第14話
平穏とは、ただ与えればすぐに馴染むような、都合のいい液体ではない。長年、歪んだ環境の培養液に浸されてきた彼らにとっては、なおさらだった。
特にジョーヌの壊され方は、深刻だった。
居間に差し込む陽光がどれほど温かくても、ブランがどれほど穏やかにスープを勧めても、彼の回路はそれを「客の前に立たされている」と誤認してしまう。
カトラリーが皿に触れて、小さく甲高い音が鳴る。その瞬間、ジョーヌの肩が跳ね上がる。
「あ……っ、は、はは……っ、皆様、どうぞ、お楽しみ、に……っ!」
乾いた笑い声が、唐突に居間へ響き渡った。
彼の黄金色のシャツの胸元で、黄色い花が恐怖に狂ったように細かく震える。顔は笑っているのに、目からは大粒の涙がぼろぼろと溢れ、顎を伝って落ちていった。
「ジョーヌ!」
ブランが手を伸ばしかけ、ルージュがそれを片手で制した。今無理に触れれば、彼はさらに混乱する。
「ごめ、なさ……うまく、踊れ、なくて……っ、次は、もっと、上手に、笑い、ます、から……っ! 捨てないで、叩かないで、はは、あははは……っ!」
興行師たちの怒号、客たちの値踏みするような視線、拍手。それらの記憶が、濁流となって彼の脳内を駆け巡っているのだろう。ジョーヌは自身の頭を両手で抱え込み、床にうずくまった。笑顔のまま、過呼吸のような引きつった呼吸を繰り返す。
私はアームチェアから立ち上がり、彼の前に膝をついた。
「ジョーヌ、私を見なさい」
声をかけるが、彼の虚ろな瞳は私を通り抜けて、存在しないステージの闇を見つめている。
私は躊躇わず、彼の細い手首を掴んだ。そのまま、私の魔力を彼の回路へと直接流し込む。無理矢理に記憶を遮断するのではない。冷たく、静かな魔力の膜で、彼の暴走する感情の回路を優しく包み込んでいく。
「……ぁ、あ……」
数分後、ようやく彼の瞳に焦点が戻ってきた。笑い声が止まり、ただの荒い息遣いだけが残る。
ジョーヌは自分が主人の手首を固く握りしめていることに気づき、弾かれたように手を離した。
「あ……ごめんなさい、主人様。僕、また……」
「いい。部屋で少し休むといい。ノワール、彼を」
影から音もなく現れたノワールが、ジョーヌの細い肩をそっと支えた。ジョーヌはまだ、笑顔以外の形を作れない口元を歪めながら、俯いて部屋へと連れられていった。
一方、アズールもまた、別の意味で「のんびり」することを知らなかった。
彼女の身体からは毒が抜けつつあったが、長年『聖女』として他者のために身を捧げ、毒を煽り続けてきた精神は、何もしないという状態に耐えられないようだった。
「主人様、何か、お仕事はありませんか」
午後、書斎で書類に目を通していると、アズールが静かに扉を開けて入ってきた。淡い水色のドレスを着た彼女は、一見すると落ち着いているように見えるが、その指先はドレスの裾をきつく握りしめている。
「今日、私はまだ何もしていません。これでは、ここにいる意味が……」
「アズール、君の今の仕事は、身体を休めることだよ。ヴィオレットと庭を散歩してきなさい」
「散歩、ですか……?」
彼女は困惑したように首を傾げた。彼女にとって、行動にはすべて「誰かを救う」か「実験の糧になる」という明確な対価が必要だったのだ。
ただ歩く、ただ花を眺めるという無駄な時間が、彼女を不安に陥らせていた。
「私は、毒を飲まなくて良いのですか? ここには、浄化が必要なものはありませんか?」
真剣な、どこまでも純粋な瞳でそう問われ、私は小さく息を吐いた。
「ここには君が飲むべき毒はないし、君が命を削って救わなければならない信者もいない」
「……ですが」
「私は『聖女』が欲しくて、君を買ったわけではないよ」
アズールはショックを受けたように、唇を微かに震わせた。
捧げるものを持たない自分には、価値がない。彼女の張り付いた微笑みが、急にひび割れたように頼りなく見えた。
その日の夜。居間には重苦しい空気が漂っていた。
