第18話
翌朝、私がカルヴァンの直通番号に連絡を入れると、彼は受話器の向こうで重い一呼吸を置いてから、「では、明日。例の場所で」とだけ短く答えた。
出立の準備をしていると、玄関の重厚な扉の前にルージュが立っていた。いつもの豪奢な服ではなく、目立たない深い極夜色の外套を着込み、無骨な腕を組んでいる。
「どこへ行くおつもりですか」
「少々、街の外れまでね。新しい可哀想な子を迎えに行ってくるよ」
「一人で行かれるのですか」
「君たちは留守番だ。大人しくお留守番のできる良い子には、お土産を買ってきてあげるよ」
「……嫌です」
私はルージュを見上げた。彼はその戦闘用の獰猛な瞳を、一切逸らそうとはしなかった。
頭上の深紅の花からは、戦いの高揚を告げる猛々しい香気ではなく、もっと静かで、頑ななほどの忠誠を告げるような、甘い香りが滲み出ている。
「あのカルヴァンという男が、罠を張っている可能性を排除できない。主人を一人でそんな危険な場所へ行かせるわけにはいきません」
私は少しの間、彼の美しい頑固さを楽しむように見つめ、それから微笑んだ。
「……分かった。では、私の極上の盾として付き従うといい」
ルージュが短く、満足げに顎を引いた。
居間に残る五人の人形たちには、のんびりしているよう言い置いた。ブランが不安そうにエメラルドの瞳を揺らしたが、ノワールが彼女の隣へ音もなく腰を下ろし、その大きな手でブランの白い花を守るように引き寄せたのを確認して、私は静かに扉を閉めた。
約束の場所に現れたカルヴァンの馬車は、管理局の禍々しい紋章を綺麗に隠した、ひどく地味な黒塗りのものだった。
私とルージュが車内へ乗り込むと、カルヴァンは御者台ではなく、向かいの豪奢な座席に腰を下ろしていた。護衛の部下は一人も連れていない。完全な、密会だった。
車輪が軋み、馬車が滑るように動き出す。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。ただ、車外から街の古い石畳を叩く単調な蹄の音だけが、小気味よく響き渡る。
「昨日の我が家への視察、ご苦労だったね」
私が沈黙を破ると、カルヴァンは表情一つ変えずに答えた。
「仕事ですから」
「あの、私の可愛い子どもたちに不躾な視線を向けていた若い役人。名前は何といったかな」
「ヴォルフ。今年局に入ったばかりの、法に忠実で、熱心な男です」
「──そして、植物人間を酷く嫌悪している」
「……ええ」
カルヴァンは小さく息を吐き、窓の外へと視線を向けた。中央区の洗練された街並みが少しずつ遠ざかり、建物は煤け、人通りが目に見えて減っていく。
「君は、局に入ってどれくらいになるんだい?」
「二十二年、になります」
「長いね。人生の半分以上を、あの無粋な組織に捧げているわけだ」
「気づいたら、そうなっていました」
ルージュが隣で腕を組んだまま、猛獣のような眼光でカルヴァンの微細な挙動を静かに観察していた。
だがカルヴァンは、その隣に座る最高位の戦闘用個体の殺気に怯える風もなく、ただ、流れていく灰色の景色を眺め続けていた。
「君は、植物人間に育てられたそうだね」
カルヴァンの死んだ魚のような目が、一瞬だけ、鋭く動いた。
「……誰から、それを」
「誰からも。ただの私の美しい推測だよ。君の、植物人間に対するその奇妙な執着と距離感が、答えを教えてくれた」
カルヴァンは喉の奥を鳴らし、少しの間を置いてから、ぽつりぽつりと独白を始めた。
「……育ての母が、植物人間でした。かつて、没落しかけていた父が買い取った、安価な給仕用の個体です。父が死に、家が完全に潰れた後も、彼女だけは、ずっと私の家にいます。……今も、変わらずに」
「今も」
「ええ。核を破壊されず、花が枯れない限り、彼女たちは老いることも、死ぬこともない。……私がこのまま老いさらばえて死んでも、彼女はまだあの家で、変わらぬ姿で佇んでいるのでしょう」
その言葉に、私の隣にいたルージュが、微かにその美しい眉を動かした。
「だから君は、あの子たちを直して手元に置く私を黙認し、壊れるまで使い潰すような外道を憎むわけだ」
私が言うと、カルヴァンは窓の外を向いたまま、どこか自嘲気味に首を振った。
