ギリシャ語の嘘
テッサロニケは大きい。
大きい街は、人の数で身を隠せる。
同時に、人の数で売られる。
密告は森より都市で育つ。
都市は匂いが濃い。
城門をくぐると、声の波が変わった。
ラテン語が薄くなる。
ギリシャ語が増える。
増え方が急で、耳が追いつかない。
追いつかない音が街を満たす。
カエサルは歩きながら、妙な感覚を覚えた。
言葉が変わると、自分が薄くなる。
名が薄くなる。
噂が届きにくくなる。
それは安心だ。
同時に、支えも薄くなる。
この街では、ユリウスという名も、キンナの縁も、ただの遠い噂だ。
守ってくれるものがない場所の自由は、少し冷たい。
「うるせえな」
ルフスが言う。
「でも、ローマよりマシか」
ティロが頷く。
「ローマより“音”がある」
「音がある場所は」
「誰かが混ざっても分かりにくい」
「分かりにくいのは」
ルフスが返す。
「俺たちもだろ」
三人は人の流れに紛れた。
紛れるのは得意になった。
得意になったことが、少し嫌だった。
*
昼。
市場の端の酒場。
人が多い。
商人が多い。
商人の会話は金と政治に寄っている。
税率の話が出る。
港の噂が出る。
誰がどこに軍を集めているかが、杯の上を滑る。
三人が隅の席に座ると、すぐに男が寄ってきた。
身なりが良い。
言葉が滑らかだ。
滑らかすぎる。
「旅の方々ですね」
男が言った。
「お疲れでしょう」
「この街は客に冷たくはありません」
「どうぞ」
自然に席を作る。
自然に杯を置く。
自然に奢る。
自然すぎる親切は、都市ではだいたい罠だ。
ルフスが目で言った。
うますぎる。
ティロも、杯に手を出さない。
出さないまま、男の指を見る。
指が柔らかい。
剣を握る指ではない。
金を数える指だ。
カエサルはあえて杯を取った。
取っても飲まない。
飲まないまま、男の顔を見た。
「親切だな」
カエサルが言う。
男は笑う。
「商いは縁です」
「縁は早い方がいい」
縁は早い方がいい。
その言い方が、押し売りの言い方でもある。
*
男は名を名乗った。
名乗り方が軽い。
軽い名は、捨てられる名だ。
「私はただの商人です」
男が言う。
「油と布を少し」
「そして情報を少し」
情報、と言った瞬間に、空気が少し固まった。
固まったのは三人ではない。
店主だ。
奥で杯を拭いていた店主の手が止まる。
止まって、また動く。
動きがぎこちない。
商人は質問を始める。
質問の形は雑談だ。
雑談の形で、刃を入れる。
「どちらから?」
「お一人ですか?」
「お若い」
「目的は?」
「この先は?」
「お金はどのくらい?」
遠回しに聞く。
遠回しに聞けば、逃げ道が残る。
逃げ道を残した質問ほど、答えた方が負ける。
ルフスが短く返す。
「南から」
商人は笑う。
「南は広い」
「イタリアの南も」
「マケドニアの南も」
ティロが口を挟む。
「商人なら」
「俺たちの出身より」
「何を買うかの方が気になるんじゃないか」
商人は両手を上げる。
「もちろん」
「しかし人を知れば」
「売り方も分かる」
ティロはその言葉より、視線を見た。
商人の目が荷へ滑る。
荷の布の結び目へ。
革袋の形へ。
靴の擦れへ。
旅人を荷物として見ている視線だ。
ルフスが低く言う。
「お前」
「質問、多いな」
商人は笑う。
「警戒は立派です」
「この街では」
「警戒が金を守る」
金を守る。
その言い方は、金を奪う側の言い方でもある。
*
カエサルは少しだけ沈黙した。
沈黙は答えを拒む方法だ。
拒むと同時に、相手を泳がせる。
泳がせる間に、カエサルは相手の言葉の癖を拾う。
ギリシャ語の発音が綺麗すぎる。
綺麗すぎる言葉は、練習された言葉だ。
生まれた街の言葉は、必ずどこかが崩れる。
カエサルはギリシャ語で問いを置いた。
「君の商いの相手は」
「この街の誰だ?」
短い質問。
短いのに、逃げ道が少ない。
逃げ道が少ない質問は、相手の本音を引きずり出す。
商人は一瞬だけ間を置いた。
置いてから、完璧な返答をした。
「私は誰とでも」
「神が与えた縁のある者と」
「公平に」
綺麗すぎた。
綺麗すぎる返答は、現実に当たると割れる。
公平に商う者が、最初から奢りはしない。
その瞬間。
宿の空気がさらに固まる。
店主が息を止めたのが分かる。
隣の客が、杯を置く音が一拍遅れる。
遅れが、危険を知らせる。
ティロは黙ったまま、商人の目を見た。
目が一度だけ動く。
動いた先は、出入口だ。
逃げ道の確認。
確認するのは、追う側ではなく追われる側の癖だ。
ルフスが椅子の脚を少し引いた。
引く音が、短い。
短い音が“終わり”の合図になる。
*
カエサルは笑った。
笑いは優しい形をしている。
優しい形のまま、刃を隠す。
「なるほど」
カエサルが言う。
「公平な商人は珍しい」
「今日は勉強になった」
「……では」
商人が言いかける。
カエサルは続けない。
「君は誰に雇われている?」とは詰めない。
詰めれば相手が暴れる。
暴れれば店が騒ぐ。
騒げば目が集まる。
目が集まれば名が生まれる。
名が生まれれば追手が来る。
だから切り上げる。
切り上げることが勝利だ。
ルフスが立つ。
立つ動作が大きすぎない。
でも小さすぎない。
小さすぎると逃げに見える。
大きすぎると喧嘩に見える。
その中間が、生活の強さだ。
商人は笑顔のまま去った。
去るのに目が笑っていない。
目がまだ計算している。
計算している目は、次の手を探している。
店主がようやく息を吐いた。
吐いた息が、店の中の温度を少し戻す。
ティロが小声で言った。
「罠だな」
ルフスが吐く。
「罠にしては丁寧すぎる」
「丁寧な罠は」
「一番やばい」
カエサルは頷く。
頷いても、足は止めない。
止めれば次の質問が飛ぶ。
質問は刃だ。
*
外へ出る直前。
商人が振り返って、まるで善意のように言った。
「助言を」
「アジア属州では」
「テルムスが兵を求めている」
「若い者にも仕事があるでしょう」
助けの形をした餌だった。
餌は食わせるためにある。
食わせれば釣れる。
釣られれば終わる。
ティロがカエサルを見る。
ルフスも見る。
二人とも同じ顔をしている。
行くのか。
行かないのか。
決めるのか。
カエサルは一拍だけ黙った。
黙ってから、言った。
「テルムス」
「覚えとく」
声が軽く聞こえる。
軽いのに、決める声の芯がある。
決めるのはまだ先だ。
だが「行き先」の輪郭が、初めて言葉になった。
テッサロニケのギリシャ語の波が背中で鳴る。
言葉が変わると、自分が薄くなる。
薄くなるのに、嘘は濃くなる。
濃い嘘の街で、三人は次の道を探し続けた。




