第2話
「ねえ、いつまでそうして固まっているんだい?」
私が紅茶のカップをソーサーに戻すと、カチャリという小さな音が静かな部屋に響いた。二人はビクッと肩を揺らし、揃って私に視線を向ける。
恐怖も憎悪もないのに、どう振る舞えば正解なのかが分からず、ただただ戸惑っているその表情。
もっと彼らが困惑する様子を見て楽しみたくなってしまった。
「そうだ。いつまでも『そこの二つ』と呼ぶのも味気ない。名前をつけてあげようか」
『名前』という単語を聞いた瞬間、二人の胸の花が、警戒するようにきゅっと蕾の形に縮こまった。
植物人間の奴隷に個別の名前など、前の環境では与えられるはずもなかったのだろう。識別番号か、あるいはただの「お前」「これ」と呼ばれていたに違いない。
私は彼らの顔を覗き込んだ。
「君たちの胸に咲くその美しい花にぴったりの、色の名前がいいな」
まずは女型の前に立ち、彼女の胸元でふんわりと咲き誇る、月の光のような白い花に指先で触れた。
「君は、ブラン。純白の『白』だ」
女型──ブランは、自分の胸の花と私の顔を交互に見つめ、信じられないというように目を丸くした。「ぶらん……?」と、声にはならない形でおずおずと唇を動かす。
どう受け止めていいか分からず、呼吸の仕方を忘れたように硬直してしまった。
続いて、お隣でその様子を硬い表情で見守っていた男型に向き直る。彼の胸元には、陽光を浴びて一段と鮮やかさを増した、滴るような深紅の花。
「そして君は、ルージュ。鮮烈な『赤』だ」
男型──ルージュは、自分の名前を告げられた瞬間、あからさまに眉をひそめて、ますますわけがわからないといった風に頭を傾げた。
そんな洒落た「色の名前」がつけられるなんて、彼の実戦用の脳髄には想定外の負荷だったのだろう。ルージュは彫刻のように動きを止め、胸の深紅の花だけが困惑の香気をちりちりと放っていた。
「ブラン、と、ルージュ。うん、我ながら素晴らしい名付けだ。気に入ってくれたかい?」
私が微笑みかけると、ブランはドレスの裾をぎゅっと握りしめたまま、頬を微かに染めてうつむいてしまった。嬉しがっていいのか、それとも新しい命令の合図なのかが分からず、頭の中がパニックになっているのが手取るようにわかる。
ルージュにいたっては、腕を組んだままフリーズし、まるで高難度の暗号を解読するかのような真剣な顔で、自分の新しい名前について考え込んでいた。
「ふふ、そんなに難しい顔をしないで。ただの呼び名だよ。ブラン、ルージュ」
新しい名前を呼んであげると、二人はそれぞれビクッと肩を震わせ、まるで魔法の呪文でも聞かされたかのような顔で私を見た。
「さて、それじゃあ主人として、君たちに最初の命令を出そうか」
『命令』という言葉の響きに、二人の身体がほんの一瞬、かつての習性でスッと緊張した。ルージュの背筋が伸び、ブランの視線が私の唇に集中する。どんな無理難題を課されるのだろうと、身構えているのが丸わかりだ。
私はわざとらしく、もったいぶって人差し指を立て、彼らに告げた。
「──何食べたい?」
「………………え?」
今度こそ、二人の思考は完全に停止した。部屋のなかに、しんと静まり返った奇妙な沈黙が流れる。
無理もない。前の主たちの元では、生きながらえるための最低限の培養液や、泥のような配給食を一方的に与えられていただけだったはずだ。
ブランは大きな白い花を小さく揺らしながら、完全にパニックになっていた。彼女の知識の引き出しには、主人の問いに正解できるような「食べ物の名前」なんて、きっと一つも入っていない。
ルージュにいたっては、あまりの想定外の命令に、さっきまでの真剣な顔が嘘のように、口を半開きにして呆然としていた。戦い方や力の入れ方は知っていても、「自分の食べたいものを選択する」なんて高度で平和な概念は、彼の頭の辞書には載っていないのだ。
「どうしたんだい? 命令だよ。何が食べたいか、私に教えるんだ」
私がさらに追い打ちをかけると、二人は助けを求めるように互いを見つめ合った。
ブランは涙目になりながらドレスの裾をいじり、ルージュは組んだ腕をほどいて、どうしていいか分からず大きな手をそわそわと動かしている。
「ふふ、そんなに困らなくても。甘いものがいいかい? それとも、君たちは植物人間だから、特製のハチミツをたっぷりかけた新鮮な果物なんてどうかな?」
