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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第22章 カエサルの過去 ~青年期Ⅳ~

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若い将官

朝の空気は、まだ屋敷の石に残っていた。

夜の冷えは、明るくなったからといってすぐには消えない。

権力の家も同じだ。

扉が開いても、昨日の決定はまだ冷たいまま残る。


出立は早かった。

早い出立は、追跡より先に距離を稼ぐためでもある。

同時に、屋敷の中で余計な口を増やさないためでもある。

送り出される者は、たいてい静かに送り出される。


門の内側には、昨夜と違う兵が立っていた。

だが視線は同じだった。

札を見る。

顔を見る。

顔の方を長く見る。

若い。

その事実だけは、どの所属札でも隠せない。


木札を見せる。

兵は頷く。

頷きは礼ではない。

通行の許可だ。

許されて通る側になったことが、昨日までとの違いだった。


門の外には、馬が三頭いた。

一頭はカエサル。

一頭はルフス。

もう一頭には荷と、ティロが乗る。

書簡。

水袋。

干し肉。

蝋板。

最小限。

最小限で行けという命令は、たいてい余計な助けは来ないという意味でもある。


手綱を確かめながら、ルフスが言った。


「護衛はなし」


地の文にすればそれだけだ。

だが実際の意味は多い。

信用が薄い。

目立たせたくない。

兵を割く余裕がない。

その全部だ。


ティロが鞍の紐を締めながら答えた。


「護衛がつけば、使者じゃなくて示威になります」


「示威でもいい場面はある」


ルフスが言う。


「今回は違う」


カエサルが言った。

「船を借りに行く。取り上げに行くには、まだ早い」


まだ。

その言葉を口にして、自分で少しだけ苦くなる。

力が足りない時、人は未来形で威を保つ。

若さはその癖が出やすい。


屋敷の奥から、昨夜の書記が出てくる。

眠っていない目だった。

書く仕事の人間は、眠っていても少し目が起きている。


書記は何も挨拶しない。

代わりに、小さな袋をティロへ渡した。

袋の中で金属が鳴る。

貨幣。

旅費。

賄賂。

あるいはそのどちらにもなる金だった。


「勘定は残せ」


書記が言う。


「残らない金は」


「あとで高くつく」


ティロが袋を受け取る。

受け取る手つきが静かだ。

だが、目の奥は早い。

何枚入っているか。

何日持つか。

何人黙らせられるか。

もう計算している。


書記は次にカエサルを見る。


「君は総督府の名で行く。だが、総督府の顔になるな」


矛盾に見える。

だが矛盾ではない。

名前は使え。

しかし、約束まで勝手に背負うな。

使者にはよくある種類の首輪だ。


「分かってる」


カエサルが言う。


書記は頷かない。

頷かないまま、最後の釘を刺す。


「若い貴族は、相手に軽く見られる」


「同時に、奥まで通されることもある」


「軽さを損で終えるな」


それだけ言って、書記は戻る。

背中が早い。

見送りではない。

処理済みの案件から離れる背中だった。


三人は動いた。

馬が石を鳴らす。

門を抜ける。

朝の街へ出る。

海の匂いはまだ薄い。

だが、港が近づくにつれて、空気の塩が舌に乗る。


道は完全には起きていなかった。

荷車が一台。

魚売りが二人。

船大工の見習いが木片を抱えて走っていく。

街は、軍より遅く目を覚ます。

戦は急ぐ。

生活は急げない。


港に近づくと、音が増える。

縄の擦れる音。

板を叩く音。

罵声。

波。

海鳥。

海の近くでは、どの音も少し荒い。

角が取れていない。

塩があるからだ。


船着き場の端に、総督府の印をつけた荷が積んであった。

それほど多くない。

彼らの便乗用だ。

これもまた扱いを示している。

厚遇ではない。

だが、切り捨てでもない。


ティロが荷札を確かめる。

手早い。

一つずつ見る。

紐。

封。

重さ。

数。

誰かに盗まれる前に、自分で把握する癖がある。


「足りてるか」


カエサルが訊く。


「足りません」


ティロが即答する。

「ただ、足りない前提の量です」


正しい答えだった。

十分な支度を寄越す者は、現場を知らない。

足りないと知ったうえで寄越す者は、現場に足りない分を埋めさせる。

テルムスは後者だ。


ルフスが海を見る。

海そのものではない。

船を見る。

水夫の足取り。

縄の扱い。

甲板の傾き。

壊れた船は、陸からでも少しだけ姿勢が悪い。


「これか」


ルフスが言った。


指した先の船は大きくない。

軍船でもない。

