第19話
彼女を迎え入れてから、数日経ったある日。私はローズを寝室の中央、大きなベッドに連れてきた。
実験の最中に失われたという記憶――それを身体的な反応から引き出してみようという試みだ。
ローズは首を傾げて、集まった全員の顔を順番に見渡した。
「……みんな、いる」
「そうだよ。今日は君のために、特別なことをしてあげようと思ってね」
「特別」
ローズは「特別」という音を口の中で転がした。言葉の意味は知っている。しかし、自分がその対象になるという概念が、まだ追いつかない顔をしていた。
ブランが前に出た。
「ローズ、こっちにおいで。怖くないから」
ブランの頭上の白い花が、安心させるように柔らかく開いて、甘く清潔な香気をふわりと漂わせる。ローズはブランの手を見て、それからそっと握った。
手の握り方を、彼女の指の筋肉は知っている。指先同士が合わさる密着感に、微かな既視感がある。でも、なぜ知っているのかが、いつものように頭では分からないという顔をしていた。
ルージュが大きなソファに毛布を広げた。ヴィオレットが薬草の香りを含ませた温かい布を用意し、アズールは小さな器に特製の蜜を用意して待っている。
ローズをソファに横たえると、彼女は吸い込まれるような感覚に身を任せ、天井をぽつんと見上げた。
「……これ、何をするの?」
「気持ちいいことをしてあげるんだよ」
「気持ちいい」
「そう。ヴィオレットも最初は分からなかったけど、今は分かるよね?」
ブランに問いかけられ、ヴィオレットが小さく頷き、ローズの隣に静かに腰を下ろした。ベッドがわずかに沈み、その振動がローズの背中に伝わる。
「怖かったら、言って。すぐに止めるから」
ローズは少し考えるように、小首を傾げた。
「怖い、は……どういう感じ?」
ヴィオレットが一瞬、言葉に詰まる。
「……胸が、ぎゅってなる感じ」
「ぎゅって」
「そう。息が、吸えなくなるの」
「分かった。ぎゅってなったら、言う」
ブランが最初に、ローズの髪を梳いた。
ゆっくりと、温かい指先が頭皮をかすめ、緑の髪を一本ずつ解くように。ローズは天井を見たまま、頭部から背筋へと抜けていくその心地よい痺れを受け取っていた。
「……温かい」
「ブランの手、温かいでしょ」
「知ってる。でも、誰かに触られたの……覚えてない」
ブランの手が、ほんの一瞬だけ止まった。それからまた、さっきよりも圧を抜いた優しい動きで髪をなぞり始める。
ヴィオレットが温かい布を、ローズの首筋にそっと当てた。
その瞬間、ローズの背中がビクンと跳ねた。
「……っ」
声にはならなかった。ただ、首筋の皮膚に触れた熱量に、細胞が何かを思い出したように、全身の筋肉が一気に硬直する。肺の空気が凍りついたように止まった。
「ローズ?」
「大丈夫。ぎゅってはなってない。でも……」
「でも?」
「なんか、した。胸の奥が、どくんどくんって、暴れてる」
私は少し離れた場所から、その様子を静観していた。脳の記憶ではない。しかし、神経と血流が何かを確かに知っている。その境界が、今、激しく揺れていた。
ヴィオレットが気遣わしげに布を少し離し、アズールが蜜の器を持って近づいた。
「ローズ、これ、甘いものですよ。唇に、少しだけ」
ローズはアズールを見上げた。アズールの青い花が、穏やかに開いている。
「甘い、は知ってる」
「食べたことがありますか?」
「……分からない。でも、唾液が、出る」
アズールが細い指先に蜜を取り、ローズの乾いた唇にそっと触れた。
粘膜に触れる、ひんやりとした質感と濃厚な甘み。ローズの舌が、反射的に動き、その蜜をすくい取る。喉の奥が、かつてそれを欲した記憶をなぞるように、きゅっと収縮した。