具体例を出してあげると、ブランは「くだもの……?」と、おそるおそる私の顔を伺った。ルージュも、胃のあたりを片手で押さえながら、ごくりと喉を鳴らしている。
恐怖から解き放たれ、ただ「何を食べたいか」というあまりにも平和な命令に頭を抱えているブランとルージュ。そのあまりにも可愛らしく、そして最高に困惑しきった様子を眺めながら、私はお腹の底から湧き上がるおかしさを堪えるのに必死だった。
「よし、決まりだ。それじゃあ、我が家の最高のご馳走を用意してあげよう」
私がそう言って立ち上がると、ブランとルージュはホッとしたような、でもやっぱりまだ状況が掴めないといった複雑な顔で私を見送った。
キッチンへ向かった私は、彼らのために特別なメニューを仕立てることにした。
何しろ彼らは美しい植物人間だ。人間が食べるような普通の食事も悪くないが、彼らの本能が一番歓ぶものを並べてあげたい。
しばらくして、私は大きな銀のトレイを自ら運んで部屋に戻った。ガタゴトと贅沢な音を立てて運ばれてきたそれを見て、二人はソファの上で驚いたように身を乗り出す。
テーブルの上に並べられたのは、目も眩むような「植物人間用のフルコース」だった。
中央に鎮座するのは、ガラスの器に盛られた特製の高級培養液。ただの栄養剤ではない。最高品質の純水に、厳選された魔力素と、太陽の光を極限まで濃縮したエッセンスをブレンドしたものだ。グラスの中で、それはまるで上質な白ワインのように透き通ったエメラルドグリーンに輝いている。
その周囲を彩るのは、瑞々しい大粒の果物たち。
皮を剥いた瞬間に部屋中に甘い香りが広がる、完熟のイチゴ。さらに、じっくりと熟成された黄金色のハチミツを、これでもかとたっぷりと回しかけた新鮮な林檎や無花果。植物の根や葉から直接効率よく吸収できるよう、特別にジュレ状に仕立てた高純度のブドウ糖も添えた。
目の前に広がった、見たこともないほど豪華な食事。そして、部屋を満たす甘く濃厚な香りに、二人の胸の花が、本能的な歓びでふわっと大きく開いた。
「さあ、召し上がれ。ブラン、ルージュ。どれから食べてもいいし、全部君たちのものだよ」
私が優しく、かつ絶対の許可を与えてあげると、ブランは意を決したように、細い指先でおずおずとイチゴを一つ摘み上げた。そして、小さな口元へ運び、そっと齧る。
「……っ!」
次の瞬間、彼女の大きな瞳が信じられないほどの輝きを帯びた。口いっぱいに広がる甘みと、身体の芯に染み渡る純粋な魔力。あまりの美味しさに、彼女の胸の白い花が、嬉しそうに小刻みに震え始める。
それを見たルージュも、つられるようにグラスを手に取った。大きな手で、壊さないように慎重にグラスを持ち上げ、一口、喉に流し込む。
その直後、彼の目がカッと見開かれた。繋ぎ合わせたばかりの脈管を、極上の栄養が、猛烈な勢いで、しかしどこまでも優しく満たしていく。肉体が内側から歓喜の悲鳴を上げているのだ。
「ふふ、美味しいかい?」
口の周りにハチミツを少しつけて、幸せそうに頬を緩めるブラン。
空になったグラスを呆然と見つめ、もっと欲しそうにトレイの果物に手を伸ばすルージュ。
「ふふ、本当にかわいいなぁ……」
私はすっかり空になった紅茶のカップを置き、両手で頬杖をついて、夢中でご馳走を頬張る二人を心ゆくまで眺めることにした。この至福の時間を邪魔するものは何もない。
ブランは、ハチミツまみれの無花果を小さな口で上品に、でもものすごい勢いでモグモグと食べている。あまりの美味しさに夢中になりすぎたのか、さっきまでの遠慮はどこへやら、気づけば口の端や、せっかくのエメラルドグリーンのドレスの袖口にまで、とろりとしたハチミツがついてしまっている。
胸の白い花は、栄養をこれでもかと吸い上げて、まるで朝露を浴びたばかりのように瑞々しく、誇らしげに咲き誇っていた。
一方のルージュは、大粒の林檎を豪快に丸かじりしていた。シャキ、と小気味いい音が響くたび、彼の胸の深紅の花から、満ち足りたような、どこか甘く香ばしい香気がふわりと漂ってくる。あれほど狂暴に私を睨みつけていた戦闘用の目が、今は「次はどれを食べようか」という一点のみに注がれていて、驚くほど無防備だ。
やがて、テーブルの上の果物がすっかり綺麗になくなると、二人は同時に「はっ」としたように動きを止めた。
満腹になって初めて、自分たちが主人の前でどれほど可愛らしい姿を晒していたかに気づいたらしい。
