ネアポリスの船
冬の港は、匂いが重い。
松脂。
濡れた麻縄。
塩。
魚。
ワインの酸。
煙。
それらが混ざって、喉の奥に張りつく。
ネアポリスの港は騒がしい。
帆桁が鳴る。
鎖が鳴る。
荷車が軋む。
叫び声が飛ぶ。
ギリシャ語とラテン語が混ざり、混ざったまま値段になる。
波が高い。
風が冷たい。
出航待ちが多い。
船員の機嫌が悪い。
迷信も増える。
護符を結ぶ者。
塩を撒く者。
神の名を繰り返す者。
冬の海は、船より先に心を試す。
カエサルたちは港へ入った。
入った瞬間に分かる。
船はあるのに出ない。
出ないのに人は溜まる。
溜まった人は苛立つ。
苛立ちは値札を釣り上げる。
「相場、倍だな」
ルフスが言う。
ティロが頷く。
「倍じゃ済まない」
「三倍もある」
カエサルは金袋を指で押さえた。
軽い。
軽いことが恐ろしい。
金が尽きる恐怖は、剣より現実的だ。
追手は避けられるかもしれない。
空腹は避けられない。
「ここで決める」
カエサルが言う。
「決められなきゃ」
「冬が俺たちを殺す」
*
船主を探す。
沿岸輸送の中型船。
穀物。
ワイン樽。
空荷が目に見える船がある。
空荷がある船ほど、値段の言い方が上手い。
そこへ、親切すぎる男が寄ってきた。
身なりが整っている。
笑顔が早い。
早い笑顔は、港では罠になりやすい。
「旅の方々ですな」
男が言う。
「どちらへ」
「人数は」
「荷物は」
「言葉は」
「出自は」
質問が多い。
多い質問は、価格交渉ではない。
身元確認だ。
ティロが一歩前へ出る。
「行き先は東」
「人数は三」
「荷は少ない」
男の目が荷へ滑る。
靴へ。
手の荒れへ。
肩の傷へ。
旅人を値札でなく“札”として見ている目だ。
ティロは小声でカエサルに言った。
「これ、値段の話じゃない」
「身元の話だ」
ルフスが男の後ろを見る。
軍用に徴発されそうな船が並ぶ区域がある。
そこだけ、合図が短い。
歩き方が揃っている。
港にもローマ式が染みている。
カエサルは頷いた。
頷き方で、ティロに任せる合図を出す。
口を挟まない。
挟めば言葉が漏れる。
漏れれば、名が漏れる。
*
船主は冬の海のせいにして値を吊り上げる。
「嵐が来る」
「船員が嫌がる」
「税が上がる」
「保険が必要だ」
理由はどれもそれっぽい。
それっぽい理由は、港の通貨だ。
提示された額は高い。
高いが、払えないほどではない。
払えないほどではないのが一番危ない。
払えば次がない。
払わなければ今がない。
ルフスが言う。
「無理だ」
船主は肩をすくめる。
「なら他へ」
「冬の港は選べませんよ」
交渉が決裂しかける。
その瞬間、港の風が冷たく刺さる。
刺さる冷たさが、時間を削る。
ティロはそこで、逆に言った。
「あなたは今」
「客が欲しいんじゃない」
「利益が欲しいんだ」
船主の目が少しだけ細くなる。
図星を刺される目だ。
「利益?」
船主が言う。
「旅人を乗せれば利益だ」
ティロは首を振る。
「旅人は揉める」
「旅人は売れる」
「だから港で疑われる」
「疑われると、船が止まる」
「止まると利益が消える」
船主の笑顔が薄くなる。
薄くなるほど、本音が近い。
ティロは続けた。
「空荷がある」
「あなたの船は」
「空荷を埋めればいい」
船主の視線が、自分の船の腹へ一瞬滑る。
空いている場所を見た。
見たくない場所を見た目だ。
ティロは淡々と言う。
「小さくて」
「高く売れる積荷」
「薬草でも」
「染料でも」
「紙でも」
「金具でも」
「何でもいい」
「俺たちが手伝う」
「積荷の口をつける」
「あなたは」
「旅人を売るより確実に」
「空荷で稼げる」
船主の顔が変わる。
変わるのは、欲が計算に変わった顔だ。
計算になると、話ができる。
カエサルは口を挟まない。
挟まないことで、ティロへの信頼が形になる。
ティロはそれを背中で感じている。
だから声がさらに落ち着く。
*
船主は唸る。
唸って、落とし所を出す。
「……よし」
「乗せよう」
「だが条件がある」
条件。
冬の港の言葉だ。
条件は命綱にも首輪にもなる。
ティロはすぐに言った。
「紙に残す」
「証人を立てる」
船主が眉を上げる。
「紙?」
「紙」
ティロが言う。
「出航時刻」
「支払い方法」
「荷の扱い」
「席の位置」
「降ろす港」
「遅延の扱い」
「全部」
船主は笑おうとして、笑わない。
笑わないのは、面倒だと感じたからだ。
面倒は商人にとって損だ。
損は嫌う。
嫌うから、余計な条件を飲み込む。
ルフスは黙って立っている。
立ち方が、港の喧嘩の立ち方ではない。
一歩踏み込めば折れる距離の立ち方だ。
その沈黙が、紙より強い圧になる。
船主は咳払いを一つして言った。
「分かった」
「早く書け」
「証人は……おい」
「そこの酒場の主人」
主人が渋い顔で出てくる。
渋い顔は、巻き込まれた顔だ。
巻き込まれた顔ほど、証人には使える。
ティロは手早く書く。
文は短く。
曖昧さを減らす。
封蝋は船主に押させる。
押した封蝋の責任は、押した者に残る。
契約が成立する。
成立した瞬間だけ、港の騒音が少し遠くなる。
遠くなるのに、緊張は消えない。
消えない緊張は、冬の海のものだ。
*
出航直前。
港の空気が変わった。
変わり方が、風ではない。
足音だ。
足音が揃っている。
合図が短い。
視線が「数える」。
武装が統一されている。
ローマ式の護衛が現れた。
彼らがすぐにカエサルに気づく必要はない。
いるだけで港の温度が下がる。
船員が黙る。
縄を引く手が早くなる。
船主の顔色が変わる。
変わる顔色が、利益より恐怖を優先した色だ。
「……あれは」
ルフスが小声で言う。
ティロが答える。
「ローマ式だ」
「数えるやつらだ」
カエサルは港の喧騒を見た。
喧騒は続いている。
続いているのに、誰も目立った声を出さない。
出せば数えられるからだ。
船主が早口で言った。
「乗れ」
「今だ」
「風が変わる前に」
風が変わる。
冬の海の風か。
人間の風か。
どちらでも同じだ。
遅れれば沈む。
三人は船へ乗り込んだ。
船板が軋む。
松脂の匂いが濃い。
縄が湿っている。
波が高い。
次の渡海は、嵐だけではない。
人間の危険も抱えた海になる。
港に立つ揃った足音が、それを黙って告げていた。




