第60話 店員と客
遅くなってすみません。
「何で俺はカウンターに座ってるんでしょうか……」
凪の話をする為に海斗は喫茶店に向かったが、流石に営業の邪魔は出来ない。
なので二十一時まで働き、その後話をしようと思ったのだが、何故か清二がすぐに店を閉めたのだ。
それだけでなく「取り敢えずどうぞ」と少々強引にカウンターへ座らせられている。
思わず疑問を口にすれば、清二が苦笑を零した。
「どうも深刻な悩みみたいだからね。そういう時は、一度落ち着くに限るんだよ」
「……そんなに顔に出てますか?」
「そりゃあもうバッチリと」
「そうですか……」
どうやら海斗は平静を取り繕えない程に、凪との会話を引き摺っているらしい。
こんな状況でバイトに入れば、店のイメージを悪くするだろう。
もしかすると、清二はそうさせない為に店を閉めたかもしれない。
情けない自分自身に重い溜息をつけば、清二が普段仕事をしている時の、人を包み込むような穏やかな笑みを浮かべた。
「さて、まずはご注文を窺いましょう。因みに、今日のお勧めはホットミルクです」
「……あの、清二さん?」
「ここでは『マスター』でお願いします」
「……」
悪戯っぽい笑みを返されて言葉に詰まりはしたものの、清二のしたい事は理解出来た。
カウンターに座ったのだから、海斗は客なのだと。清二は喫茶店のマスターなのだと。
そして清二へ相談や愚痴を言いに来る客のように、海斗も言えばいいと。
(ホント、敵わないな……)
おそらくは悩む海斗の心を少しでも解すために、気を遣ってくれたのだろう。
ならば、ここは甘えるべきだ。清二にとって本当に危険な話題の場合は、流石に取り繕わないだろうから。
こんな大人になりたいと、老人に理想の姿を示されて目の奥が熱くなった。
「ホットミルクで」
「かしこまりました」
短く応え、老人が厨房へ引っ込む。
すぐに温かいミルクが目の前に置かれ、一口だけ啜った。
蜂蜜を入れているのか、ほんのりと甘いミルクが海斗の胸を温め、口を開かせる。
「……ある人が、俺と触れ合おうとしてくれたんです」
「それは良い事なのではないでしょうか?」
「そう、ですね。でも、あの人が俺と触れ合う理由を作る為に、今までしなかった事をし始めたんです」
凪が何をしようとしたのか、遠回しな言葉でも老人は分かったはずだ。
なのに彼はワザとらしく驚いたような顔になる。
「良いではありませんか。それの何が問題なのですか?」
「あの人が頑張れば頑張る程、俺の役割が無くなっていったんですよ」
「成程、それが悩みですか?」
「いえ、これを正直に打ち明けたら、あの人は俺の居る理由を無理矢理作ってくれたんです」
家事や料理を出来るのにしなくなった。それも今までとは違い、海斗が家に来る理由を作る為に。
そんな行動をさせてしまった事が、あまりにも悲しい。
けれど海斗の胸に沸き上がった感情は、それだけではなかった。
凪の前では罪悪感が勝って必死に表情を取り繕ったが、もう彼女の家から離れたのだ。
老人の前でまで隠す必要はないと、顔を俯けながら口を開く。
「……勿論、申し訳なかった。でも、それ以上に嬉しかったんですよ」
「嬉しかった、とは?」
「俺にはまだ価値があるのだと、まだ必要とされているのだと分かって、です」
どんな建前があったとしても、凪が海斗を必要としてくれているのには変わらない。
だからこそ、凪の提案を受け入れる事しか出来なかった。
「最低ですよね。……俺は必要とされる為に、あの人の望みを壊してしまったんです」
はあと再び大きく息を吐き出し、テーブルへと視線を固定する。
老人は海斗の情けなさに呆れるだろうか、流石にマスターの仮面を投げ捨てるだろうか。
怒鳴られるのも覚悟で老人の言葉を待っていると「ふむ」と思案するような声が耳に届いた。
「それの何が問題なのですか?」
