第59話 歪な関係の始まり
「……さて」
凪と微妙な空気になって家に帰った次の日。
彼女の言う通り、普段よりも早めに高級マンションに着いた。
昨日の帰り際の態度からするとクビにはされないだろうが、これから何が起きるのは全く想像が付かず、緊張に心臓の鼓動が早まっている。
「ここで悩んでても変わらないし、行くか」
家に来いと言われたからには、何かしらの事情があるはずだ。
ならばその事情を聞いてから後の事を判断すればいいと、エレベーターに乗って凪の家へ向かう。
鉄の扉を大切にしている鍵で開け、中に入った。
「お邪魔します」
「……いらっしゃい」
リビングから聞こえてきた声は少し小さく、凪がどんな感情を抱いているのか分からない。
どくどくと心臓の鼓動が鳴る中、スリッパに履き替えて声の元へと向かう。
薄い扉を開けて中の様子を窺えば、凄まじい光景が広がっていた。
「え、っと……」
海斗が普段から小まめに掃除し、昨日は凪の手で綺麗にされていたリビング。
なのに今の海斗の目に映るのは、荒らされたように散らかった部屋だった。
積まれてなどおらず、無造作に散らばった大量の本。
リビングからベランダへ続くガラス扉から見える、干されっぱなしの衣類。
そして、脱ぎ散らかされたパジャマや、明らかに引っ張り出したと思われる服。
昨日とのあまりの違いに固まっていると、ソファで膝を抱えている凪が海斗を見つめた。
アイスブルーの瞳が、期待と怯えの色に染まっている気がする。
「これで海斗のやる事が出来た。……でしょ?」
「そういう、事ですか……」
海斗が凪の家に来る理由を作るにはどうするか。
簡単な話だ。今までと同じ状況を作ればいい。
その為に、凪は海斗が帰ってから必死に部屋を散らかしたのだろう。
普通ならば有り得ない行為。怒られて当然の事。しかし、海斗が凪の家に来る意味は確かに出来た。
だからこそ、怒りではなく申し訳なさが沸き上がる。
「凪さんは、後悔しませんか?」
元々は凪が海斗に好意を抱き、頭を撫でてもらいたいと思った事からこの一件は始まったのだ。
なのに、彼女は自らの手で望みを壊した。
確認を取れば、凪が迷いなく首を縦に振る。
「うん。海斗が家に来てくれるのが一番。来てくれるなら、他はどうだっていい」
「でも――」
「本当にいいの。海斗が私をお世話してくれるのは変わらない。そうだよね?」
「…………そう、ですね」
きっと内心では、海斗に頭を撫でられたいに違いない。
しかし、それは許されない行為なのだ。少なくとも、海斗の手伝いをする事では叶えられなくなった。
ここに来る理由を与えてくれた凪に感謝したくはあるが、それよりも自らの気持ちを抑え込ませた事に、申し訳なさを覚える。
同時に、結局海斗は物乞い同然の行いをしてしまったという罪悪感も沸き上がった。
謝りたくはあったが、これ以上凪に心配を掛けさせては駄目だと、必死に表情を取り繕って頷く。
すると、端正な美貌に安堵の色が浮かんだ。
「なら、これからもよろしくね。海斗」
「こちらこそよろしくお願いします。でも、今日みたいなのはナシですからね」
これから毎日故意に部屋を散らかしていては、流石に凪の心が罪悪感で潰れてしまうだろう。
彼女の笑顔で少しだけ空気が軽くなり、微笑を浮かべて注意した。
流石にやり過ぎたと思っていたようで、凪がばつの悪そうな顔になる。
「う……。だって、最近は海斗が綺麗に片付けてたから……」
「分かってますよ。本当に、ありがとうございます」
「気にしないで、ね?」
「……はい」
海斗は凪のお世話係を辞める事すら考えていたのだ。
それを強引な方法で止めた事に、文句などあるはずがない。
深く頭を下げてお礼を言うが、返ってきたのは大人びた笑みだった。
「取り敢えず、部屋の掃除をしていいですか?」
