表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第21章 カエサルの過去 ~青年期Ⅲ~

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

259/274

アジア属州の匂い

港へ入った瞬間。

豊かさが、最初に殴ってくる。

荷の山。

樽。

麻袋。

香料の箱。

陶器。

金具。

それらが積まれ、降ろされ、また積まれる。


匂いが重なる。

松脂。

魚。

香料。

汗。

そして蝋と粉とインクの匂い。

公文書の匂いだ。

さらに、金の匂いが混ざる。

両替商の机。

銀貨を弾く音。

計算の速さ。

この街では金が走る。


エフェソス。

列柱が美しい。

神殿が眩しい。

眩しさの横で、徴税と訴訟と口利きが回っている。

美しさがあるからこそ、汚れが隠れる。


ティロが港の掲示板を見て小声で言った。


「ここは逃亡者に優しい土地じゃない。」

「名と保証人が通貨だ。」


ルフスは言葉でなく身体で察していた。

護衛が多い。

用心棒が多い。

縄張りの視線が多い。

視線が刺さる角度が、ローマより露骨だ。

露骨なのに誰も咎めない。

ここではそれが常識だ。


小さな火種がすぐに出る。

入港税。

荷役の手数料。

検査料。

通行料。

名目が多すぎる。

多すぎるということは、搾れるだけ搾る構造だ。


「……ここも税吏か」

ルフスが吐く。


ティロが頷く。


「税吏というより」

「仕組みだ」



宿は、港に近いのに高かった。

高いのに荒れている。

荒れているのに客が絶えない。

客が絶えない宿は、情報が溜まる宿だ。

情報が溜まる宿は、噂が売れる宿だ。

売れる噂は、危険だ。


その宿で。

彼らは仲介人に会った。

ギリシャ系の紹介屋。

口が上手い。

服が整っている。

目が軽い。

軽い目は、値段を先に見る目だ。


「旅の方々」

仲介人が言う。

「お困りでしょう」

「この街は」

「善意だけでは動きません」

「でも」

「値段表はあります」


値段表がある親切ほど、怖い。

親切が契約に変わるのが早いからだ。


仲介人は“常識”を教える口ぶりで言った。


「この街で重要人物に会うなら」

「紹介が要ります」


カエサルが黙って聞く。

黙って聞くのは無知だからではない。

相手の「次」を待っている。


仲介人は続けた。


「紹介がない者は」

「会えないのではありません」

「会ったことにされないのです」


ティロが息を吐く。

吐いた息が苦い。

言葉の意味が分かりすぎるからだ。


仲介人がにこやかに聞く。


「紹介状は?」


ティロの指が一瞬止まる。

止まるだけで答えになる。

ない。

それが確定する。


仲介人は驚かない。

驚かないのが商売の顔だ。


「なら」

仲介人が言う。

「あなた方は」

「この街では存在しません」


刃物を出さずに脅す。

脅しは剣より確実だ。

書類がないなら存在しない。

存在しない者は守られない。

守られない者は売られる。


ルフスが低く言った。


「……気に入らねえ」


仲介人は微笑む。


「お気に召さなくても」

「常識は変わりません」



その日のうちに。

三人は徴税所の前を通った。

通ったというより、立ち止まらされた。

人が集まっている。

泣き声が混じっている。

叫びが混じっている。

叫びは意味を持たない。

意味を持つのは紙だ。


税請負人が立っていた。

publicani。

ローマでも見た顔の種類だ。

だがここでは、もっと堂々としている。

ここはアジア属州だ。

金が太い。

太い金は、言葉も太くする。


代理人が蝋板を掲げる。

書記が読み上げる。

淡々と。

家族が泣いても、蝋板は泣かない。


「延滞」

「契約通り」

「差押え」


一人の男が土下座した。

土下座は美しい列柱の前では滑稽に見える。

滑稽に見えるほど、残酷が際立つ。


「待ってくれ!」

「子どもがいる!」


代理人は首を振らない。

首を振らない代わりに、書記へ目配せする。

目配せが裁決だ。


そこへ小さな袋が渡る。

袋が机の端で消える。

消えた瞬間、言葉が少し変わる。

期限が伸びる。

利息が増える。

助かったふりだけが生まれる。


贈賄が通貨のように動く。

勝敗が法ではなく口利きで決まる。

決まるのに、全員が「契約通り」と言う。

契約は神殿より強い。


カエサルは止められなかった。

剣なら止められる。

剣なら腕を折れば終わる。

だが契約は折れない。

折れないものが人を折る。


「……ここでは剣より契約が人を殺す。」

カエサルが小さく言った。


声は喧噪に溶けた。

溶けたのに、胸には残った。



夜。

宿へ戻る。

机がある。

椅子がある。

灯りがある。

それだけで安心できそうなのに、逆に怖い。

都市の灯りは、目が届く灯りだからだ。


ティロが言語化する。

言語化できるのがティロの強さだ。

言語化すると、敵が形になる。


「金がある」

「金で融資する」

「契約ができる」

「保証人が要る」

「訴訟で勝てる」

「差押えができる」


「追跡者は兵じゃない」

ティロが言う。

「噂と債務と紹介網だ」


ルフスが結論を刺す。


「ここでは」

「ローマは船で来ない」

「金で先に来る」


カエサルは頷いた。

頷きながら、海峡で見た“紙の追跡”を思い出す。

紙は海も越える。

金はもっと早い。



翌日。

三人はテルムスに会いに行った。

アジア属州で兵を求めているという名。

助けに見える名。

罠にも見える名。

それでも行くしかない。


屋敷の入口。

公邸のような構え。

門番がいる。

門番の顔は淡々としている。

淡々としているのは慣れているからだ。

断ることに慣れている顔だ。


「推薦は?」

門番が言う。

「誰の名で?」


ティロが喉を鳴らす。

答えがない喉の鳴りだ。


「面会簿に記載できない者は」

門番が言う。

「入れられない」


カエサルは一瞬だけ、名門の名を匂わせたくなる。

元老院の家。

ユリウス。

だがここでは効きが薄い。

現地の紹介者の署名の方が重い。


「用件は」

カエサルが言った。


「用件は書面で」

門番が即答する。

「ただし推薦者の署名が必要だ」


静かな敗北だった。

門が閉まる。

閉まる音が軽い。

軽いのに、重い。

剣で開ければ入れる。

だがそれは亡命者の自殺だ。


三人は門前から退いた。

退き方まで見られている気がした。

この街は目が多い。

目が多い場所では、敗北の形すら値になる。



宿へ戻ると、仲介人が待っていた。

待っているのが仕事の顔だ。


「お会いできませんでしたね」

仲介人が言う。

「当然です」

「紹介がないのですから」


ティロが睨む。

睨んでも、仲介人は笑う。

笑いは剣に切られない。


仲介人は救いの形をちらつかせた。


「紹介は作れます」

「だがタダではない」

「この街の紹介状は」

「紙ではなく取引です」


「いくらだ」

ルフスが聞く。


仲介人は値を言った。

金額だけではない。

危険な“荷”の匂いが混ざった言い方だ。


ティロの顔が強張る。

強張りが、詰みを示す。


ルフスは仲介人の背後を見る。

護衛がいる。

印章の袋が見える。

合図が短い。

筋がある。

ただの紹介屋ではない。


机の上に白い紙が置かれる。

紹介状の体裁だけは整っている。

署名がない。

無記名の紙は、今の三人そのものだった。


カエサルは紙を見た。

見て、短く言った。


「署名を得る」


何を差し出すか。

それが次の話になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