「……え?」
絶対に有り得ないと思っていた言葉を掛けられ、勢い良く顔を上げる。
皺の多い頬は、海斗の予想に反して柔らかく笑んでいた。
「お二人が納得の上で、君の居る理由を作ったのでしょう? ならば、それを誰が責められるのでしょうか」
「で、でも、もうお金をもらうような事じゃ――」
「そうかもしれません。ですが、それを『誰にも』話さなければいいだけでは?」
「――」
あくまでも老人は店員の態度を崩さず、海斗を客として扱う。
明らかにおかしい会話のはずなのに、彼は穏やかな光を瞳に湛えていた。
絶句する海斗へと、老人が茶目っ気たっぷりに笑む。
「誠実なのは美徳ですが、折角の高校生活なのですから、偶には悪い事をしてもいいかもしれませんよ?」
「いや、その……」
「なので私がお節介――いえ、お手伝いをしましょうか」
彼は海斗の言葉に耳を貸さず、楽し気に目を細めた。
澄んだ瞳の中には、海斗への信頼が未だに込められている。
「そんなにも君を大切にしてくれる『その子』の事を、君はどう思ってますか?」
「え。何で急に話が変わったんですか?」
「まあまあ、良いじゃありませんか。それで、どうですか?」
明らかに話を逸らされたが、どう見ても話を戻しそうにない。
とはいえ、次の話題も中々に海斗の頭を悩ませているものだ。
どうせここまで話したのだからと、自棄になりながら老人を見つめる。
「どう思っていても、どうせ俺じゃあ釣り合いませんよ。それくらい凄い人なんです。家柄も能力も、容姿も」
美桜に注意されはしたが、やはり海斗の心は変わらない。
肩を竦めれば、老人がふっと優し気に頬を緩める。
「人は違いがあって当たり前です。世間一般が決めつけるステータスで釣り合わないと判断するのは、その子に不誠実では?」
「不誠実って、そんな訳――」
「その子は君の事を憎からず想っているはずでしょう。そうでなければ、君と触れ合いたいと思わないはずですから。なのに、目を逸らすのですか?」
「……仮に。仮にあの人が俺に好意を抱いていたとして、ですよ」
「はい」
凪が海斗に自覚のない好意を抱いているのが、何故かバレていた。
背中を冷たい汗が伝い、頬が引き攣る。
何とか絞り出した言葉に、老人が微笑を浮かべながら頷いた。
「俺を信用してあの人のお世話を任せてくれた人からすれば、今の状況は許せないんじゃないでしょうか」
話題をすり替えているのは分かっている。
それでも、どうしても気になっていた事だ。
卑怯な手だと思いつつも本音を尋ねると、老人は一度大きく目を見開き、ふっと力のない笑みを零した。
「君を信頼して任せた人は、君がその子に好意を向けられる可能性も視野に入れていたと思いますよ」
「…………え?」
「だって、そうでもなければ女性のお世話係に男性をお願いしないでしょうから」
悪巧みが成功した子供のような笑顔を浮かべる老人。
その言葉の意味を理解し、驚きに思考が固まった。
「それで、いいんですか? あの人はお嬢様でしょう? 俺のような人は相応しくないのでは?」
「お嬢様に相応しい立場の人を選ぶ、というのは些か時代錯誤かと。まあ、そういうのが必要な時があるのも否定はしません」
「なら――」
「ですが、君を信頼した『彼』はその上で良しとした。……のだと思います」
海斗の家庭事情を知っているにも関わらず、老人は喫茶店のマスターの態度を崩さない。
それが「君が悩んでいるのはその程度の事かい?」と言っているような気がした。
清二に顔向け出来ないと悩んでいた海斗が馬鹿馬鹿しく思え、溜息と共に肩の力が抜ける。
「むしろ、問題は君の心だと思いますよ」
「俺、ですか?」
「はい。話が逸れましたが、再び質問しましょうか。……君は、その子の事をどう思っているのですか?」
ずっと逃げていた、答えを出しては駄目だと目を逸らしていた感情。