「憎む、というよりは……私を育て上げたのは、そういう『人間ではない存在』です。だから、無残に壊された植物人間を見ると、自分の内臓を掻き回されているようで、ただ単に居心地が悪い。それだけです。貴方が思っているような、高尚な正義感などでは断じてない」
馬車が石畳の境界を越え、舗装の荒い砂利道へと入った。ガタガタと激しい揺れが室内に伝わる。
「……局は今、深刻な人手不足に陥っている」
カルヴァンが、己の過去を遮るように話題を切り替えた。
「二十年前と比べて、中央の役人の数は半分以下にまで激減しました。街の人口も減り、国力は衰退している。にもかかわらず──植物人間は、傷を負わなければ決して死なない。管理する人間の数が減り、兵器の数だけが不変、あるいは増え続けていく。……いずれ、そのパワーバランスは逆転するでしょう」
「それが、お上は怖いのかな?」
「局の上層部は、その『いつか来る反乱の引鉄』を何よりも恐れています。あいつらが壊れるまで使い潰し、定期的に間引きを行うのも、単に数を抑制し、人間の支配権を保つための方策に過ぎない」
「君自身は、どう思っているんだい?」
カルヴァンは、二度と答えなかった。
だが、その冷え切った横顔そのものが、彼の答えのすべてを物語っていた。
辿り着いた非合法の実験施設は、荒涼とした原野の境界にぽつんと佇んでいた。
かつては白亜だったであろうコンクリートの壁は、今は見る影もなく灰色に変色し、ひび割れている。窓ガラスの多くは叩き割られたままで、錆びついた鉄門は半開きになっていた。
局の赤い封鎖印が虚しく貼られているが、周囲に人の気配は一切ない。死に絶えた、生体兵器たちの墓標のようだった。
カルヴァンが先に降り、軋む門を押し開いた。
「閉鎖から三週間が経ちます。職員や研究者はすでに私財を持って引き上げました。……彼女だけが、地下に取り残されています」
「なぜ、局のルールに従って処分しなかったんだい?」
カルヴァンは、痛みを堪えるように目を伏せた。
「……できなかった。ただ、それだけです」
施設の中は、不気味なほどに薄暗く、冷え切っていた。
長い廊下に並ぶ鉄扉はどれも乱暴に開け放たれ、室内には割れた試験管や、どす黒い血液の付着した拘束具が散乱している。鼻を突く消毒液の匂いと、植物の腐敗臭が、未だに微かに空気の底に沈殿していた。
ルージュが自然な動作で私の半歩前に出た。大きな体躯で私を庇いながら、一切の足音を殺し、廊下の先にあるあらゆる死角を確認していく。
最奥、突き当たりの重厚な鉄扉だけが、固く閉ざされていた。
カルヴァンが懐から重い鍵を取り出し、錠を外す。ガチリ、と鉄が噛み合う音が響き、扉をゆっくりと押し開けると、窓のない部屋の奥へ、廊下からの薄い光が差し込んだ。
部屋の中央、冷たいコンクリートの床の上に、その女型の植物人間は座っていた。
膝を抱え、壁に細い背中をつけて、ただじっとそこに佇んでいた。ルージュやノワールのように四肢をもがれているわけでもなく、外傷らしい外傷もない。しかし、その佇まいは異様だった。
恐怖に怯えているわけでも、すべてを諦めた虚無に侵されているわけでもない。ただ、何も書かれていない真っ白な羊皮紙のような、あまりにも空虚な顔をしていたのだ。
だが、彼女の胸元には、驚くほど鮮やかな「桃色の花」が咲き誇っていた。温室で大切に育てられた大輪ではなく、荒野の片隅で風に揺れる野花のように、どこか頼りなく、ふわりと咲いている。
「……どうやらここは、『記憶』に関する実験を行っていたようでしてね」
「なるほどね」
私が部屋に一歩足を踏み入れると、彼女の焦点の定まった瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。意識は、確かにある。
だがその目には、「初対面を警戒する」という当たり前の反応すらなかった。
まるで、自分が誰に会っているのかも、自分自身が何者なのかも、判断するための土台ごと失われているようだった。
「こんにちは、可愛いお嬢さん」
私が優しく声をかけると、彼女は不思議そうに、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……こん、にちは」
それは、生まれたての赤子のように、たどたどしい響きだった。言葉としての音は出てくる。しかし、その挨拶の意味を理解しているのか、それとも私の発した音をただオウム返しに返しているだけなのか、判別がつかない。
