ちている。

 

 私はその傍らに腰を下ろし、影が彼を侵食するように、ゆっくりと身を乗り出した。片膝をシーツに沈め、閉ざされた漆黒の花のすぐ上、肉の薄い鎖骨の窪みへと指先をそっと這わせる。

 その呼吸に合わせるように、ブランとヴィオレットが彼の左右を囲み、私の背後にはルージュが、圧迫感すら伴う気配で控えた。

 

「……っ、……」

 

 ノワールの喉が、獣のような低い音を立てて鳴る。私の魔力を拒む衝動が、彼の引き締まった筋肉を一本の極細い弦のように張り詰めさせ、いまにも悲鳴を上げて千切れそうなほどの熱を帯びていく。

 その見事な肢体が、私から逃れるために限界までしなる。しかし私は、その抵抗を力で押さえ込もうとはしなかった。


「逃げたいなら逃げてもいい。それでも私は、君を追い出さない」

 

 その身悶えを、私はただ楽しむように見下ろす。静かに練り上げた魔力は、指先から淡く、しかしねっとりとした濃密な光となって滴り落ちた。

 漆黒の花の根元――かつて焼かれ、無惨な傷跡の残るその中心へ、逃げ道を塞ぎながらゆっくりと魔力を沈めていく。

 ノワールの背が、恐怖と快感に引き絞られた弓のように、美しく反り返った。

 

「――あ、……は……っ!」

 

 掠れた、苦痛とも淫らな歓喜ともつかない悲鳴が漏れる。強引に内側を掻き回され、秘められた芯を直接愛撫される感覚に耐えかね、閉じていたはずの花弁が狂おしく震え始めた。

 彼は自らの花を庇うように腕を回す。ノワール自身が、その反応に最も狼狽えていた。

 

 私は視線を横へと流した。

 ベッドの端では、ルージュが石像のように硬直していた。夕方に与えた「私の後ろで守れ」という命令の鎖にその身を縛り付け、荒ぶる戦闘本能を必死に抑え込んでいる。

 その彼の胸元では、私の朝露を得た深紅の花が、誇らしげに、瑞々しく咲き誇っていた。

 

 その瞬間、ノワールの身体がひときわ大きく強張る。

 彼は私に組み敷かれたまま、すべてを委ねて咲き誇るルージュの深紅の花を、食い入るように見つめていた。

 自分が頑なに閉ざし続ける漆黒の花と、主人を迎え入れて気高く開く深紅の花。その残酷な対比が、彼の誇り高き胸の奥底を深く突き刺したのが分かった。

 

 私は艶然と微笑み、優しく腕を押さえ、再びノワールの花の根元へと、すべての愛を注ぎ込んだ。

 今度は花弁の裏側を直接指先で愛でるように、最も敏感な芯を狂わせるように掻き回す。歯を食いしばり耐えるノワールの褐色の首筋に、真珠のような汗が浮かび、感情の昂りに合わせて、漆黒の花弁が小さく震え出す。

 

「……やめ……ろ……ッ!」

 

 涙を孕んだ、掠れた拒絶の絶叫。私はその絶叫を、喜びのように受け取った。

 

「君が閉じたいなら、死んだように閉じていてもいい。ただ……」

 

 私は彼のみだらな汗の香りを吸い込み、耳元へと唇を寄せ、甘い毒のように囁いた。


「それでも、私は君をここに置くよ。閉じたままの、傷だらけで不完全な君も、そのすべてを私が愛でよう」


 ノワールの漆黒の花が、びくん、と跳ねた。彼の視線が、初めて私から逃げなかった。

 そしてゆっくりと、あまりにも重々しく、しかし確実な意志を持って、一枚の大きな漆黒の花弁が、外側へと、とろけるように開いた。

 夜の底、あるいは奈落の深淵のような、深く静固な熱を持って生きている香気が、部屋の空気を一瞬で支配していく。

 満足という名の甘い痺れに酔いしれながら、私はノワールの濡れた額へと、そっと不変の誓いを立てるように唇を落とした。

 

「よく頑張ったね、ノワール」

 

 私は四人の花冠たちの真ん中へと身を横たえ、夜の帳のような毛布を全員に、等しくかけてやった。

 ルージュの大きな腕が、飢えた獣のように私の腰を抱きすくめる。ブランの絹のような髪が私の胸に零れ、ヴィオレットの細い指先が、縋るように私の袖を強く掴む。

 

 そしてノワールは――鋭く、そしてどこか哀切を帯びた瞳で私を凝視しながらも、二度と拒絶の牙を剥くことはなく、ただ静かに、その重く熱い身体をベッドへ沈ませた。

 

 月光の冷たい光の下、四つの花が静かにその香りを溶け合わせ、混ざり合っていく。

 ノワールの漆黒の花は、まだ完全には開いていない。しかし、それはもう、絶望の閉塞ではなかった。

 

「おやすみ、四人とも」

 

 ブランはすでに夢の国へと誘われ、小さく愛らしい寝息を立てていた。ルージュを満たしていた緊張が潮のように引き、ただ柔らかい呼吸だけが残っている。ヴィオレットの指先は、眠りに落ちた後も、私の袖をまだ離さないでいた。

 ノワールだけは、最後までその目を閉じようとはしなかった。しかし、彼の漆黒の花は──今夜だけは、私を拒むことはなかった。

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