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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第22章 カエサルの過去 ~青年期Ⅳ~

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名簿の内側

命令書の蝋は、まだ柔らかかった。

爪で押せば跡がつく。

跡がつくうちは、新しい。

新しい命令は、まだ誰の血も吸っていない。


書記に通された部屋は狭かった。

客を座らせる部屋ではない。

置く部屋だ。

人も、紙も、道具も。

一時的に置く。

必要が終われば移す。

そのための部屋だった。


壁に棚がある。

棚に蝋板がある。

蝋板に名がある。

名の横に用件がある。

用件の横に結果がある。

結果が残る場所は強い。

人は忘れる。

棚は忘れない。


ティロが一瞬だけ棚を見た。

見て、すぐに視線を落とす。

数える癖が出かけていた。

出しすぎれば危ない。

書き手が記録に興味を持ちすぎると、記録される側に回る。


ルフスは窓を見た。

窓の高さ。

格子の太さ。

中庭までの距離。

逃げ道ではない。

確認だ。

逃げる場所にいる者の確認は、いつも速い。


カエサルは立ったままだった。

座れと言われていない。

座っていい場所と、座るべきでない場所がある。

ここは後者だ。

内側に入ったばかりの人間が、空気より先に楽をすると、すぐ値が下がる。


扉が開く。

昨夜の書記ではない。

別の男だった。

年は若い。

若いが、机の前で年を取った目をしている。

男は蝋板を持っていた。

その持ち方に無駄がない。

無駄のない手は、他人の人生を短く扱える。


「伝える」


男が言った。

声も短い。

短い声は、説明より区分に向く。

人を分ける声だ。


「君は、閣下の保護下にある」


保護。

その言葉は柔らかい。

柔らかい言葉ほど、使う側が強い。


「同時に、閣下の任務下にある」


やはりそうだった。

守る。

その代わり使う。

昨夜の言葉が、別の口で制度になる。

制度になった瞬間、逃げ場が消える。


男は蝋板を机に置いた。

置いて、次を読む。


「ガイウス・ユリウス・カエサル」


自分の名が部屋で鳴る。

門前で名簿に記された時とは、少し違う。

今度は確認ではない。

配置だ。


「総督府付き、臨時任務従事者」


大きい名ではない。

だが軽くもない。

ただの嘆願者でもない。

ただの客でもない。

紙の上で、立場が生まれる。


男は目を上げた。


「若いな。だが、若いことは書かれない」


年齢は紙にない。

記録されるのは働きだけだ。

それは公正に見える。

公正に見えるだけで、容赦がない。


次にティロの名が読まれる。

少しだけ間があった。

間があるのは、名ではなく身分を見る間だ。


「ティロ。書記補助。カエサル付き」


ティロの喉がわずかに動く。

安堵ではない。

位置が定まる時、人は少しだけ息苦しくなる。

書記補助。

従者ではある。

だが、ただ荷を持つだけではない。

文字が役割になった。

それはティロにとって救いでもあり、鎖でもある。


最後にルフス。


「ルフス。護衛従者。同じくカエサル付き」


ルフスは何も言わない。

言わないが、肩の力がほんの少しだけ動いた。

剣を許されたわけではない。

だが、剣を持つ理由が公になった。


三人が紙の上で一組になる。

それが昨夜までとの違いだった。

逃げていた時は三人でいた。

今は三人で記されている。


男は続けた。


「今後、君らは私的な同行者ではない。総督府の任務に従う者だ」


言い換えれば、勝手に消えるな、ということだ。

内側に入った後の離脱は、外側にいた時より罪が重い。


ティロが低く訊いた。


「食糧と宿は」


男が即答する。


「最低限は出る。贅沢は出ない。借りも出ない」


いい返答だった。

最低限だけ出す。

恩ではなく運用だ。

恩義で縛るより、記録で縛る方が長持ちする。


ルフスが訊いた。


「武器は」


「登録済みのものだけ。抜いた理由まで問う」


ルフスの目がわずかに細くなる。

兵の世界では普通だ。

だが普通であることと、面倒でないことは別だ。


男は最後に、小さな木札を三つ置いた。

札は薄い。

薄いが、木目が細かい。

