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花奴隷調律譚  作者: 駒草
13/27

第13話


 新しい子が来たのは、約束から三日後のことだった。

 奴隷商の馬車が門に着いた時、私はちょうど居間で紅茶を傾けていた。同席していた四人が一斉に顔を上げる。ルージュだけが、微かに眉を寄せた。

 

 扉を開けると、奴隷商は今日も酷く疲弊した顔をしていた。しかし、その後ろの荷車を目にした瞬間、私の手から磁器のカップが危うく滑り落ちそうになった。

 並べて横たえられた二体は、これまでに見てきたどの子よりも、それぞれ異なるベクトルで凄惨だった。

 

 黄色い花の男型は、一見するとさほど傷ついていないように見えた。四肢は揃っており、肌の損傷も少ない。しかし、顔がおかしかった。口元が、笑っているのだ。

 意識を失って泥のように眠っているというのに、口角だけが吊り上がったまま硬直している。まるで、微笑む以外の表情を、筋肉が完全に忘れてしまったかのように。

 胸元の黄色い花は、花弁が不自然にバラバラの方向を向いて開ききっており、しかし香気は微塵も感じられなかった。

 

 青い花の女型は、見るからに肉体が限界を迎えていた。半透明の肌の下を流れる緑色の脈管が、毒に侵されて黒ずんでいる。唇は裂け、指先は細かく震え続けていた。

 しかし、最も異様だったのはその表情だ。苦悶に歪むでもなく、怯えるでもない。ただ、どこまでも穏やかに微笑んでいた。毒に五臓六腑を蝕まれながら、それでもなお、静かに。


 その微笑みが、黄色の男型の凍りついた笑顔と並ぶと、ひどく不釣り合いで、ひどく美しかった。

 

「……施設の閉鎖に伴い、処分を待つだけだったのはこの二体でございまして」

 

 奴隷商が、絞り出すような声で言った。

 

「男型の方は、歌と踊りで客を集める興行に使われていたそうです。感情そのものが商品でしたから、それを使い果たした後は用済みとされ……。女型の方は、ある宗教団体が『毒を浄化する聖女』として崇め、定期的に毒を煽らせていたそうで。信者が減って団体が霧散した後は、実験施設に払い下げられておりました」

「結構」

 

 私は遮るように、既に荷車へ歩み寄っていた。

 凍りついた笑顔に指先で触れる。硬直した筋肉は、笑い以外の動き方を本当に忘れてしまっているようだった。隣に横たわる女型の、震える指先を包み込むように握ると、その戦慄きが私の手のひらへと直に伝わってくる。それでもなお、彼女の唇は弧を描いたままだ。

 

「素晴らしい」

 

 私の呟きに、奴隷商が小さく身震いした。

 

「すべて買い取ろう。代金は」

「結構でございます! 引き取っていただけるだけで……」

「ありがとう。帰りに新しい培養液を持っていくといい」

「いえ、結構でございます!」

 

 奴隷商は今日一番の素早さで馬車に飛び乗り、逃げるように門を出ていった。

 地下の作業室に二人を横たえると、先輩たちが入口に集まってきた。

 ブランが両手で口を覆う。ヴィオレットは青ざめた顔で、黒ずんだ脈管を凝視した。ルージュは腕を組んだまま、あの張り付いた笑顔から目を離せないでいる。ノワールだけが、静かに部屋へと足を踏み入れ、二人の顔を順番に覗き込んだ。

 

「手伝えることはあるか」

 

 ノワールが私に声をかけてきた。

 彼が自分から進んで動こうとするのは、これが初めてのことだった。

 

「温室から、女型の毒を中和する薬草を取ってきてくれるかい。それから棚の一番上にある、青いラベルの瓶も頼む」

 

 ノワールは短く顎を引き、一切の迷いのない足取りで温室へと向かった。ルージュがその巨体を揺らし、無言でその後を追うように続く。

 ブランとヴィオレットは、地下作業室の入り口に佇んだまま、新入りの悲惨な姿に、胸元の純白と薄紫の花を激しく震わせ、心配そうに昏い室内を覗き込み続けていた。

 

 私は上等なシャツの袖を肘までまくり上げ、年季の入った調律の道具箱を開いた。

 今回は、いつもより遥かに長く、苛烈な戦いになる予感がしていた。結果としては、その修理には丸四日四晩の不眠不休の時間を費やすこととなった。

 

 特に女型の肉体に蓄積した劇物の毒は、あまりにも悪質だった。一気に解毒液を流し込もうとすれば、拒絶反応によって彼女の脆弱な植物脈管そのものが内側から破裂し、細胞ごと崩壊してしまう。

 

「ルージュ、彼女の主脈を押さえろ。一滴ずつ浸透させる」

「御意」

 

 ルージュがその無骨な大手を添え、恐ろしいほどの精密さで女型の細い腕を固定する。私は自身の魔力を絹糸よりも細く引き伸ばし、毒素を微量ずつ中和しては、濁った体液を外へと絞り出していった。変色してドブネズミ色になった脈管を一本ずつ丁寧に指先で扱い、新しい特製の培養液を満たしていく。

 容体が急変し、激しい拒絶の痙攣を起こした二日目の夜は、私も、そして彼女に付き添って体温を分け与え続けたブランたちも、一睡もすることができなかった。

 

 しかし、より困難を極めたのは、もう一方の男型の方だった。

 見世物として最高峰の調整を施されていた彼の肉体は、物理的な損耗こそ最小限に抑えられていた。

 だが、彼の精神──感情を司る脳内の魔術回路が、前主の悪趣味な呪縛によって、根本から残酷に書き換えられていたのだ。

 