彼女の胸元にある桃色の花が、その瞬間にぞわりと大きく揺らいだ。
「……あ」
「気持ちいい……ですか?」
アズールが静かに聞いた。
「分からない。でも……花が、動いた。勝手に、中から熱くなって、動いた」
「ええ、そうです。お花は正直ですから」
ローズは自分の胸元の花を見た。まだ微細に脈打つように揺れている。自分の意志とは別に、肉体が勝手に自律運動を始めている。それを、自分の身体でありながら他人のものを見るように、不思議そうに眺めていた。
ルージュが、ローズの手を取った。
硬く、大きな手。ローズの細い手をすっぽりと包み込むように握る。皮膚と皮膚が密着し、ルージュの高い体温がじわじわと彼女の冷えた指先に流れ込んでいく。ルージュは何も言わなかった。ただ、じっと握り、その重みを与えていた。
ローズはルージュの手を見た。
「ルージュの手、大きい」
「そうだな」
「前に、大きい手に……」
ローズの言葉が遮断されたように止まった。
胸元の桃色の花が、怯えたように一斉にその花弁を閉じようと身をよじった。ルージュの手を握ったまま、ローズの指先が氷のように冷たくなり、全身の皮膚に鳥肌が立っていく。
「……なんか、胸の底から、冷たいものが上がってくる。でも、出てこない」
「無理に出さなくていい」
「でも……大きい手に、何かされた、気がする。掴まれて、痛かったような……覚えてないけど、筋肉が、縮むの」
ルージュが、握る力を少し緩めた。しかし、決して離さず、皮膚の温もりだけを伝え続ける。
「俺の手は、お前を傷つけない」
ローズはルージュを見た。それから、また自分の花を見た。強張っていた花弁が、ルージュの体温に溶かされるように、ゆっくりと弛緩し始める。
「……分かった」
小さな、吐息のような声だった。
「怖い、ではなかった。でも、何か……あった。昔、何かあったんだと思う」
「そうだね」
「覚えてないのに、身体が勝手に震えるの……変だね」
「変じゃないよ。私も、そうだから」
ローズがブランを見た。
「ブランも?」
「うん。頭が忘れても、身体が覚えてる。でも、ここでは、優しい触り方も新しく覚えられるから」
ブランの指先が、ローズの胸元に咲く、まだ固い桃色の花弁にそっと滑り込んだ。
指の腹が、花弁のデリケートな内側に触れた瞬間、ローズの背中が弓なりに反った。
「……っ、あ、……ひあ……」
喉から、掠れた甘い悲鳴が漏れる。
本人の意思とは裏腹に、触られた花弁は、拒むこともできずに自ら貪るように、ブランの指を包み込んでふわりと開いていく。
「気持ちいい?」
「分からない。でも……」
ローズの目が、じわりと涙に潤んできた。泣いているのかどうか、本人すら分かっていない。ただ視界が滲む感覚に、戸惑うような無垢な顔で。
「胸が、いっぱい。心臓のまわりが、なんか、いっぱい」
アズールが、ローズの涙を拭うように頰にそっと触れた。
「それが、気持ちいい、ですよ」
「これが……」
「はい」
ローズはしばらく黙っていた。ブランの指が花弁を優しくなぞり、ヴィオレットが首筋を温め、ルージュが手を握り続けている。アズールが髪を梳く。
皮膚から伝わる無数の温もりと異なる愛撫に、彼女の神経がじっと耳を澄ませていた。ノワールとジョーヌが、少し離れた場所から静かにそれを見つめていた。
ルージュが手を握ったまま、ローズの花の動揺が落ち着いてきた頃、私は口を開いた。
「ローズ。もう少し、確かめてみようか」
「確かめる?」
「君の身体が何を覚えているか。怖かったら止める。でも、知っておいた方がいいこともある」
ローズは少し考えた。それから、じっと私を見つめて頷いた。
「分かった」
私はノワールを見た。
