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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第21章 カエサルの過去 ~青年期Ⅲ~

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海の裁判

冬の甲板は、海そのものの匂いがした。

潮の辛さ。

濡れた麻縄の酸。

松脂の甘い重さ。

吐き気を誘うワインの残り香。


波が高い。

船腹が持ち上がって落ちる。

落ちるたびに船板が軋む。

軋みが長いと、胃が先に折れる。


船員の機嫌は荒れていた。

荒れる理由は海だけではない。

冬は出航待ちが増える。

待ちが増えると金が詰まる。

金が詰まると怒りが増える。

怒りは弱いところへ落ちる。


カエサルは手すりを握っていた。

握る手が白くなる。

白くなっても吐き気は止まらない。

止まらないのに目は逸らさない。

逸らした瞬間に足が滑る。


ティロが肩を寄せて言った。


「吐きそうか」

「吐くな」

「吐くと余計きつい」


ルフスが短く笑った。


「お前、経験者みたいに言うな」

「経験者だよ」

ティロが言う。

「ローマから逃げて海まで来てんだぞ」


笑いは短い。

短い笑いが消えると、波の音だけが戻る。



叫び声が上がった。

甲板の下からだ。

金属が鳴る。

木箱が叩かれる音がする。

誰かが怒鳴り、誰かが泣きそうな声を出す。


船長の声が飛ぶ。


「何だ!」

「誰が騒いでる!」


返事は早い。

早い返事は恐怖の返事だ。


「盗まれた!」

「封印が破れてる!」

「賃金袋がない!」


次の瞬間、甲板の空気が変わった。

変わった空気は、潮より冷たい。

冷たい空気は人を殴りやすくする。


船員たちが上がってくる。

顔が赤い。

目が濁っている。

濁った目は、犯人を欲しがる目だ。


「ここにいる!」

誰かが叫ぶ。

「余所者だ!」


視線が走る。

走って、三人のところへ刺さる。

刺さる理由は簡単だ。

若い。

少ない。

知らない。

それだけで罪になる。


「密航だろ!」

「港で見た!」

「金がないから盗むんだ!」


拳が上がりかける。

上がりかけた拳の先に、ルフスが立った。


「やめろ」

ルフスが言う。

「殴っても金は戻らねえ」


「どけ!」

船員が言う。

「お前も仲間か!」


ルフスの肩が一瞬だけ硬くなる。

硬くなった瞬間に殴り合いが始まる。

始まれば海は揺れ、足が滑る。

滑れば誰かが落ちる。

落ちれば終わる。


ティロがカエサルを見る。

目だけで言う。

止めろ。

今だ。



カエサルは声を上げなかった。

上げない代わりに一歩前へ出た。

前へ出る位置が大事だ。

殴られる位置ではなく、皆が見ざるを得ない位置。


「待て」

カエサルが短く言った。


短い言葉は、剣より速い。

速い言葉は、場の呼吸を奪う。

奪われた呼吸の隙に、権威を置く。


カエサルは船長を見た。


「船長」

「ここはあなたの船だ」

「あなたの裁きが先だ」


船長は眉を寄せる。

寄せるが、否定しない。

船の上で唯一の権威は船長だ。

その権威を借りられる形にしてやれば、船長は立て直せる。


「……お前」

船長が言う。

「何者だ」


「旅人だ」

カエサルが言う。

「だが旅人でも」

「船の規律は分かる」


船長が唾を飲む。

飲んで、怒鳴った。


「全員、拳を下ろせ!」

「ここは甲板だ!」

「滑って死にたいのか!」


拳が下がる。

下がるが、視線は残る。

残った視線を、次にどこへ向けるかを決めれば勝てる。


カエサルは続けた。


「法廷にしろ」

「順番に話せ」

「証拠を出せ」

「殴るのは最後だ」


船員の何人かが鼻で笑う。

笑いは余裕ではない。

怖さを隠す笑いだ。


船長が言った。


「よし」

「言え」

「誰の袋だ」

「どこに置いた」

「誰が最後に見た」


船長の声が場を締める。

締まると、暴力は遅れる。

遅れた暴力は、証拠で抑えられる。



木箱が持ち出された。

封蝋が割れている。

割れ方が雑だ。

雑なのに急いだ割れ方ではない。

急いだ者の手ではない。


「これが賃金箱だ!」

「封印が破れてる!」


船員が叫ぶ。

叫びの中に、望みが混じる。

誰かが犯人であって欲しい望みだ。


ティロが一歩前へ出た。

前へ出る時、手が震えない。

震えないことが、ここでは武器になる。


「見せて」

ティロが言う。


船員が睨む。

睨むが、船長が顎をしゃくる。


「見せろ」

船長が言う。

「こいつは頭が動く」


ティロは封蝋を見る。

印章の形。

蝋の欠け方。

爪の跡。

布の結び目。

縄の撚り。


「これ」