 どれほどの激痛が走ろうとも、どれほど恐怖に震えようとも、笑い以外の表情筋が一切機能しない。感情と連動するはずの花からの香気も、完全に途絶している。

 私が彼の壊れた脈管にどれほど清らかな魔力を流し込んでも、歪んだ回路がそのエネルギーをすべて「狂気的な笑い」へと強制変換し、肉体へと出力しようとしてしまうのだ。

 

「主人、脳の第3層の術式が過負荷を起こしている。培養液の伝達速度では、彼の狂いかけた神経の暴走を抑えきれない」

 

 観察を続けていたノワールが、ナイトブルーの瞳を鋭く光らせて進言する。かつて地下闘技場で自らも精神をすり潰されかけた彼だからこそ、その異常な回路の繋ぎ目が視覚的に理解できるのだろう。

 

「分かっている。一度すべて遮断する。ノワール、私の魔力が術式を焼き切る間、彼の核の拍動を物理的に同期させろ」

「──了解」

 

 ノワールが男型の胸元に掌を当て、自身の脈を繋ぐ。私は都合、三度も術式を一から解体し、精密な時計の歯車を組み替えるようにして、呪縛の糸を一本ずつ焼き切っていった。

 

 地下の作業室に、信じられないほどに静謐な沈黙が訪れる。男型の顔から、あの不気味に張り付いていた引きつった笑みが、嘘のように消え失せていた。

 泥のような眠りに落ちている二人の枕元で、私と、そして全身を薬液と泥で汚したルージュとノワールは、互いの健闘を称え合うように、深く、満足のいく溜息を同時に吐き出すのだった。


 四日目の朝、先に女型を起動する。微かに目を開けた。

 毒が抜けきっておらず、まだ朧気な、焦点の合わない瞳だった。しかし私の顔を認識した瞬間、彼女の唇はすぐに綺麗な弧を描いた。反射的な、魂にまで染みついた笑顔。

 

「ここは……どこ、でしょう」

「私の家だよ」

「捧げるものが、あれば……何なりと」

「いらないよ。何も」

 

 彼女は微笑んだまま、パチパチと目を瞬かせた。「いらない」という言葉の意味を、脳がうまく処理できていないようだった。

 

 次に、男型を起動する。

 彼の口元は、やはりまだ笑っていた。しかし、瞳だけが笑っていなかった。虚ろな眼差しで天井を見上げ、それからゆっくりと私へ向く。乾いた口が開いた。

 

「あ……あ、は……っ」

 

 笑い声に似た、歪な音が漏れる。けれど、彼は決して笑っていなかった。声と感情の繋がりが、完全に断絶している。

 

「無理に話さなくていい」

「は……っ、あ……ごめ、なさ……ごめんなさい……っ」

 

 謝罪の言葉だけが、堰を切ったように溢れ出した。口角が引き上がったまま、彼は涙も流さずに謝り続ける。

 笑顔のまま許しを乞うその姿は、ひどく痛ましかった。

 

「もういい、大丈夫だ」

 

 私は彼の口元へそっと指先をあて、強張った筋肉を優しく解していった。笑い以外の動き方を、その肉体に、もう一度思い出させるように。

 

 男型――「ジョーヌ」には、深い黄金色のシャツを着せた。胸元の黄色い花はまだ香気こそ薄いものの、花弁の向きは少しずつ揃い始めている。

 女型――「アズール」には、淡い水色のドレスを。脈管の黒ずみは完全には消えていないが、指先の震えは綺麗に止まっていた。

 

「みんな、新しい子だよ」

 

 私が紹介し終えるより早く、ブランが駆け寄っていた。

 

「大丈夫? 痛いところはない? 私、ブランっていうの。よろしくね!」

 

 アズールがブランを見つめ、微笑んだ。いつもの反射的な笑顔ではあったが、今度はその瞳に、微かな光が宿っていた。

 ジョーヌはブランを見て、口元を動かそうとした。しかし、笑い以外の形がどうしても作れず、またおびえたような笑顔のまま固まってしまう。ブランはその顔をじっと見つめ、それから、そっと彼の手を握った。それ以上は何も言わなかった。

 ルージュがジョーヌの前に歩み寄り、低く、ぶっきらぼうに告げた。

 

「ここでは、無理に笑わなくていい」

 

 ジョーヌの瞳が、初めて大きく揺れた。

 ヴィオレットはアズールの隣にそっと腰掛け、変色の薄くなった脈管を、自身の指先で愛おしそうに撫でた。

 

「毒、まだ残ってて苦しい?」

「少し……でも、前よりずっと、身体が軽くて」

「うん。主人様が全部抜いてくれるから。時間はかかるけどね」

 

 アズールが、今度は少し違う微笑みを浮かべた。ただの反射ではない、内側から滲み出るような、温かい別の感情が混じった表情だった。

 ノワールは二人から少し離れた壁際に、静かに佇んでいた。ジョーヌを見て、アズールを見て、それから私に視線を移す。

 言葉はなかった。しかし、その漆黒の花から、深く静かな香気がふわりと放たれた。

 私はアームチェアに深く腰を下ろし、六人を眺めた。

 

 純白。深紅。漆黒。薄紫。空色。琥珀。

 

 六色の花が、午後の柔らかな光の中に並んでいる。まだ、全員が完璧に咲き誇っているわけではない。ジョーヌの花は香気が希薄で、アズールの脈管には未だ毒の痕跡が残る。しかし、それでいい。

 時間はいくらでもある。これからだ。

 私は温くなった紅茶を一口含み、この贅沢な不完全さを、心ゆくまで堪能することにした。

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