それに向き合えと告げられて、一瞬だけ呼吸が止まった。
「それ、は……。だから……」
「『彼』は君がその子から好意を向けられる可能性も考慮していた。そして、家柄は関係ない。能力や容姿に関しても、当人達が納得すればいいだけです」
容姿や能力を凪は気にしないだろう。むしろ、下手な事を言うと彼女は怒りそうだ。
そして立場に関しては、遠回しではあるがお墨付きをもらった。
逃げ場がなくなり、緊張に心臓の鼓動が早まる中、真っすぐに老人が海斗を見つめる。
「ならば、全てを取り払った君の感情はどうなのですか?」
「俺、は……」
「落ち着いて、ゆっくりと考えてください」
「は、い」
一口しか飲んでいなかったホットミルクを飲めと促され、温くなったそれで乾いた口の中を潤す。
目を閉じて心を落ち着かせ、ゆっくりと瞼を開けた。
「最初は、何だかイメージと違う人だなって思ったんです」
他人を拒絶するという噂の割にはきちんと話してくれたり、謝罪してくれる。
晩飯だけを届けるようになり、噂とは全然違う人だと分かった。
「深く知れば知るほど放っておけなくて」
不器用で、優しくて。必死に頑張っただろうに、それでも新しい親と仲を深められず。
天才が故に苦労し、容姿が孤児院の同年代の子と違い過ぎたが故に虐められた。
なのに彼女は決して他人を恨まず、それどころか自らを嫌うのだ。
支えてあげたいと思うのは、おかしな事だろうか。
「偶に見せる笑顔が可愛くて。俺にだけ見せてくれる幼い姿が可愛くて。もっとずっと一緒に居たいって思うようになったんです」
そこまで口にして、ようやく自らの想いに気付けた。
本当ならば、目の前の老人に伝えるべきなのだろう。
なのに彼や美桜に説得されても、凪に空っぽではないと言われても、海斗は自分の価値を認められない。
清二に様々な事を叩き込まれるまで、海斗は何も出来ない役立たずだったのだから。
「……でも、俺にはあの人の想いに応える資格がないんです」
みっともない海斗の言葉を聞き、呆れるのか、それとも怒るのか。
せめて視線は逸らさないようにしようと老人を見つめていると、彼がにこりと破顔した。
「なら本当にそうなのか、それを確かめる為にも、今の関係を続けてみてはどうでしょうか」
「いい、んですね?」
「さあ? 私はしがない喫茶店のマスターですから判断しかねます。しかし、君を信頼している『彼』なら同じ事を言うと思いますよ」
「……ありがとう、ございます」
わざとらしく惚ける老人に、深く頭を下げる。
少しだけ肩の荷が下りて力を抜けば「ですが」と彼が微笑みながら人差し指を立てた。
「ずっと、というのもどうかと思います。なので君が胸を張れるようになり、その子が自らの感情を自覚するまで、という期限付きになるでしょうね」
「……もしかして、何か聞いてます?」
「まさか。仮に、もしも、万が一。今まで恋愛感情を持たなかった人が居たなら、そう簡単に自覚はしないだろうなと思っただけですよ」
全てお見通しとばかりに笑みを深める老人に、溜息しか出てこない。
この人に追いつけるのはまだまだ先だろうなと思い知らされた。
目の前に置かれているミルクを飲み干し、立ち上がる。
「分かりました。……話を聞いていただき、ありがとうございました」
「いえいえ、これが私のやりたい事ですので。ああ、今日は特別サービスという事で、お代は結構ですよ」
「それじゃあ、お言葉に甘えて。ごちそうさまでした」
老人の「またのお越しを」という言葉を背に店を出た。
条件付きではあるものの、お世話係を続けていいと正式な許可をもらった事で、胸は随分と軽くなっている。
後は、凪と海斗の問題だ。
「……ありがとうございます、清二さん」
清二には見えないはずだが、それでも店の外で深く頭を下げる海斗だった。




