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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第21章 カエサルの過去 ~青年期Ⅲ~

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面会簿の刃

公邸の門は、石の色が濃かった。

濃い石は古い権威の色だ。

神殿の列柱より飾りは少ない。

その代わり、仕事の匂いが濃い。

蝋と粉とインク。

金属の匂い。

汗の匂い。

属州人の嘆願の匂い。


門前には護衛がいた。

lictor。

束ねた杖の束が、ただの飾りではないことを示している。

ここは剣の外側で剣が効く場所だ。

効くのは刃ではなく、命令だ。


カエサルたちは止められる。

止められるのが正しい。

止められない門は、すでに崩れている。


家人が出てきて言った。


「紹介状を」


ティロが紙を差し出す。

差し出す手が一瞬だけ硬い。

硬さは紙の重さだ。

紙が通貨になる瞬間は、いつも冷たい。


家人は宛名を見る。

署名を見る。

印章を見る。

定型句を見る。

余白を見る。

折り目を見る。

折り目の癖まで見る。

確認は丁寧だ。

丁寧な確認は、拒否の準備でもある。


しかし。

門は開いた。

前回まで頑なだった門が、紙一枚で開く。

開く音が歓迎に聞こえない。

分類の音だ。

面会できる種類の人間になっただけだ。


家人が言う。


「名前を」


その瞬間、小さな不安が胸に刺さる。

面会簿に載る。

記録が残る。

記録は追跡の糸になる。


ティロの視線が一瞬だけ揺れた。

揺れて、止まる。

止まった視線でカエサルを見る。

書くか。

書かないか。

書かなければ門が閉まる。

書けば糸が生まれる。


カエサルは頷いた。

頷くのは覚悟だ。

糸が生まれても歩く覚悟だ。


「……ガイウス・ユリウス・カエサル」

カエサルが言う。


書記が筆を走らせる。

走る筆の音が、鎖の音に似ている。

ティロは自分の名を口に出さない。

出さずに、添え物のように記される。

ルフスも同じだ。

三人の存在が紙の上で形になる。


門は閉まる。

閉まる音が、外の世界を遠ざける。

遠ざけるのに、安心は増えない。

内側の方が危険な時がある。



控室は人で詰まっていた。

嘆願者が並ぶ。

紙束が並ぶ。

声が渦巻く。

渦巻く声は、誰も救わない。

救うのは署名と印章だけだ。


訴訟。

徴税。

徴発。

借金。

人質。

家族の返還。

土地の差押え。

それらが同じ空気の中で順番を待っている。


泣いている者がいる。

怒鳴っている者がいる。

黙っている者がいる。

黙っている者が一番怖い。

黙っている者は、諦めではなく算段をしている。


ルフスが小声で言った。


「剣の匂いもする」

「でも」

「それ以上に」

「書類の匂いがきつい」


ティロが頷く。


「ここは剣じゃなくて」

「机で殺す」


カエサルは落ち着いた顔を作った。

作らないと、ここで弾かれる。

弾かれたら終わりだ。

終わりはいつも静かに来る。

門が閉まる音で終わる。


胸の奥では、鼓動が少し早い。

早い鼓動は誰にも見せない。

見せた瞬間に、値札をつけられる。



扉が開いた。

忙しい人間が入ってくる。

歩幅が短い。

短い歩幅は時間が足りない歩幅だ。

時間が足りない者ほど、まず要点を殴る。


テルムスだった。

目が乾いている。

乾いた目は感情では動かない。

仕事で動く。


テルムスは挨拶を切った。

最初の一撃が来る。


「誰の紹介だ」


ティロが即座に紹介状を差し出す。

差し出し方が正しい。

正しすぎて怖い。

書式が整いすぎると、逆に匂う。


テルムスは紙を一瞥して次を投げる。


「何を望む」


カエサルが答える。


「生きる場所を」

「働く場所を」

「与えてください」


テルムスの眉が一瞬だけ動く。

動きは小さい。

だが「お前は何か隠している」と言う動きだ。


「なぜここにいる」

テルムスが言った。


政治臭の有無を嗅ぐ質問だ。

ここでスッラと言うか。

言わないか。


カエサルは一拍だけ黙った。

