第21話
あの金色の花を持つ男が去ってから、三週間が経った。
我が家の穏やかな日常は続いていた。ジョーヌの表情筋が、少しずつ笑い以外の細かな動きを思い出しつつある。アズールが温室で「二鉢目の水やりをしてもいいでしょうか」と恐る恐る申請してきたので、すぐに許可した。
ローズは毎朝、窓の外の空を眺めながら「今日も空だ」と呟く。それが彼女の微笑ましい朝の挨拶になっていた。
あの男のことを、私は考えないようにしていたわけではない。
ただ、私が考えても仕方のないことだった。
春の終わりが近づいてきた、ある穏やかな午後のことだ。
カルヴァンから、一通の手紙が届いた。
封を開けると、短い文章が一行だけ、殴り書きのように残されていた。
『例の件、動きがありました。お電話できますか』
私は手紙を静かに折り、ポケットにしまった。
居間では、ローズがブランの膝の上で、何かの本を開いていた。文字は読める。しかし、内容が自分の失われた記憶と結びつかないから、ただ記号として音読しているだけだ。それでもブランが隣で「そこはね」と優しく説明するのを、ローズは真剣な顔で聞いていた。
ルージュが私の様子を察して、静かに近づいてきた。
「何か、ありましたか」
「カルヴァンからさ」
ルージュの深紅の花が、一度だけ大きく跳ねるように揺れた。
「……あの、金色の花の男のことですか」
「おそらくね」
ルージュはそれ以上何も言わなかった。しかし窓の外を向いたその横顔には、三週間前の夜の続きが、まだ重く澱んでいるのが分かった。
私はすぐにカルヴァンに連絡を入れた。
受話器の向こうで彼が言ったことは、酷く簡潔だった。
「春の終わりに、管理局が一斉摘発を行いました。対象は、体制に反する動きをしていた植物人間の潜伏集団です」
「規模は」
「小さかった。十数体ほどです。……ほとんどが、その場で処分されました」
私は窓の外に目をやった。庭の木々が、風に激しく揺れている。
「生き残りは」
「数体います。別の施設に収容されましたが、どれも状態が悪い。……その中に一体、あなたが以前お会いになった個体がいます」
分かっていた。最初から予感はしていた。だが、あえて声に出して確認した。
「金色の花か」
「はい」
受話器から、重苦しい沈黙が伝わってくる。
「状態は」
「花が、半分以上散っています。意識はありますが、かなり消耗していて……。このまま処分の対象になる前に、と思いまして連絡しました」
カルヴァンの声は、いつもと変わらず淡々としていた。しかし、その事務的な声の奥底に、何かが必死に押し込められているのが分かった。
「引き取るよ」
「……ありがとうございます」
電話を切った。
振り返ると、すぐ後ろにルージュが立っていた。居間の奥では、ノワールが目を開けてこちらをじっと見つめている。二人とも、会話を聞いていたのだろう。
「あの男か」
ルージュが静かに聞いた。
「そうだ」
ルージュは少し黙り込んだ。彼の深紅の花から、雨の匂いがかすかに滲む。
「……いつ迎えに行く」
「明日だ」
ルージュは深く頷いた。今回は「ついて行く」とは主張しなかった。しかし翌朝、私が玄関へ向かうと、彼はすでにそこに立っていた。外套をきっちりと着込み、腕を組んで。
私は何も言わず、扉を開けた。
案内された施設は、以前の場所とは違っていた。
街の中心部から外れた、薄暗い古い石造りの建物。窓には厳重な鉄格子が嵌まり、入口には管理局の役人が二人、鋭い目を光らせて立っていた。カルヴァンが先回りして、裏で手続きをすべて済ませてくれていた。
通された部屋は、ひんやりと冷たく、薄暗かった。
あの男は、冷たい床に横たえられていた。
三週間前に我が家を訪れた時の、あの傲慢なほどに真っ直ぐな目をした男の面影は、まだかろうじて残っていた。しかし、胸元の見事だった金色の花は、花弁の半分以上が惨めにも散り落ち、残った部分も炎に焼かれたように縁が黒ずんでいる。