ノワールは壁際から、音もなく静かに近づいてきた。大柄な彼の身体がベッドの端に腰を下ろすと、マットレスが深く沈み、ローズの身体がわずかに彼の方へと傾ぐ。
見上げるローズの視界は、たちまちノワールの広大な胸板と、彼が落とす暗い影によって完全に塞がれた。逃げ場を奪われたような圧迫感が、寝室の空気を濃密に変えていく。
ノワールはローズを見下ろし、ローズはその底知れない瞳を見返した。
「怖いか?」
「……分からない」
「嫌だったら言え」
低く、鼓膜を揺らすような声。
ノワールの骨太で無骨な大きな手が、ゆっくりとローズの華奢な肩を掴んだ。
重い。そして、芯からじんわりと熱い。何より、そこからピクリとも動かない重量感。
ローズの身体が、一瞬で息を止めた。鎖骨のあたりが微かに引き攣り、細い肩がその重圧に小さく震える。
しかし、それは恐怖の拒絶ではなかった。桃色の花が、ねだるように静かに揺れる。ルージュの手への反応とは違う、もっと血圧が下がるような、深い安心を伴った揺れだった。
「……重い」
「重いか」
「でも、怖くない。ぎゅってならない。ずっしりして、落ち着く」
ノワールは手を置いたまま、それ以上は何も言わなかった。ただ、肉体のすべてで彼女を圧し潰すように、揺るぎなくそこに君臨していた。
「ノワールの手は、押しつけない。ただ、そこにある。前に、無理やり押しつける手があった気がする。潰されそうな……でも、これは違う」
ノワールの漆黒の花が、承認を示すように深く静かな香気を放った。
ローズはノワールの手を見た。それから自分の肩の、その圧力がかかっている部分を見た。
「頭では思い出せないけど、違うって分かる。皮膚が、違うって言ってる」
次に、私はジョーヌを見た。
ジョーヌは少し離れた場所で、笑顔のまま困惑していた。削りかけの木片を膝の上に置いたまま、指先を固まらせている。
「ジョーヌ」
「は、はい……っ、……僕、ですか」
「ローズに、触れてみてくれるかい」
ジョーヌが立ち上がった。しかしその全身は目に見えて強張っていた。
ローズの前に膝をつく。ジョーヌの黄色い花から、酸味の強い柑橘の香りが一気に立ち上った。彼特有の、防衛反応としての緊張の香気だった。
「えっと……触っていい?」
ジョーヌがローズに聞いた。ローズは少し考えるように、ジョーヌをじっと見つめた後、静かに口を開く。
「いい」
ジョーヌの指が、小刻みに、まるで痙攣するように震えながら、花弁の縁をそっとなぞる。
その細かな振動が、ローズの花の神経を直撃した。
桃色の花が、悲鳴を上げるように大きく揺れた。ルージュの時とも、ノワールの時とも違う、不規則で禍々しい揺れ方。脳の奥に直接突き刺さるような、負の記憶のフラッシュバック。
「……あ」
ローズの声のトーンが、一瞬で変わった。
身体が硬直した。今度は指先一枚動かせないほどに、完全に、石のように固まった。
ローズの目が、焦点を失って遠くを見ていた。この部屋の光景は消え去り、どこか暗く、冷たい場所に魂だけが引きずり込まれている。瞳孔が開いていた。
「……震えてた」
カサカサに掠れた声だった。
「誰かの手が、激しく震えてた。でも、優しくなかった。震えながら、容赦がなかった」
ジョーヌの指が、弾かれたようにピタリと止まった。
「ごめ、ごめんなさい……っ、僕、やめ――」
「待て」
私が静かに制した。ジョーヌが氷水を浴びせられたように凍りつく。
「ローズ、続けて。身体が何を言っているか、その波紋をよく聞いてごらん」
ローズは虚空を見つめたまま、喉の奥から絞り出すように言葉を紡いだ。
「震えてた手が、私の花を、根元から引きちぎろうと引っ張った。抜こうとしてた。皮膚が裂けそうで、でも抜けなくて。何度も、何度も、ガタガタ震えながら、引っ張られた」