ブランは口元にハチミツをつけたまま、顔を真っ赤にしてドレスの袖で慌てて口を隠した。ルージュも、林檎の芯を握りしめたままフリーズし、きまり悪そうに視線をあちこちへ彷徨わせている。
二人とも、お腹はいっぱいになって幸せなのに、主人の顔を見られなくて、さっきとはまた違うベクトルで最高に困惑し、そわそわと身を縮こませていた。
「いいんだよ、全部綺麗に食べてくれて嬉しいよ。ブラン、ルージュ」
私が名前を呼んでクスクスと笑うと、二人は耳まで赤くして完全に小さくなってしまった。
次はお風呂に入れて、隅々までもっとピカピカに洗ってあげようか。それとも、庭の温室に連れ出して、ふかふかの土や新鮮な風に触れさせてみようか。
そんな風に私が贅沢な悩みに耽っていると、ふと、二人の空気が変わった。
お腹がいっぱいになり、一通りのパニックが落ち着いたことで、彼らの「奴隷としての本能」がまた頭をもたげてきたのだろう。
ルージュが意を決したように林檎の芯を置くと、ソファから立ち上がり、私の前で小さく膝をついた。それに続くように、ブランもドレスの裾を気にしながら、おずおずと床へ降りて跪く。
二人は真剣な、そしてやっぱり少し困惑の混じった瞳で私を見上げてきた。そして、ルージュが震える声を絞り出すようにして、静かに私に問いかけてくるのだ。
「……主人。私たちは、これから何をすればよろしいですか? どんな任務でも、お命じください」
「はい……私、何でもしますから。お掃除でも、何でも……」
ブランも消え入りそうな声で後に続く。
ほら、やっぱり聞いてきた!
これだけ甘やかされて、何もしなくていいと言われても、彼らの今までの人生(植物生?)がそれを許さないのだ。
ブランが役に立たないと、また千切られてしまうと言わんばかりに、無意識に胸の花を庇うような仕草をした。ルージュは戦えない自分は、処分されるはずだと自分の治った関節を強く握りしめている。
「何をすればいいか、だって?」
私はわざと冷徹な主人のような顔を作って、ふっと鼻で笑ってみせた。二人の背筋が、緊張で一瞬にしてピンと伸びる。
「私の最初の命令を忘れたのかい? 『綺麗でいること』、そして『私の目を愉しませること』。それが君たちの任務だよ。つまり……」
私はソファから身を乗り出し、跪く二人の額を、人差し指でぽん、ぽんと小気味よく小突いた。
「今からのんびりお昼寝をする。それが君たちの次の『重大な任務』だ!」
「へ……?」
「お昼、ね……?」
本日何度目か分からない、完璧なハトが豆鉄砲を食ったような顔。
命がけの命令を待っていたルージュは肩透かしを食らって完全に脱力し、ブランは「お昼寝」という任務の難解さに、またしても頭の上に大量の疑問符を浮かべている。
必死に主人の役に立とうと身構えていたのに、またしても平和すぎる壁にぶち当たって困惑しきっている二人。その愛らしい様子に、私はもう笑いを噛み殺すのをやめて、お腹を抱えて声を上げて笑ってしまった。
「そう! お腹がいっぱいになったら、次はお昼寝に決まっているじゃないか!」
私がそう宣言すると、ブランとルージュはまだ信じられないものを見るような目で、呆然と私を見つめていた。しかし、主人の言葉は絶対だ。それがどれほど突拍子もない、甘やかしに満ちた「命令」だとしても。
私は部屋のクローゼットから、とびきりふかふかの、大きなカシミアの毛布を引っ張り出してきた。
「ほら、そこに横になって」
大きなソファを指差すと、二人はおずおずと、壊れ物を扱うような手つきで体を横たえた。ルージュの大きな身体がソファに沈み込み、その隣にブランが小さく丸まる。まるで、大きな樹木の根元に寄り添う小さな花のような、完璧に美しい対比だ。
私は二人の上に、あたたかい毛布をふわりと掛けた。
ちょうど窓からの極上の日差しが、彼らのシーツと毛布を、ぽかぽかと黄金色に温め始めている。
「のんびりしてもらう、っていうのが、我が家のルールだからね。逆らうことは許さないよ?」
いたずらっぽく微笑みながら、私はブランの緑の髪を優しく撫で、ルージュの少し硬い髪にも触れた。
魔法の効果と、お腹いっぱいに満たされた極上の栄養。そして、このあたたかい毛布と日差し……。抗えるはずのない完璧な「快眠の罠」が、二人の植物人間の本能をじわじわと包み込んでいく。
ブランの大きな瞳が、耐えかねたようにとろりと潤み、パチパチと頼りなく瞬きを始めた。