四肢にはきつく縛られた拘束の痕が残り、肌のあちこちに、激しく応戦した際のものだろう生々しい傷が走っていた。
それでも、彼はまだ生きて、息をしていた。私が近づくと、男の瞼がゆっくりと持ち上がった。
焦点が合うまでに、少し時間がかかった。私の顔を認識した瞬間、彼の掠れた瞳に、微かな光が過った。
「……あなた、か」
声は枯れ果てていた。しかし、あの夜と同じ、芯のある声だった。
「迎えに来たよ」
男は少しの間、呆然と沈黙した。
「なぜだ」
「壊れた子がいると聞いたからね」
「あなたは、私に協力しなかった」
「そんなことは関係ないさ」
男の瞳が、じっと私を捉えた。私の歪な本質を理解しようとしている目だった。しかし同時に、どうしても理解できない、という拒絶の目でもあった。
「……仲間は」
私は答えなかった。
答えの代わりに、カルヴァンが男の視界に入るよう、少しだけ横に動いた。カルヴァンはかける言葉も見つからないように、無言で静かに首を振った。男の目が、絶望したように閉じられた。
長い沈黙が流れた。男の金色の花が、かすかに、悲痛に震えていた。散り落ちた金色の花弁が冷たい床に広がり、それでも残った数枚の花弁が、傷つきながらも必死に閉じようと身を縮めている。
私はその場に屈み込み、男の傷だらけの手を両手でそっと包み込んだ。
「君が、私のやり方を好きではないのは知っている。それは今も変わっていないだろう?」
「……ああ」
「それでも来るといい。私の、素敵な花畑に」
男はしばらく、虚ろに天井を見つめていた。金色の花は震えながらも、私の魔力を拒みきれず、閉じきれずにいた。
やがて、彼は蚊の鳴くような声で、短く言った。
「……もう、行く場所が、ない」
それが、彼の降伏の答えだった。
私は男の体を抱き上げた。思ったよりも、酷く軽かった。この三週間で、どれほど心身を削り取られたのだろう。
廊下に出ると、ルージュが壁際で待っていた。彼は私の腕の中の男を見て、一瞬だけ痛ましそうに目を細めた。それからすぐに前を向き、促すように出口へと歩き始めた。
カルヴァンが出口まで送ってくれた。
馬車に乗り込む直前、彼が私にだけ聞こえる低い声で呟いた。
「春の摘発は、これで終わりです。しばらくは管理局も大きな動きは出せないでしょう」
「しばらく、というのは?」
「私が動かないように工作します。……私の、できる範囲でですが」
私はカルヴァンを見た。いつも疲れた目をした、冴えない地味な男。二十二年間もの間、この国の矛盾をその身に抱えたまま生きてきた人間。
「なぜ、そこまでしてくれるんだい」
カルヴァンは少し泳ぐように視線を彷徨わせ、それから、ぽつりと言った。
「……こうすれば、母が、喜ぶと思うので」
それだけ言い残して、彼は背を向け、冷たい建物の中へと戻っていった。
馬車の中で、金色の花の男は私の膝の上に頭を預けていた。
意識はあるようだが、もう目を開ける力すら残っていないのだろう。散り落ちた金色の花弁が、彼の外套に数枚、名残惜しそうに付着したままになっていた。
「家に帰ろう。私が、綺麗に直してあげるからね」
「……直しても、私は……お前の犬にはならない。考えを、変えるつもりはない」
「知っているよ」
男はまた目を閉じた。
私は彼の金色の花に、そっと指先で触れた。焼け焦げた花弁が、それでも私の濃厚な魔力に反応して、ほんの微かに、嬉しそうに震えた。
本当に、手強い男だ。私は暗がりの中で微笑んだ。
手強い子ほど、直った時が美しい。その至上の悦びを、私は誰よりもよく知っている。
馬車が我が家の門をくぐる頃、春の最後の光が、彼の傷ついた金色の花を、優しく包み込むように照らしていた。




