第23話
翌日、私は彼の花の状態を確認した。
再生した花弁の形は美しく揃っていた。しかし、致命的なことに『香気』が酷く薄い。
植物人間の花が固有の香りを放たなくなる時、それは彼らの精神的な内側が摩耗し、生命力が死にかけている証拠だ。
失った仲間たちへの罪悪感と悲しみの重さが、じわじわと彼の根を締め付けているのが分かった。
私は彼を安らぎで包む調律の魔法を使おうとして――寸前で、やめた。
彼が薄く目を開け、私の手が花に近づいているのを冷ややかに見下ろしたからだ。
「私の体に、何をしようとしている」
「心を癒す魔法をかけようとしたのさ」
「断る。他人の施しで得る安寧など、屈辱でしかない」
「分かったよ」
私はあっさりと手を引いた。男は少し意外そうな顔をして、素直に引き下がった私を、かえって不気味そうに警戒していた。
その日の夜のことだ。ローズが、彼の隣にするりと座り込んだ。
男はいつもの壁際にいたが、ローズはその足元に、何の躊躇いもなくちょこんと腰を下ろしたのだ。彼女の桃色の花が、月明かりの中でふわりと甘く揺れる。
「ねえ、あなたは、なんでいつも怒っているの?」
ローズがたどたどしい声で、核心を突いた。
「……怒ってはいない」
「嘘。だって、あなたのお花、すごく苦しそうだもん」
男は言葉に詰まったように少し黙った。
「……私の花が、苦しそうに見えるか」
「うん。お花はね、苦しい時はぎゅって閉じようとするの。あなたの金色のお花、今も一所懸命、閉じようとして震えてる」
男は視線を落とし、自分の胸元を見た。固く閉じた金色の花。ローズは無邪気に言葉を続けた。
「私はね、何も覚えてないの。怖かったことも、悲しかったことも。だから今、ちっとも苦しくない。でも」
ローズは愛らしく首を傾げた。
「あなたは全部覚えているから、そんなに苦しいの?」
男は何も答えなかった。しかし、その胸の金色の花は、記憶を持たない少女の純粋な言葉に抉られたように、大きく、痛々しく震えていた。
私はアームチェアに深く腰掛け、暗がりからその光景を眺めていた。
更に翌日、彼の花の香気は、いよいよ完全に途絶えかけていた。
朝、私が確認すると、輝かしかった金色の花弁の色が少しずつ白く褪せ始めていた。内側からの精神的消耗が、肉体の限界を迎えようとしている。
私は逃げようとする彼の前に、覆い被さるように跨った。
「魔法をかけるよ」
「断ると言ったはずだ」
「知っているよ」
「ならばなぜ――」
「君がこのまま、私の目の前で醜く壊れる方が嫌だからさ」
男は拒絶を込めて私を睨みつけた。
「そうやって、私の意志を力ずくで奪うのか」
「奪わないよ。ただ、君のその過剰な痛みを少しだけ楽にする。君が抱く高潔な信念は、君のものだ。私が弄り回したりはしない」
「……お前のような所有者を、信用できるわけがない」
「信用なんてしなくていいさ」
私は拒絶を無視し、両手を彼の金色の花の上にかざした。男がそれを阻もうと私の腕を掴みに手を伸ばす。しかし、その指先が私の肌に触れるよりも早く、私の手のひらから濃厚な魔力の光が溢れ出した。
冷たくて、どこまでも静かな、調律の魔力。
男の身体が、一瞬だけ恐怖で強張った。精神が必死に抗おうとするが、本能に直結した胸の花が先に魔力に反応してしまう。
白みかけていた金色の花弁が、私の潤沢な魔力を吸い込んで、ふわりと見事な大輪を開かせた。
仲間を失った冷たい呪縛が、温かいお湯に溶かされていくように、少しずつ、確実に緩んでいく。
「……っ……あ……」
耐えきれなくなったように、男の体がふらりとよろめいた。そしてベッドの上に深く沈む。
私は魔法を注ぎ続けながら、彼の目線に合わせて馬乗りになった。男の瞳が、信じられない恐怖と屈辱、そして得も言われぬ安堵に揺れながら、私を見つめていた。
「どうだい。君の信念は、何一つ汚されず、そのままそこにあるだろう?」