「君に、名前はあるかい?」
彼女は少しの間、自分の胸の奥を探るように考え込んだ。長い沈黙の後、小さく首を振る。
「……ない、と、思う。あった、かも、しれない。でも……いまは、ない……と、思う。多分」
言葉がもどかしそうに、途切れ途切れに溢れ出る。
私は彼女の前にそっと膝をつき、目線を合わせた。彼女の胸元の桃色の花が、私の温かな気配に反応してふわりと小刻みに揺れる。
刹那、部屋の中に、ほんの少しだけ香気が漂った。それは甘く、どこまでも儚い、春の木漏れ日のような匂いだった。
「なら、私が世界で一番美しい名前をあげよう。――ローズ。君の胸に咲く、その愛らしい花にぴったりの名前だ」
彼女は「ローズ」という特権的な音を、愛おしむように口の中で静かに転がした。
「私の……なまえ?」
「そうだよ、私のローズ」
彼女はまた少し、考えるように瞳を瞬かせた。それから、驚くほど滑らかな動作で、ゆっくりと立ち上がった。膝を抱えていた細い腕が、するりと美しく解ける。
「一緒に、我が家へ来るかい?」
ローズは私をじっと見つめ、それから、私の背後に佇む大柄なルージュを見上げた。
ルージュは腕を組んだまま、威嚇する代わりに、その胸元の深紅の花を大らかに、優しく開花させていた。同じ「植物人間」としての、彼なりの不器用な歓迎だった。
「……行く」
彼女の答えは短く、そして一切の迷いがない。私は立ち上がり、ローズに白手袋の手を差し出した。
彼女はその手を少し不思議そうに眺めてから、そっと小さく握り返してきた。手の握り方という肉体の経験は知っている。しかし、なぜ自分がそれを知っているのかは分からない──そんな困惑の顔のまま、私の後に従った。
廊下に出ると、カルヴァンが壁際で影のように待っていた。
歩み出てきたローズの姿を見て、彼は肺の空気をすべて吐き出すように、小さく息を漏らした。
「色々とありがとう、カルヴァン。素晴らしい仕入れだったよ」
私が微笑んで告げると、カルヴァンは感情を排したまま首を振った。
「……私の、ただの我儘です」
馬車へと歩む間、ローズは私の手を小さな手でぎゅっと握ったまま、世界のすべてを新鮮に目撃するように、周囲をゆっくりと見渡していた。
高く広がる青空を見て、踏みしめる地面を見て、遠くの緑の木々を見て──その都度、感動に足を止めそうになる。
「……あそこ、空、だ」
「そうだよ。綺麗な青だろう?」
「知ってる。……でも、私が、あれを見たの……いつなのか、わからない」
ルージュがその壊れた言葉を耳にして、一瞬だけ、その力強い足を止めた。何かを想うように目を伏せ、それからまた力強く歩み始めた。彼の胸の深紅の花が、静かに、優しく揺れていた。
馬車に乗り込む直前、カルヴァンが私の背中に近づき、声を潜めた。
「……旦那様。一つだけ」
「なんだい?」
「『局』が、数の超過を理由に貴方に対して本格的に動くとしたら……この春の終わりまでだと思います。それまでに、あの法的な裏技の書類を、完璧に役所へ通しておいた方がいい」
それが、一介の査察官としての最後の忠告なのか、あるいは個人的な情報の横流しなのか、判断のつかない言葉だった。
「なぜ、私にそこまで親切にしてくれるんだい?」
カルヴァンは、遠い目をして少しの間沈黙した。
「……彼女の咲かせているその桃色が、私の、母の花に……よく似ていたので」
それだけを言い残し、彼は馬車の扉を静かに閉めた。
馬車が我が家に向けて、ゆっくりと動き出す。
車内、ローズは窓ガラスに小さな額を押し付け、流れていく外の景色を、生まれて初めて目にする奇跡のように、ただじっと瞳で追っていた。
ルージュが窓の外を見つめたまま、地を這うような低い声で尋ねてきた。
「主人。あのカルヴァンという男、本当に信用できるのですか」
「さあね、分からないよ。彼は私を助けているのではなく、自分の思い出を守っているだけだからね」
「……なのに、罠かもしれない場所へ、平然と赴いた」
「当然だろう? あそこに、こんなにも美しく、壊れた子が私を待っていたのだから」
ルージュは、フッと小さく鼻を鳴らした。
馬車の室内には、新しく加わった桃色の花の香気が、静かに、優しく満ち満ちていく。
私はローズの細く冷たい手をしっかりと握り締めたまま、窓の外の流れる雲を見上げた。