雑兵に配るものより少しましだ。

片面に印。

片面に略号。

総督府の所属を示すものだった。


「見せろと言われたら見せろ。見せる前に喋るな」


順番がある。

先に口が動く者は、しばしば損をする。

この世界では特にそうだ。


カエサルは木札を取った。

軽い。

軽い札が、昨日までよりずっと重く感じる。


「これで門は開くか」


カエサルが言った。


男は答えた。


「開く門もある。閉まる門もある」


その通りだった。

所属は、万能の鍵ではない。

どの扉に対して何の名を出すか。

それを間違えれば、追跡が早くなるだけだ。


男は蝋板を閉じた。

閉じる音が終わりを告げる。


「閣下は、君をすぐ使う。若い貴族は、顔が利く時は利く。そして、失敗した時の切り捨ても早い」


警告だった。

慰めではない。

この屋敷の親切は、全部こういう形をしている。


男が去ると、部屋は少しだけ静かになった。

静かになってから、ティロが息を吐く。

浅い息だ。

深く吐ける場所ではない。


「書記補助、か」


ティロが言う。


「不満か」


カエサルが訊く。


「逆だ。名前がないよりは、ずっといい」


それは本音だった。

名のない者は、消えても記録されない。

記録される者は、追える。

だが守りもされる。

どちらがいいかは、死ぬ場所による。


ルフスが札を指で弾いた。

乾いた音がした。


「従者、ね」


「嫌か」


今度はティロが訊いた。


「嫌じゃない。けど、肩書きは腹を膨らませない」


もっともだった。

札は食えない。

紙も食えない。

結局は次の任務を無事に越えるしかない。


昼を少し回った頃、再び呼ばれた。

今度は控えではない。

実務の部屋だ。


広い机。

地図。

重石。

紐で束ねた書簡。

海岸線に印。

湾に印。

島に印。

海図ではない。

任務の図だ。


テルムスはいなかった。

代わりに昨夜の書記と、軍務担当らしい年嵩の士官がいた。

士官はカエサルを見るなり、目を止めた。

止めた時間が少し長い。

若さを測っていた。


「この者か」


士官が言う。


書記が頷く。


「閣下が使うと言った」


士官は鼻で笑わない。

笑わない方が厄介だ。

露骨な軽蔑より、保留の方が長く残る。


机の上の一点を示して、書記が言った。


「ここがビテュニア。ここがレスボス」


海を挟んで向かい合う位置。

近い。

近いが、近いだけでは届かない。

海は近さを平等にしない。


「ミュティレネはまだ立っている。壁もある。港もある。海からの息もある」


海からの息。

補給だ。

逃げ道だ。

援軍の道だ。


書記が続ける。


「閣下は船を要る。すぐにだ。ビテュニア王ニコメデスから、供出を引き出す」


ティロの目が上がる。

ルフスは無言のまま地図を見る。

カエサルは動かない。

動かないが、胸の奥で一度だけ鼓動が強くなる。


王だ。

属州役人ではない。

顔役でもない。

王は、断る時も体裁を持つ。

体裁を崩さず断る相手は、面倒だ。


士官が言った。


「本来なら、年長の者を出したい。だが、年長の者は今ここで手が要る。そして君は、まだ誰にも癖を読まれていない」


若いことが、初めて利として言われた。

未熟ではなく、未定形。

それが使い道になる。


書記がカエサルを見る。


「行けるか」


問う形をしている。

実際は確認だ。

ここで無理ですと言えば、それで終わる。

終わるのは任務だけではない。

評価だ。


カエサルは答えた。


「行けます」


士官がすぐ刺す。


「王と話したことは」


「ない。だが、断る理由なら想像できます」


士官の目が細くなる。


「言ってみろ」


「船が減る。海賊に狙われる。費用が出る。王が譲ったと見える。だから、出す理由を作る必要がある。ローマのためではなく、王の損を減らすために」


部屋が一瞬だけ止まる。

士官は無表情のままだった。

だが否定はしない。


書記が言った。


「閣下も同じことを言った」


少しだけ、血が通う。

褒め言葉ではない。

だが遠くもない。


士官が地図を指で叩く。


「二十で王を口説くのか」


二十。

その言葉で、部屋の中に年齢が置かれる。

紙には書かれない。

だが人の口には出る。


カエサルは言った。


「二十だから、まだ切り売りされていない」


言ってから、自分で少しだけ過ぎたと思った。

若さの言葉だ。