男は唇を噛み締め、答えなかった。しかし、私から目を逸らすこともしなかった。
やがて、彼の金色の花から、今まで嗅いだこともないほど深く、気高い香気が溢れ出し、部屋中に満ち始めた。それは甘い蜜のようでありながら、どこか硬質で力強い、金属の輝きを思わせる誇り高き匂いだった。
しばらくして、私はゆっくりと魔力を収束させ、手を離した。
男は驚いたように自分の大きな手を見つめ、それから胸の金色の花に触れた。
花は、無惨に閉じることなく、美しく完全に開いたままだった。
「……本当に、……洗脳を、施すつもりは、ないのか」
男が、呆然と静かに聞いた。
「ないよ、私の美学に反するからね」
「ならば……なぜ、こんなことを」
「苦しみ続けることと、気高い信念を持ち続けることは、まったく別の問題だからさ」
男は長い、あまりにも長い沈黙のなかで、私の言葉をなぞるように、何度も静かに呼吸を繰り返した。
これまで彼の肩を苛々と締め上げていた見えない枷が、音もなく崩れ落ちていく。凝り固まっていたその頑なな双眸から険しさが抜け、ただの穏やかな、ひとりの人間の瞳へと戻っていく。
まるで、長く憑いていた重い呪縛が綺麗に落ちたかのように。男は微かに、しかし確かに、どこか清々しささえ感じさせる柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
「……さあ、のんびりしよう」
金色の花の男は、もう反論しなかった。ただ、その胸の気高い大輪は、静かに、確かに開いたままだった。
金色の香気だけが静かに部屋を満たし、張り詰めていた空気を、少しずつ解いていく。
やがて私たちは居間へ戻った。暖炉の火が爆ぜる音だけが、穏やかに流れる。
ふと、クッションに深く腰掛けた男が、胸の花に手を当てたまま私を見た。
その目はまだ、私への警戒を完全に解いたわけではない。しかし、そこには明確な「生」の光が宿っていた。
「……一つ、聞いていいか」
「なんだい」
「お前は私を直した。無理矢理私の意志を奪わず、ただ苦しみだけを払った。お前にとって、私は何なのだ。ただのコレクションか、それとも、便利な戦闘用の道具か」
私はアームチェアの背もたれに体を預け、少しだけ考えた。
「君は手強い。私のやり方を否定するし、きっとこれからも事あるごとに噛みついてくるだろう。……だが、私はそんな君の、頑なで美しい輝きを気に入っているのさ」
男は眉を微かに動かした。
「気に入っている、だと」
「そう。だから、ただの物として扱うつもりはない。我が家へ来た子には皆、相応しい呼び名を与えている」
私はアームチェアから立ち上がり、壁際に座る彼の前へと歩み寄った。
ブランたちが、静かに私たちを見守っている。
「君に、名前をあげよう」
「……今更か。二日も経つというのに」
「君の花が、本当の色を取り戻すまで待っていたんだよ。手強くて気高い、金色の花。……『ドレ』」
男が目を見開いた。
「ドレ……」
「古い言葉で、『金色』という意味さ。君のその誇り高い花に、よく似合っているだろう?」
男は、自分の胸の金色の花を、それから私の顔を順番に見た。反発するように唇を震わせたが、結局、その口から拒絶の言葉が飛び出すことはなかった。
彼は一度だけ、諦めたように、しかしどこか満足そうに息を吐いた。
「……認めたわけではないからな」
「知っているよ、ドレ」
私がその名を呼ぶと、彼の胸の花から、また一段と深い、確かな香気がふわりと広がった。それは彼が、この家の一員として、その場所に根を下ろした最初の瞬間だった。
ルージュが呆れたように低く鼻を鳴らし、ブランが嬉しそうにパッと表情を輝かせる。ローズは「ドレ、ドレ」と、新しい小鳥の名前を覚えるように楽しげに呟いていた。
窓から差し込む春の最後の光が、新しく名前を得た金色の花を、等しく優しく照らし出していた。