ジョーヌは部屋から戻ってきたものの、またいつフラッシュバックが起きるか分からない恐怖からか、部屋の隅で膝を抱えて硬直している。アズールはソファーに浅く腰掛け、自分の存在理由を見失ったような虚ろな顔で、ただ絨毯の一点を見つめていた。
せっかくの美しい二輪が、我が家に馴染むどころか、自らの重圧で萎れていく。
ブランが心配そうに私を見つめ、ヴィオレットはアズールのために淹れたハーブティーを、どう渡すべきか迷って佇んでいた。
「……ルージュ」
私は、暖炉の脇で腕を組んでいた赤色に声をかけた。
「はい、なんでしょうか」
「ジョーヌを、明日の薪割りに連れていきなさい」
ジョーヌがびくりと肩を揺らした。ルージュは怪訝そうに眉を寄せたが、私の意図を察したのか、ふんと鼻を鳴らした。
「……そんな体力は無さそうですが」
「できなければ、ただ見ていさせるだけでいい。……それからヴィオレット。アズールには、温室の薬草の水やりを任せよう。彼女には『役割』が必要だ。ただし、一日に一鉢だけ。それ以上は君が止めなさい」
「わかりました、主人様。アズール、明日一緒に温室に行こうね」
ヴィオレットが優しく声をかけると、アズールは「役割」という言葉に救われたように、ほんの少しだけ瞳に生気を宿らせて頷いた。
私は、相変わらず部屋の隅で、笑顔のまま怯えているジョーヌの前に歩み寄った。
「明日、ルージュの手伝いをして、もし疲れたら、床に大の字になって眠るといい。私への謝罪も、感謝も、全て後回しで構わない」
ジョーヌの口元が、微かに戦慄いた。笑い以外の形を作ろうとして、けれどやっぱり作れなくて、彼はただ、ぎゅっと目を閉じた。
まだ、彼らの「根」は、この家の土壌に届いてすらいない。
無理にのんびりさせようとするのもまた、彼らにとっては酷な要求なのだ。
私は冷めかけた紅茶を飲み干し、静かに目を閉じる二人の横顔を見つめた。
この不完全で、ひどく騒がしい夜を、一つずつ紐解いていくしかない。
「明日は、少し早起きをしよう」
私の言葉に、ノワールの黒い花が、夜の闇に溶けるような深い香気で、静かに応えた。
翌朝、我が家の庭と温室では、奇妙な「訓練」が始まっていた。
燦々と降り注ぐ朝陽の中、裏庭からはルージュが薪を割る規則正しい音が響いている。
その少し離れたところで、ジョーヌはぽつんと立ち尽くしていた。深い黄金色のシャツを泥で汚さないよう、おがくずの舞う庭で、彼は所在なげに指先を弄んでいる。
「おい、ジョーヌ」
ルージュが重い斧を軽々と振り下ろし、一本の丸太を綺麗に真っ二つにした。鋭い衝撃音が響くたび、ジョーヌの肩が小さく跳ね上がる。
「は、はい……っ! 何か、僕にできることは、あはは、何でも言ってください……っ!」
いつもの歪な笑顔を張り付かせようとするジョーヌに、ルージュは手袋をはめた手をぶっきらぼうに突き出した。
「座ってろ。お前の仕事は、そこで俺が薪を割るのを『のんびり』眺めることだ」
「え……?」
「主人様からの命令だ。ほら、そこにある冷めた茶でも飲んでいろ。とにかく、動くな」
ルージュはそれだけ言うと、また次の丸太に斧を向けた。
何かをしなければ捨てられる、役に立たなければ叩かれる。そんな恐怖の回路で生きてきたジョーヌにとって、「ただ座って見ていること」は、どんな重労働よりも過酷な拷問に等しかった。
彼は切り株の上で、まるで針のむしろに座らされているかのように、笑顔のままガタガタと震えていた。
一方、ガラス張りの温室では、アズールがヴィオレットに伴われて佇んでいた。
「アズール、今日のあなたのお仕事はこれね」
ヴィオレットが示したのは、棚の隅に置かれた、小さな青い花の鉢植えだった。
アズールは緊張した面持ちで、小さなじょうろを両手でしっかりと握りしめる。
「はい。この子に、私の魔力を……?」
「ううん、お水だけ」
ヴィオレットは自分の指先で、アズールの緊張のあまり白くなった指を優しく包んだ。
「ただのお水を、土が湿るくらいに、ゆーっくりあげるの。それでおしまい」
「それだけ……ですか? 私は、血を流さなくても良いのですか?」
アズールの穏やかな微笑みの奥から、悲痛な困惑が滲み出る。