速さと荷の折衷だ。

交渉に行くには十分。

戦をするには足りない。

つまり、任務に見合っていた。


船主はすでに来ていた。

髭に塩が残っている。

朝飯を急いで食った口元だった。

総督府の印が入った木札を見ると、目が一度だけ細くなる。

嫌そうではない。

だが嬉しそうでもない。

役所の客は、船主にとってたいてい面倒だ。


「誰が責任者だ」


船主が言う。


カエサルが一歩出る。

船主の目が顔の高さで止まる。

そして年齢で止まる。

その一拍が、もう答えだった。


「俺だ」


カエサルが言う。


船主は、返事の前に木札を見た。

顔より札。

それが救いでもあり、侮りでもある。


「若いな」


まただ。

今日だけで何度目か分からない。

若いと言われるたび、自分の顔に貼り紙がある気がする。


「船は年を聞かない」


カエサルが言った。

「風と荷と、払う者を見る」


船主の口元が少しだけ動く。

試している。

それも答えだった。


「払うのは誰だ」


「勘定は総督府だ。だが、今は俺が持つ」


ティロが一歩だけ前に出て、袋をわずかに見せた。

見せすぎない。

だが空ではないと分かる程度には見せる。

金は、見せる量にも作法がある。


船主は鼻を鳴らした。


「いい従者を連れてる」


「使える奴を連れてる」


カエサルが返す。


ティロは何も言わない。

言わないが、悪くない顔をしていた。

従者にとって、主人の口が自分を正しく値踏みするのは珍しい。


乗船前の確認はすぐに終わらなかった。

終わらないのが普通だった。

桶の数。

水袋の口。

櫂の予備。

帆布の裂け。

船主は面倒そうにしながら、結局全部を見せる。

総督府の客は嫌だ。

だが、あとで難癖をつけられるのはもっと嫌なのだ。


その間、別の男たちがこちらを見ていた。

荷役。

船乗り。

港の顔役の手先。

どれか一つではない。

港にはいつも、見ているだけの者がいる。

仕事のために。

値付けのために。

売るために。


ルフスが小さく言った。


「もう顔を覚えられた」


「それでいい」


カエサルが言う。


「いいのか」


「隠れて動く任務じゃない」


本当は半分だけ本音だった。

完全に隠れることなどできない。

だから、見られる前提で損の少ない見え方を選ぶしかない。


船へ渡る板は細かった。

潮で少し滑る。

ティロが先に行こうとすると、ルフスが止めた。


「後だ」


「なぜです」


「落ちたら困る順だ」


短い。

だが正しい。

戦の前は、命の順番がむき出しになる。


先にルフス。

次にカエサル。

最後にティロ。

ティロは少し嫌そうな顔をした。

しかし言い返さなかった。

言い返せる理屈ではないからだ。


甲板は狭かった。

狭い場所では、人の性格も狭く出る。

邪魔だ。

早くしろ。

そこに置くな。

海の上では、言葉が角ばる。

落ちれば死ぬからだ。


カエサルは甲板の中央で一度止まる。

止まって、船の動きを足で測る。

まだ岸につながれている。

それでも少し揺れる。

陸の秩序とは違う。

海の秩序は、まず立つことから始まる。


船主が言う。


「出れば戻れんぞ。忘れ物はないな」


忘れ物。

その言葉で、屋敷の部屋が一瞬だけ頭をよぎる。

昨日までの逃亡生活。

名簿。

木札。

首輪。

保護。

どれも忘れ物ではない。

全部、持ったまま進むしかないものだった。


「ない」


カエサルが答える。


岸で縄が解かれる。

船がわずかに身をずらす。

岸から離れる時、いつもほんの少しだけ腹が空く。

地面が背中をやめるからだ。


港の建物がゆっくり退く。

石の積み。

倉庫。

見張り台。

総督府の印。

それらが少しずつ遠ざかる。

遠ざかるほど、後ろ盾が薄く見える。

だが現実には逆だ。

遠くにある名ほど、使い方で効く。


ティロが書簡の包みをもう一度確かめる。

二度目だ。

不安だからではない。

二度確かめる癖の人間なのだ。

そういう癖の人間は生き延びやすい。

だが周りを苛立たせもする。


「王宮宛て、港宛て、予備」


ティロが言う。

「順はどうします」


「王宮が先だ」


カエサルは答えた。

「総督府の名を正面に出す」


ルフスがすぐ言う。


「港の方が早い」


「早いが、あとで面倒になる」


「先に船を抑えた方が勝ちだ」


「王を飛ばして動けば、値が吊り上がる」


二人の言葉は、どちらも間違っていなかった。

速さは港。

筋は王宮。

筋を通して遅れると失う。

速さを取って筋を飛ばすと、あとで噛まれる。

どちらを選ぶかが、使者の値段だった。


ティロが間に言う。


「王宮へ名を通す。待たされる間に、港へ耳を入れる」


それが一番ましだった。

表と裏を分ける。

正面と下調べを同時に走らせる。