「あるじ、さま……本当に、いいの……?」
かすかな呟きは、もう半分夢の中だ。胸の白い花が、温光を浴びて小さく規則正しく揺れている。
ルージュも、いつまでも主人を警戒していなければと理性が抗っているようだったが、身体は正直だった。あたたかい毛布の心地よさに、大きな肩の力が完全に抜け、ふぅ……と、深くて長い、安らぎの溜息を漏らす。
胸の深紅の花から、眠りを誘うような、どこかお日様の匂いに似た甘い香りが優しく部屋に満ちていく。
「おやすみ、ブラン。おやすみ、ルージュ」
私が囁くと、まるで糸が切れたように、二人は同時にすうすうと規則正しい寝息を立て始めた。
困惑しきった可愛い顔から、完全に警戒の解けた、幼子のような寝顔へ。
「うん、最高にいい眺めだ……」
私は彼らの昼寝を邪魔しないよう、足音を忍ばせて自分の椅子へと戻った。
ちょうどその時、我が家の重厚な玄関のベルが、控えめに、しかし独特の調子で鳴り響いた。
「おや……?」
私はソファで幸せそうに眠るブランとルージュを起こさないよう、そっと立ち上がって窓の外を覗いた。見覚えのある、異国風の装飾が施された馬車が停まっている。定期的に掘り出し物を運んでくる、お馴染みの闇奴隷商だ。
なんという絶妙なタイミングだろう。私はブランとルージュをあたたかい毛布で包み直すと、彼らの寝顔に一度微笑みかけ、玄関へと向かった。
扉を開けると、そこには大仰なお辞儀をする奴隷商が立っていた。
「これはこれは、我が上得意の旦那様! 今日はまた、素晴らしい戦力になる頑強な亜人や、歌の得意な妖精などを仕入れてまいりまして──」
「いや、そういう普通のはいらないよ」
私は彼の言葉を遮り、楽しげに目を細めた。
「私が欲しいのは、また『壊れた奴隷』だ。それも、植物人間がいい」
私の注文を聞いた瞬間、奴隷商の愛想笑いがぴたりと止まった。
「は、はあ……? 『壊れた』、ですか……? しかも植物人間……?」
奴隷商は困惑を隠しきれない様子で、冷や汗を拭った。無理もない。商人にとって、動かなくなった生体兵器や、手入れの行き届かない植物人間は「商品価値のないゴミ」だ。
普通、貴族や魔術師が奴隷を買いに来る時は、すぐに役立つ即戦力か、五体満足で美しいものを求める。前回、私が壊れた二つを引き取った時も、彼は「物好きな旦那もいるものだ」と内心せせら笑っていたに違いない。
「あの、旦那様……。そういった『壊れ物』は、タイミングが悪いと在庫がございませんでね。前回の二つは、本当にたまたま処分に困っていたものを、旦那様が奇特に引き取ってくださったわけで……。通常は、動かなくなればその場で廃棄するか、家畜の餌にするのが常識でございますから……」
奴隷商は完全に私を「頭の狂った奇人」を見るような目で、熱心に言い訳を探している。その困惑した様子が実におかしくて、私は心の中でくすくすと笑った。
「そうか、タイミングが悪いといないかぁ。残念だな。私はね、あのひどい使われ方をしてボロボロになった子たちを、丁寧に、丁寧に直して、綺麗な服を着せて、美味しいものをたくさん食べさせて困惑させるのが、今の最高の趣味なんだよ」
「な、直して、食べさせて……困惑、ですか……?」
奴隷商の脳の処理能力は完全に限界を迎えていた。鞭で従わせるのではなく、直して甘やかす。彼の暗黒のビジネス感覚からは、逆立ちしても出てこない発言だろう。
「まあいいさ。もし次にまた、ひどい目に遭って芯から壊れかけた植物人間が手に入ったら、どんなにボロボロでも、死にかけでも構わない。全部私が買い取るから、必ず一番に我が家へ持ってきなさい」
「は、はあ……承知いたしました……。壊れた植物人間、でございますね……」
奴隷商は狐につままれたような顔で、何度も首を傾げながら、自分の馬車へと戻っていった。後ろ姿からも困惑がアリアリと伝わってきて、実に見事な見ものだった。
扉を閉め、私はふたたび陽だまりの部屋へと戻った。
ソファの上では、ブランとルージュが、そんな主人の怪しい取引など露知らず、毛布にくるまってすやすやと幸せそうな寝息を立てている。
「ふふ、次の仲間が増えるのは、もう少し先になりそうだよ。それまでは、君たち二人をたっぷりと甘やかしてあげようね」
私は眠る二人の美しい顔を眺めながら、次の「おもちゃ」が届く日を、今から楽しみに待つことにした。




