表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第21章 カエサルの過去 ~青年期Ⅲ~

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

258/273

海峡の門(ヘレスポントス)

嵐避けで入った港を出る。

船は島影から離れ、細い水の喉へ向かった。

潮の匂いが変わる。

海の匂いではない。

流れの匂いだ。

速い流れの匂い。


海峡が見えた瞬間、カエサルは「近い」と感じた。

岸が見える。

近い。

近いということは、逃げ場がないということだ。

海の上で逃げられるのは闇と距離だけだった。

ここには距離がない。

岸が両方ともこちらを見ている。


ルフスが港の出入りを見て言った。


「兵が多い」

「目が多い」


ティロが小声で返す。


「ここは道の終わりじゃない」

「帳簿の中心だ」


その言い方が嫌に正確だった。

港は人を迎える場所ではない。

仕分けする場所だ。

旅人は列を作らない。

荷と一緒に仕分けされる。


鎖が見える。

渡し場に張られた鎖だ。

秤が見える。

荷の計量。

印章が見える。

封蝋が並ぶ。

鉛札が光る。

並ぶ荷。

怒鳴られる船頭。

怒鳴られ方が、軍の怒鳴り方だ。


ここは海峡の門だ。

門は通る者を守らない。

門は通る者を数える。



検問は形式の顔をしていた。

形式の顔をしているほど、金を取る。

役人が机の前で腕を組み、声を張る。


「どこから来た」

「何を運ぶ」

「誰の許可だ」


カエサルは口を開かない。

開けば言葉に癖が出る。

癖は出自になる。

出自は札になる。


ティロが答える。


「嵐で流された」

「急ぎの用件だ」

「荷は少ない」


役人の目が荷を見る。

荷ではない。

三人の靴を見る。

傷を見る。

若さを見る。

若さは値札になる。


「書類」

役人が言った。

「通行文書を出せ」


ティロが紙を差し出す。

差し出した瞬間、役人はそれを長く握った。

握って離さない。

返さないことが交渉開始の合図だ。


「……印が弱いな」

役人が言う。

「日付が古い」

「保証がない」


言い方が前に会った税吏と同じだ。

不備は口実だ。

口実は罰金に変わる。

罰金は賄賂に変わる。


「罰金で済む」

役人が善意の顔で言った。

「今ならな」


ルフスが一歩近づいた。

近づき方が静かだ。

静かな一歩が、一番怖い。


役人の視線がルフスの肩へ滑る。

傷。

筋肉。

握り拳。

揉めたくない相手だと、目が先に理解する。


役人の声が少しだけ下がる。


「……少しでいい」


ティロが紙を取り返す。

取り返す動きが短い。

短い動きが、余計な言葉を切る。


「少し」

ティロが言う。

「いくら」


役人は額を言う。

高すぎない。

だが安くもない。

“ここまででいい”と見せる額だ。

ここから先は、名を取る。


カエサルは黙ったまま頷いた。

頷きが、金で済ませる合図になる。

金で済むなら払う。

だが名は残せない。



その時、港の空気がもう一段冷えた。

冷えた原因は風ではない。

足音だ。


足音が揃っている。

合図が短い。

視線が数える。

武装が統一されている。

ローマ式の護衛が視界に入った。


役人の態度が変わる。

変わり方が露骨だ。

背が低くなる。

声が柔らかくなる。

へりくだる。

つまり港の権威は彼ら側にある。


「閣下」

役人が言う。

「すぐに」

「すぐに手配を」


カエサルは即断しない。

追手か。

違うか。

どちらでも同じだ。

同種の危険がいる。

ローマの氷がここにも届いている。


ルフスが小声で言った。


「……嫌な歩き方だ」


ティロが答える。


「数える歩き方だ」



秤の前は混乱していた。

荷が積まれ、降ろされ、また積まれる。

封蝋が押され、鉛札が渡される。

役人の机に書状が溜まる。

溜まった紙は、誰かの命になる。


ティロが一歩だけ外れた。

外れ方が自然だ。

自然な外れ方は、逃亡の技術だ。

彼は秤の横、役人の机の端へ寄る。

寄った先で、護衛の一人が差し出した書状が見えた。

封蝋付き。

鉛札と一緒に束ねられている。


ティロは全部読まない。

読めない。

読む時間がない。

だが断片だけ盗む。

断片で十分に人は死ねる。


「逃亡中の若者」

「年齢……」

「黒髪」

「同行者二名」

「奴隷風の少年」

「武闘派の若者」

「行き先推定」

「アジア属州方面」

「見つけ次第拘束」

「または知らせよ」


署名の名がちらっと見える。

スッラ派の名だ。

名は氷だ。

氷は紙に乗ると速い。


ティロは視線を戻し、何もなかったふりで戻った。

戻る間、手は震えない。

震えない手が一番怖い。


カエサルの横へ来て、誰にも聞こえない声で言う。


「追われてる」

「噂じゃない」

「紙になってる」

「しかも」

「人数まで掴んでる」


カエサルの顔が一瞬だけ変わる。

変わって、すぐ戻る。

戻すのが家長の強さだ。

戻さないと、周囲が針になる。


ルフスが低く吐く。


「……やっぱり来たか」



越え方を決める。

選択肢は二つある。

正面突破。

賄賂で通す。

だが帳簿に残る。

帳簿に残れば、追手の紙と繋がる。


もう一つ。

夜渡し。

裏の小舟。

潮が速い。

密告がある。

船頭が裏切る。

だが帳簿に名が残らない。


カエサルは短く言った。


「夜だ」


ティロがすぐ聞く。


「危ないぞ」


「海が危険でも」

カエサルが言う。

「紙よりはましだ」

「金で済むなら払う」

「名が残るなら払わない」


ティロが頷く。

頷いて、賄賂の上限を頭の中で引く。

上限を引かない賄賂は破滅だ。

線を引けば、交渉ができる。


ルフスが言った。


「払った後に刺されない位置」

「俺が見る」

「船頭と船員の顔」

「逃げ道」

「全部」


三人は昼の港をやり過ごす。

やり過ごす間、目立たない。

目立たないのに、目は使う。

鎖の位置。

監視の癖。

役人の交代。

荷が減る時間。

灯りが増える時間。

灯りが減る時間。


夜はいつも、決裁の時間だ。



日が落ちる。

港の灯が点く。

灯が点くと影も増える。

影が増えると、抜け道も増える。

抜け道が増えると、裏切りも増える。


ルフスが低く言った。


「この先」

「アジアでも安全じゃない」

「ローマは金で届く」


励ましではない。

現実の宣告だ。


カエサルは短く返す。


「なら」

「先に金の流れを掴む」

「届くなら」

「届かせ方を選ぶ」


海峡の向こう岸の灯が見える。

近い。

近いのに遠い。

渡れば終わるわけではない。

渡っても、氷は追ってくる。


小舟が影から出る。

船頭の目が暗い。

暗い目は、嘘も飲む。


ティロが息を吸った。

吸った息が冷たい。

海峡の喉の冷たさだ。


三人は舟に乗り込む。

潮が速い。

狭い。

岸が見える。

逃げ場がない。


それでも渡る。

名を残さないために。

灯が近づく。

近づく灯が、次の危険の始まりに見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