ティロが言う。

「結び目が違う」


「何がだ!」

船員が怒鳴る。


ティロは淡々と言う。


「この結び方」

「帆を張る時の結びだ」

「荷の結びじゃない」

「荷の結びなら、ほどく方が早い」

「でもこれは、ほどくより切る」


船長が目を細める。

細めた目が、箱の縄を見る。


「……確かに」

船長が言う。

「帆方の結びに似てる」


書記がいない船でも、帳簿はある。

船の積荷表。

出航前の受け取り印。

船員への支払い控え。

それが粗い紙と蝋板で管理されている。


ティロが言う。


「賃金袋の数」

「誰にいくつ」

「昨日の夜に変わってないか」


船長が航海長に目配せする。

航海長が蝋板を持ってくる。

数字が並ぶ。

並び方が乱れている。

乱れているのに、最後だけ綺麗だ。

綺麗すぎる数字は嘘だ。


ティロが一瞥する。

一瞥で止める。


「合わない」

ティロが言う。

「ここ」

「一人分の印が二回ある」


航海長の顔が固まる。

固まる時間が長すぎる。

長い固まりは、答えだ。


「……間違いだ」

航海長が言う。


船長が声を落とす。


「誰の印だ」


航海長は答えない。

答えないのに喉が鳴る。



カエサルが口を開いた。

声は大きくない。

大きくないのに届く。


「動機を見ろ」

カエサルが言う。

「旅人が盗むなら」

「最初から逃げる」

「だが俺たちは船に残っている」


船員が鼻で笑う。


「逃げられないだけだ!」


カエサルは頷く。


「そうだ」

「逃げられない」

「だから盗む動機が薄い」


船員がざわつく。

ざわつきの向きが変わる。

変われば勝ちだ。


カエサルは続ける。


「盗んだ者は」

「逃げるためじゃない」

「ここに残るために盗んだ」

「冬の海で」

「船員が金を失えば」

「船は荒れる」

「荒れれば誰かが落ちる」

「落ちれば船長は責任を負う」

「責任が怖い者は」

「先に犯人を作りたくなる」


船員たちが黙る。

黙るのは納得ではない。

恐怖が言葉を奪う黙りだ。


「恐怖を使う盗みだ」

カエサルが言う。

「箱を破り」

「結び目を帆方に変え」

「帳簿に二重の印を作る」

「やったのは」

「船のやり方を知ってる者だ」


ティロが付け足す。


「港で雇われた手でもできる」

「でも帆方の結びは」

「毎日触ってる手の癖だ」


ルフスが一歩だけ横へ動く。

動いた先で、航海長の腰の袋を見る。

袋の口が僅かに膨らんでいる。

膨らみ方が銅貨だ。


ルフスは声を出さない。

出さない代わりに、視線だけを刺す。

刺された航海長の手が止まる。

止まった手が袋へ伸びない。

伸びないことで、逆に袋が目立つ。


船長が言った。


「航海長」

「袋を出せ」


航海長が笑う。

笑いが乾く。


「船長」

「冗談だ」


船長は笑わない。


「出せ」


袋が出される。

銅貨の音がする。

音が甲板に落ちる。

落ちた音が裁決の音になる。


航海長の顔が崩れた。

崩れた瞬間、叫びが出そうになる。

出る前に船長が吠える。


「黙れ!」

「ここは海の上だ!」

「暴れれば沈む!」


航海長は膝をついた。

膝をついて、言った。


「……すまない」

「家が」

「家が飢えてる」


それは言い訳だ。

だが言い訳は、犯人が犯人である証拠でもある。



暴動は止まった。

止まっただけだ。

許されたわけではない。

許しは陸でやる。

海では、まず沈まないことが正義だ。


船長が命じた。


「縛れ」

「島影までだ」

「陸で裁く」


縄が航海長の手首を縛る。

縛り方が早い。

早い縛りは慣れている縛りだ。

この船も、綺麗な船ではない。


その直後。

風が変わった。

変わり方が露骨だ。

帆が鳴る。

波が立つ。

船が大きく傾く。

傾いた瞬間、甲板の全員が黙る。


船は軋む。

軋みが悲鳴に近い。

悲鳴が長い。


船長が叫んだ。


「予定を外す!」

「島影へ!」

「舵を切れ!」


前方に黒い影が見えた。

島だ。

インブロスの影だ。

海峡に近い島影が、冬の風を一度受け止める。


カエサルは手すりを握り直した。

握り直しながら、さっきの裁判を思い出す。

法に見せて止めたのは海だ。

だが次に止めるべきものは、陸にもある。


ティロが小声で言った。


「助かったな」

「海が先に壊れなくて」


ルフスが吐く。


「でも」

「また港だ」


港は安全ではない。

港は噂が濃い。

噂が濃い場所で、三人はまた薄くならなければならない。


島影が近づく。

星が消える。

代わりに、陸の匂いが少しだけ混じった。

裁判は終わった。

だが冬の海は、まだ終わらなかった。

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