居間が、静まり返った。誰一人、呼吸すらまともにできない。
ヴィオレットが胸を抉られたように痛ましそうに目を閉じた。ブランが胸の花を押さえて深く息を吸い、アズールがそっと器を置いた。
「痛かったかい?」
「分からない。麻痺してて、分からなかった。でも……花が、嫌がってた。引きちぎられるのを、すごく嫌がってた」
桃色の花が、今度は完全に身を守るように閉じようとしていた。しかし、閉じきれなかった。ジョーヌの指がまだ、怯えながらも花弁の縁に触れたままだったから。
「ジョーヌ」
私が呼んだ。ジョーヌが、涙目で私を見た。張り付いた笑顔のまま、目から大粒の涙がボロボロと零れ落ちていた。
「で、でも……僕の手、怖がらせて、震えてて」
「知っているよ。それでも、触れていなさい」
ジョーヌは肺が破れるほど深く息を吸った。黄色い花から、切ないほどの柑橘の香りが広がる。彼が意を決して大きく息を吐き出すと、恐怖の震えが、相手を労わるための細かく静かな微振動へと変わっていった。
指先が、花弁の曲線をゆっくりとなぞる。さっきの暴力的な追体験を塗り替えるような、祈るような確かさで。
ローズの花が、小さく震えた。
頑なに閉じようとしていた花弁の動きが、ふっと止まった。張り詰めていた緊張が、ジョーヌの必死な熱に中和されていく。閉じもせず、開きもせず、ただ相手の存在を許すようにそこにある。
「……違う」
ローズがぽつりと言った。遠くを見ていた目に、徐々にこの部屋の光が戻ってくる。
「さっきのと、違う。同じ震えてる手なのに、伝わってくるものが、違う」
「どう違う?」
「さっきのは、花を奪おうとしてた。今は……ただ、壊さないように、触ってる」
ジョーヌの目から、堰を切ったように涙が一粒、ぽろりと彼女の頬へ落ちた。その雫の温かさが、ローズの皮膚に染み込む。
「ジョーヌ、泣いてる。冷たくない」
「う、うん……ごめんなさい、変で……っ」
「変じゃない」
ローズがジョーヌの涙で濡れた顔を真っ直ぐに見つめた。
「ジョーヌも、身体が何かを覚えてるの?」
「……うん。でも、僕も、ちゃんとは、頭では覚えてない。でも、身体が、勝手に笑っちゃって」
「そっか」
ローズは少し考えた。それから、ジョーヌの震える指の上に、自分のまだ少し冷たい、小さな手を重ねた。
ジョーヌが息を呑み、その指の震えがぴたりと止まる。
「震えてていい。でも、私の花を取らないで」
「取らない。絶対に、取らない」
桃色の花が、ゆっくりと、今度はなんの拒絶の力も入れず、素直に開いた。
ジョーヌの黄色い花から、今まで嗅いだことのないような、柔らかく芳醇で甘い柑橘の香りが充満した。
しばらくして、ローズは重力に身を預け、天井を見上げたまま言った。
「同じ手でも、触られ方で全部違うんだね」
「そうだね」
「ルージュの手は、血が通う力があった。ノワールは、動かない重さがあった。ジョーヌは、優しくて震えてた。でも全部、私の身体は、違うものとして受け取った」
「怖かったのは?」
ローズは自分の胸に手を当て、鼓動を確かめるように少し考えた。
「怖かったのは、取ろうとしてた手。力とか、重さとか、震えとか、そういうのじゃなかった。私の花を奪おうとしてたから、嫌で、ぎゅってなった」
「そうだね」
「頭は覚えてないのに、身体は分かるんだね。……奪おうとしてた、って。身体が、ちゃんと嫌だって分かってた」
「それが分かっただけでも、今日は大成功だ」
私は冷めかけた紅茶を一口飲んだ。喉を通り抜ける温かさが妙にリアルだった。
窓から春の強い光が差し込んで、逃げ場がないほど鮮やかに、彼らの七色の花を等しく、残酷なまでに美しく照らし出していた。