「勿論」
凪がソファに座ったのを確認し、海斗は食材を冷蔵庫に放り込む。
それが終われば、散らかった部屋の掃除だ。
まずは衣類だと、ベランダに出て凪の下着を含む洗濯物を取り込んでいく。
これまでは少し頬を染めるだけだった凪だが、ちらりと横目で様子を窺えば、ジッと海斗を見つめて恥ずかしそうに身を縮めているのが見えた。
「……」
凪の視線は気になるものの、これが彼女が与えてくれた海斗の仕事だ。
そう思いながら視線を無視して手を動かし、洗濯物を取り込み終える。
勿論、取り込んだ後は放り出された他の服も併せて畳む作業だ。
早速取り掛かるが、これまでと同じ行為のはずなのに、どうにも落ち着かない。
その原因となっている少女が、ソファで膝を抱えた。
「うぅ……」
これまでの海斗は、凪に恋愛対象として見られていないのが分かっていたからこそ、羞恥を耐える事が出来ていたのだ。
しかし、どれほど本人が自覚しているかは分からないものの、今の凪は海斗を恋愛対象として見ている。
そんな凪の反応が、海斗の羞恥を今まで以上に沸き上がらせてしまう。
頬へと上がってくる熱を押し込め、服を何とか畳み終えた。
「……凪さんの部屋、入りますからね」
「分かっ、た」
凪の服は彼女の自室のクローゼットに収納しなければならない。
なので、どうしても凪の部屋に入る必要がある。
いつもなら確認など取らないのに、つい確認してしまった。
羞恥を押し込めたような声が耳に届いたので、なるべく凪を見ないようにして彼女の自室の前に移動する。
意を決して扉を開ければ、ふわりと甘い桃のような匂いがした。
「……っ」
心臓の鼓動は乱されるが、いつも嗅いでいたのである程度は慣れたはずの匂い。
しかし、今は容赦なく海斗の理性を揺さぶる。
「これはいつも通り。いつも通りの片付けなんだ」
自らに言い聞かせるように呟き、衣類を収納し終えた。
リビングだけ散らかせばいいと思っていたようで、凪の自室はベッドが多少乱れている程度だ。
流石に今の精神状態ではベッドを綺麗に出来そうになく、胸を撫で下ろしてすぐにリビングへ引き返す。
すると、凪は顔を真っ赤にして濡れた瞳で海斗を見つめていた。
「もう部屋には入りませんからね」
「……ん」
これ以上羞恥を感じる必要はないと示せば、凪の体から力が抜ける。
すぐに本を読み始めたので、海斗も逃げるようにキッチンへ向かった。
時刻を確認すれば、いつも晩飯を作り始める時間だ。
「よし、それじゃあ作りますか」
凪の手伝いは昨日限定であり、今日から再び海斗一人で調理する事になる。
とはいえ、今は凪の傍に居るのが気まずいので、気分転換にちょうどいい。
無心で手を動かし、米を炊いたりおかずの下拵えをしていく海斗だった。
「それじゃあ、またね」
晩飯で腹を膨らませ、片付けを終えれば、海斗は帰る事になる。
以前までなら凪の風呂の用意や制服の準備をついでにしていたが、流石に凪の羞恥が限界のようで「これからはいい」と断られた。
玄関から外に出れば、凪が淡く微笑んで海斗を送ってくれる。
また家に来ていいのだと、関係を切れさせたくないのだという思いに、胸が温かくなった。
「はい。また明日」
凪に言葉を返し、エレベーターへ向かう。
無機質な箱に身を滑らせ、思いきり息を吐きだした。
「……世話を、焼かせてくれたなぁ」
海斗が家に来る理由を作る為に部屋を片付けない凪と、それを分かっていて受け入れる海斗。
お互いの胸にどんな感情があろうと、この歪な関係は続いてゆく。
とはいえ、今回の件は流石に海斗と凪の間だけで閉じてはいけないだろう。
詳細を説明する必要はないかもしれないが、せめて海斗の醜い思いは隠さず伝えなければ。
その為に、すぐ近くの喫茶店へエレベーターを降りて足を踏み出すのだった。