若さは時々、正しいが磨かれていない。


しかし士官は怒らない。

代わりに小さく言った。


「口は回るな」


「回すために呼ばれたなら」


カエサルが返す。


今度は書記が口の端だけで息を漏らした。

笑いに近い。

近いが、笑いではない。


任務はその場で決まった。

ビテュニア行き。

同行は最小限。

速さを優先。

表向きは総督府の使者。

実際には、試験でもある。


書記が三通の書簡を用意した。

一つは王宮宛て。

一つは港の有力者宛て。

一つは予備。

予備の手紙がある時、たいてい何かがこじれる。


ティロがすぐに受け取る。

受け取る手つきが自然すぎる。

書記の目がそこで止まった。


「慣れているな」


書記が言う。


ティロは答えた。


「紙の方が、人よりまだずっと予測できる」


「人は裏切るからね」


ルフスが言った。


「紙も裏切るさ。だが、紙は癖が残る」


ティロのその言葉に、書記が初めて正面から彼を見た。

従者としてではない。

役に立つ部位として見た。


「なくすな。命令書は、剣より先に身分を切る」


ティロが頷く。


カエサルは地図から目を離さなかった。

レスボス。

ミュティレネ。

ビテュニア。

点と線だけの海が、もう人の顔に見え始めていた。


船を集める。

それだけではない。

誰がどれだけ渋るか。

誰がどんな条件を出すか。

誰がローマの名に従い、誰が値段を見るか。

それを見て戻れということだ。


テルムスは忙しい。

忙しい人間は、命令を短くする。

短くされた命令を、どこまで読めるか。

そこでも人は試される。


「いつ出る」


カエサルが言った。


「明朝。夜は出るな。夜は余計な目が動く」


余計な目。

追手か。

密偵か。

それとも総督府の中の確認か。

たぶん全部だった。


士官が最後に言う。


「功を立てろとは言わん。失敗するな」


それが一番重い。

功はなくてもいい。

失敗だけするな。

そう言われた任務は、たいてい難しい。


部屋を出ると、廊下の空気が少し乾いていた。

日が傾き始めている。

屋敷の中でさえ、時間は兵站のように流れる。


与えられた部屋に戻る途中、兵が二人すれ違った。

一人が札を見る。

もう一人がカエサルの顔を見る。

顔の方を長く見る。


若いからだ。

将軍の顔ではない。

亡命貴族の顔だ。

その認識を変えるには、紙では足りない。


部屋に入る。

扉を閉める。

そこで初めて、三人とも少しだけ肩を落とした。


ティロが書簡を布に包む。

包み方が二重だった。

水と視線の両方を避ける包み方だ。


ルフスは壁に背を預けたまま言う。


「若き将官様だな」


からかいではない。

確認だ。

肩書きがついたことの確認。


カエサルは答えない。

代わりに、木札を机に置いた。

小さい。

だが昨日までの自分にはなかった重さがある。


ティロが言う。


「将官、というほどではないけど。従者付きだ」


「それはそうだ。俺たちは、もう勝手についていく連中じゃない」


ルフスの言葉は、妙に正確だった。

総督府に記された随員だ。

書記補助。

護衛従者。

若い任務者付き。

名前は違っても、意味は同じだ。

三人は組にされた。


カエサルはようやく言った。


「使われる」


ティロとルフスが見る。


「使われるなら、使わせる。俺たちを使った方が得だと、そう思わせ続ける」


言葉にして、少しだけ形になる。

生き残り方の形だ。

立派ではない。

だが現実だ。


ルフスが短く言う。


「上等だ」


ティロは何も言わない。

言わない代わりに、机の上へ順に並べる。

木札。

命令書。

王宮宛て書簡。

港宛て書簡。

予備の書簡。

順番が、そのまま命の順番だった。


夕方の光が部屋に差し込む。

長い。

長い光は、旅立ちの前にはいつも少し冷たい。


カエサルは木札を取り上げた。

総督府の印を見る。

昨夜は首輪に見えた。

今も半分はそうだ。


もう半分は違う。

ただ逃げるだけの札ではない。

門を叩ける札だ。

命令を運べる札だ。

仕事の内側に入った証だ。


「明朝」


カエサルが言う。


「ビテュニアへ行く」


海はまだ見えない。

見えないが、近い。

海はいつも、地図の上から先に人を濡らす。

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