ティロらしい案だ。

きれいではない。

だが生き延びやすい。


カエサルは頷く。


「それで行く」


決める。

決めるのは早く。

直すのは遅くしない。

指揮の真似事をしていると、最近よくそう思う。

まだ本当の将ではない。

だが、決める癖だけは先に身につく。


風が帆を孕ませる。

船の腹が鳴る。

岸が少しずつ縮む。

陸は去る時、急には小さくならない。

だが戻るには思ったより遠い。

海は距離の感じ方を壊す。


しばらくして、船主が近づいてきた。

用がある歩き方だ。

用がある者は、狭い甲板でも迷わない。


「若い責任者殿」


船主が言う。

「一つ聞く」


「何だ」


「戦が長引くと思うか」


質問に見える。

だが本当は商売の探りだ。

長引けば船が要る。

船が要れば値が上がる。

船主はいつも、勝敗より需給を見る。


カエサルはすぐには答えなかった。

答えを盛ると、商人は匂いで嗅ぎ取る。

弱く言いすぎると、足元を見られる。

こういう問いは、正しさより歯ごたえが要る。


「短く終わるなら」


カエサルは言った。

「閣下は追加の船なんて求めていない」


船主の目が少しだけ細くなる。

納得ではない。

値踏みの継続だ。


「じゃあ、要るんだな」


「要る」


「どれだけ」


「お前が今、惜しいと思うだけ」


船主が笑った。

初めてだった。

大きくない笑い。

だが、さっきまでよりは人間の顔だった。


「口は若くないな」


「顔だけだ」


カエサルが言う。


船主は去る。

去り際に一度だけルフスを見る。

次にティロを見る。

最後にまたカエサルを見る。

三人を一組として覚えた目だった。


ルフスが言う。


「ようやく主人に見えたか」


「まだ半分だ」


カエサルは答える。

「向こう岸に着いてから、もう半分だ」


向こう岸。

ビテュニア。

王。

港の顔役。

供出。

値段。

噂。

紙の上では短い任務が、頭の中では枝を増やし始めていた。


ティロが海を見ながら言う。


「総督府付き。臨時任務従事者。書記補助。護衛従者」


「何だ」


「肩書きって、海に出ると少し弱く見えますね」


それは真理だった。

海の上では、札より船。

印章より風。

命令より波だ。

陸の権力は、海に来るといつも少しだけ足元が薄い。


「だから持ってくるんだ」


カエサルが言った。

「弱くなる場所に」


自分で言って、悪くないと思った。

強い場所で権力を振るうのは簡単だ。

弱くなる場所までそれを運べるか。

たぶん、テルムスが見ているのはそこでもある。


日が少し上がる。

海面の色が変わる。

朝の鉛色から、薄い銀へ。

海は同じ顔を長くしない。

それが人を安心させず、飽きさせもしない。


船尾に寄り、カエサルは遠ざかる岸を見た。

アジア属州の港。

総督府。

名簿。

面会簿。

書記。

士官。

若いと言われた声。

それらが全部、まだ耳の内側に残っている。


昨日まで、自分は門を開けてもらう側だった。

今日からは、門を開けさせに行く。

開かせる相手は、王だ。

その違いは大きい。

大きいが、まだ借り物だ。

借り物の権威をどこまで本物の仕事に変えられるか。

そこから先が、若い将官の値段になる。


ルフスが後ろで言った。


「顔が変わったな」


「そうか」


「少しだけな」


少しだけ。

その程度でよかった。

人は一日で別人にはならない。

だが、役目を持つと目つきは変わる。

それで十分な時もある。


ティロが書簡を抱え直す。

布越しに紙の角が分かる。

紙だ。

ただの紙。

だが、王宮の門を叩く。

港を動かす。

船を呼ぶ。

あるいは、全部失敗させる。

紙は軽い。

軽いくせに、いつも落とした時の音が重い。


船は進む。

戻る岸より、向かう岸の方がまだ見えない。

見えない方へ進む時、人はたいてい無口になる。

無口のまま、それぞれが自分の仕事を思う。


カエサルは思う。

これは使い走りだ。

その通りだ。

だが、使い走りにも格がある。

誰の名で走るか。

どこまで任されるか。

戻った時に、何を余分に持ち帰るか。

そこに差が出る。


二十歳。

若い。

何度も聞いた。

聞き飽きた。

だが、その若さで今、自分は総督府の命令を帯びて海を渡っている。

それもまた事実だった。


カエサルは帆を見上げた。

白ではない。

汚れた布だ。

塩も染みている。

風を受ける布は、美しくなくていい。

進ませればいい。

人も同じだ。


「ビテュニアへ」


カエサルが小さく言う。


誰に言ったわけでもない。

自分の中に置くための声だった。


船はそのまま東へ向かった。

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