「うん。それだけで大金星。ほら、ゆっくりね」
ヴィオレットに手を添えられながら、アズールは傾けたじょうろから細い水線を落とした。乾いた土が水を吸い、ふわりと濡れた土の匂いが立ち上る。
時間にして、わずか十秒足らず。
「……終わりました」
「うん、よくできました! じゃあ、今日のあなたのお仕事はこれでおしまい」
「え……?」
アズールは呆然と立ち尽くした。まだ一日が始まったばかりなのに、自分の役割が終わってしまった。彼女の淡い水色のドレスの胸元で、青い花が不安げに波打つ。
「あとの時間はね、私と一緒に、あのベンチで日向ぼっこをするの。それが二つ目の、一番難しいお仕事」
「日向ぼっこ、ですか……?」
アズールは、まるで未知の呪文を聞いたかのような顔で、ヴィオレットに引かれるまま温室のベンチへと腰を下ろした。
午後になり、私は居間の窓から二人の様子を観察していた。
庭のジョーヌは、相変わらず切り株の上で硬直している。しかし、数時間が経過し、ルージュが本当に自分を罵倒することも殴ることもないと理解し始めたのか、その張り付いた笑顔に、ほんの少しだけ「疲れ」の色が混じりはじめていた。
過剰に張り詰めさせられていた感情の弦が、疲労によって強制的に緩みかけているのだ。
温室のアズールは、ヴィオレットに肩を寄せられながら、ただ流れる雲を眺めていた。何もしない罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、差し込む陽気の温かさに、彼女の緑色の脈管が微かに弛緩していくのが分かった。
「……少しずつ、馴染ませるしかないな」
私が呟くと、背後に控えていたノワールが、静かに紅茶のカップを机に置いた。ノワールは何も言わず、ただその漆黒の花から、どこか誇らしげな、深い香気を漂わせた。
夕暮れ時。
居間に全員が集まった時、ジョーヌとアズールは、肉体的な疲労とは異なる、精神的な「困惑」でくたくたになっていた。
ブランが焼き上げたばかりのクッキーを大皿に乗せて運んでくる。甘いバターの香りが室内に満ちた。
「はい、ジョーヌもアズールも、今日の『お仕事』ご苦労様!」
ブランが二人の前にクッキーを差し出す。
ジョーヌはそれを見て、また口元をピクリと動かした。フラッシュバックの兆候――客への笑顔、謝罪の言葉が、彼の喉まで出かかっているのが分かった。
しかし、その時。彼の隣にどさりと座ったルージュが、ジョーヌの頭に大きな手をぽんと乗せた。
「こいつ、今日はただ座ってただけだぞ。まあ、命令通り動かなかった根性は認めてやろう。食え」
「あ……っ、は、はは……っ」
ジョーヌの口から、また歪な笑い声が漏れかけた。
けれど、ルージュの手のひらの容赦ない熱さと重みが、彼の暴走しそうな頭を現実へと繋ぎ止める。ジョーヌは、差し出されたクッキーを、震える指先でそっと摘み上げた。
アズールもまた、ヴィオレットに促されるまま、クッキーを小さく齧る。
サク、という軽い音が居間に響いた。
「甘い……ですか?」
アズールが不思議そうに呟いた。今まで彼女が口にしてきたものは、すべて苦い毒か、味のない培養液だけだったのだろう。
「うん、甘いでしょ? ブランのクッキーは世界一なんだから」
ヴィオレットが笑う。アズールはクッキーを見つめ、それから、今朝温室で水を吸い上げていた青い花の鉢植えを思い出した。
自分が血を流さなくても、この甘いお菓子はここに存在している。その事実に、彼女の張り付いた微笑みが、今度は本当に、ほんの少しだけ柔らかく解けた気がした。
ジョーヌはクッキーを口に運ぶと、笑顔のまま、ぽろぽろとまた涙を流し始めた。
その顔は、たしかに痛ましかった。しかし、美しい。私の審美眼は密かに沸き立っていた。
「おい、泣きながら笑うな」
ルージュが口を挟むが、その手はジョーヌの頭を撫でたままだ。
六色の花たちが、夕闇の迫る居間で、不揃いに揺れている。
のんびりする、という名の過酷な特訓。
彼らが本当の意味で「ただそこに咲く」ようになるまで、この奇妙な訓練は、まだまだ続きそうだった。