黙った間に、テルムスは察する。

察しても言わせる。

言わせれば首輪が締まる。


カエサルは言った。


「ローマに戻れない事情がある」

「それで」

「アジアに来た」


テルムスは頷かない。

頷かずに次へ進む。

忙しい人間は納得を後回しにする。

後回しにすることで相手を縛る。



尋問が始まる。

テルムスは直球で試した。

質問は三つ。

三つだけで人を選別する。


「身分を言え」

テルムスが言う。


「家名」

「父の名」

「保護者」

「婚姻」


カエサルは答える。


「ユリウス」

「父はガイウス」

「母はアウレリア」

「妻はコルネリア」


コルネリアの名を言った瞬間、空気が少し変わる。

変わるのは警戒だ。

キンナの娘。

その縁はここまで届く。


テルムスは続けた。


「技能は」

「口だけか」

「手が動くか」


ティロが言う。


「ギリシャ語は」

「必要な程度に」


テルムスがすぐ刺す。


「命令を伝えられるか」

「書類を読めるか」

「人を動かせるか」


カエサルが答える。


「動かせます」

「少なくとも」

「自分の家を回した」


言った瞬間、己の中の嫌悪が少し疼く。

家を回した。

紙で。

断って。

会わないで。

その技術は生存の技術だ。


そして最後。

核心。


テルムスの声が少し低くなる。


「危険度を言え」

「君を置けば」

「ローマの政治がここに来るか」

「君の後ろに金はついてくるか」


追手の可能性。

そして金の追跡。

ここでは兵より金が速い。


カエサルは息を整えた。

整えてから答える。


「来る可能性はあります」

「だから」

「私は使われたい」


テルムスの目が細くなる。

使われたい。

それは保護を買う言葉だ。

買うなら代金が要る。

代金は命令だ。



その時。

テルムスの隣の書記が紹介状を見て一言言った。


「字が良すぎる」

「定型句が完璧すぎる」


ティロが一瞬固まる。

固まるのが見せ場の反転だ。

自慢が弱点になる瞬間だ。


カエサルがすぐに助ける。

助ける言葉は正義ではなく代償だ。


「整えた」

カエサルが言う。

「通すために必要だった」

「だが偽ってはいない」


テルムスが短く言う。


「整えた理由は」

「分かる」


分かる。

それは許しではない。

理解は条件になる。



ルフスは口を挟まない。

挟まないまま、控室の視線の動きを見る。

護衛の立ち位置。

書記の机。

扉の開閉。

誰が誰を数えているか。

ここでも売られる可能性がある。

安全そうな部屋ほど危ない。


ルフスがカエサルにだけ小声で言った。


「この部屋」

「安全じゃない」

「安全“そう”なだけだ」


その一言が、最後の一押しになる。

守られるには、外側にいない方がいい。

外側は売られる。

内側は使われる。


カエサルは言った。


「なら」

「俺はここで使われる側に回る」

「使われれば」

「守られる」


テルムスは即答した。

情ではなく条件だ。


「保護はする」

「だが私の仕事をすること」


「余計な手紙は書くな」

「名は貸す」

「だが勝手に振り回すな」


首輪が付く。

首輪は嫌だ。

だが首輪は生きるための輪でもある。


テルムスはすぐ命令を出す。

選択肢ではない。

仕事だ。


「ビテュニアへ行け」

テルムスが言う。

「船を集めろ」

「有力者と交渉しろ」


海だ。

また海だ。

次の危険がもう見える。

海賊。

徴発。

裏切り。

そしてローマ式の目。


ティロが息を吐く。

吐いた息が少し震える。

震えるのは恐怖ではない。

ようやく扉が開いた震えだ。


最後にテルムスではなく書記が、釘を刺した。


「君の名は面会簿に載った」

「……消す方法もある」


その言葉が柔らかいのに鋭い。

消す方法。

つまり消せるということ。

消すということは、消されるということ。


カエサルは理解した。

ここから先は逃げ道ではない。

組織の中を歩く道だ。

扉は開いた。

外より危険な内側へ。


カエサルは短く言った。


「承知した」


そして海へ向かう命令が、紙として渡された。

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