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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第21章 カエサルの過去 ~青年期Ⅲ~

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フィリッピの野営

フィリッピ近辺の道は、急に広くなる。

広くなるのに、安心は増えない。

軍道の交差は物流を呼ぶ。

物流は襲いやすさも呼ぶ。


丘があり、沼があり、藪がある。

乾いた高みと湿った低みが、同じ視界の中で切り替わる。

退路が分岐できる地形は、同時に追い詰められる地形でもある。


宿や村は軍に使われて疲弊していた。

麦袋の代わりに空樽が積まれている。

井戸の水は浅い。

住民の目は冷たい。

旅人は客ではなく負担として見られている。



古い野営跡が見えた。

溝が残っている。

土塁は崩れて線だけになっている。

杭の残骸が、折れた歯みたいに突き出している。

焼けた木が黒く立ち、雨で洗われた煤がまだ残る。


ここに軍がいた。

ここで眠り、ここで起き、ここで死んだ。

土の匂いが、それを今でも知っている。


カエサルは足を止めなかった。

止めないまま、土塁の線を目でなぞった。

溝の深さ。

土塁の角度。

杭の間隔。

この配置なら、どこに弓が立つか。

どこに死角ができるか。


「ここは守れる」

カエサルが言った。

「ここは殺される」


ティロが小声で返す。


「……またそういう目してる」


カエサルは答えず、地面を指で示した。


「溝の切れ目がある」

「逃げるならここだ」

「追うなら、追いにくい方へ誘導できる」


ルフスが眉を寄せる。


「お前、いつの間にそんなの覚えた」


「覚えたんじゃない」

カエサルが言う。

「見えるようになった」


言いながら、カエサルは自分の声の落ち着きに気づく。

落ち着きは強さにもなる。

落ち着きは冷たさにもなる。



しばらく進む。

道は広いままなのに、人影が薄い。

薄いのが不自然だった。

物流の道なら、荷車が一つ二つは見えるはずだ。


ルフスが低い声で言った。


「……変だ」

「鳥が鳴かない」

「道が空きすぎ」


ティロが荷を抱え直す。


「馬も落ち着かない」

ルフスが続ける。

「耳がずっと後ろ向いてる」


カエサルは歩幅を変えた。

速くはしない。

遅くもしない。

ただ、足の置き方を変える。

石の上を踏む。

ぬかるみを避ける。

滑れば終わる場所を避ける。


「止まる場所を選べ」

カエサルが言う。


ティロが頷く。


「止まるなら、溝の近く」

「背中に逃げ道がある」


ルフスが短く言う。


「来るな」



藪が揺れた。

揺れ方が獣の揺れではない。

揺れ方に手の意思がある。


男が一人、道の真ん中へ出てきた。

出てき方が丁寧だ。

丁寧なのに、目が濁っている。

濁った目は、飢えと疲れと恨みが混ざった目だ。


男は笑って頭を下げる。


「旅の方々」

「この辺りは危険です」

「通行税をいただきます」

「護衛料でもいい」

「あなた方のためです」


ローマ式の言い回しだった。

“あなた方のため”という言葉で金を取る。

それは税吏の口だ。

税吏の口を真似できるのは、かつて税吏に揉まれた兵か、兵に揉まれた税吏だ。


ティロが小声でカエサルに言う。


「兵崩れだ」

「言い方が、軍のそれ」


ルフスが男の背後を見る。

藪の影が二つ、三つ動く。

人数は少なくない。

少なくないのに、出てこない。

出てこないのは、こちらを試しているからだ。


カエサルは足を止めた。

止める位置を選んだ。

背後に溝。

片側に崩れた土塁。

もう片側にぬかるんだ沼地。

追うなら追いにくい。

囲むなら足が取られる。


「通行税だと言ったな」

カエサルが言う。


男は頷く。


「ええ」

「少しでいい」

「揉めたくはないでしょう」


カエサルは声を荒げない。

荒げれば相手が勝つ。

勝てば藪から全部出てくる。


「仲間を呼ぶな」

カエサルが言った。

「呼べばこちらは逃げる」

「追うなら、追いにくい場所へ行く」

「お前たちの足が先に折れる」


男の眉が一瞬だけ動く。

脅しの言葉ではないのに、脅しとして成立する言い方だった。

成立するのは、止まる位置が正しいからだ。


男は笑いを貼り付ける。


「賢いお方だ」

「では、いくら払いますか」


カエサルはティロに目で合図した。

ティロが荷を一つ、少しだけ前へ出す。

捨て荷だ。

交渉材料だ。


「食料を少し」

カエサルが言う。

「銅貨も少し」

「それで通す」


男が首を振る。


「足りません」

「この道は——」


「足りる」

カエサルが遮らないまま言う。

「足りないなら、今ここで藪から出ろ」

「出たら数えられる」

「数えられたら、お前は負ける」


ティロが淡々と付け足す。


「勝った気で行け」

「それが一番安い」


男の笑いが硬くなる。

硬い笑いは、決断の途中だ。



藪がもう一度揺れた。

一人が焦れて出かけた。

出かけた瞬間、ルフスが横へ回った。

回ったルフスの影が、男の視界の端に入る。

影が近い。

近いのに、音がない。


焦れた男が短剣に手をかけた。

その瞬間だけ暴力が生まれる。

生まれた暴力は、一瞬で潰すしかない。


ルフスが一歩で詰めて、腕を押さえ込んだ。

押さえ込み方が短い。

殴らない。

折らない。

ただ床へ落とす。


「動くな」

ルフスが低く言う。

「動いたら、次は折る」


焦れた男が唸る。

唸り声が藪へ漏れる。

藪の影が揺れる。

揺れるが、出てこない。

出てこないのは、代表がまだ交渉を続けたいからだ。


ティロが捨て荷を抱えて一歩下がる。

荷を守るために走る。

走るのは怖い。

走れば追われる。

でも走らなければ奪われる。


カエサルは代表の男だけを見る。

視線を散らさない。

散らすと、藪の数が増える。


「今のが合図だ」

カエサルが言った。

「お前が止めろ」

「止めれば、こちらも止める」


代表の男は短く息を吐いた。

吐いて、口元を歪めた。


「……いい」

「通行税だけでいい」

「食料と銅貨」

「今回だけだ」


カエサルは頷く。

頷いて、銅貨を少しだけ置く。

置く量は最小限。

最小限でも、相手に“勝った気”を与える量。


ティロが食料を投げ渡す。

投げ方が雑だ。

雑に見せることで、惜しくないふりをする。

惜しくないふりは、次の要求を防ぐ。


ルフスが押さえた男を放す。

放すのも短い。

長引かせると恨みが育つ。

恨みは追跡になる。


代表の男は笑って言った。


「いい旅を」

「ここは危険だからな」


危険を作っている口が、危険を警告する。

その矛盾が、兵崩れの匂いだった。



三人は通過した。

通過することが勝利だ。

勝利は血ではなく時間で測る。

時間を奪われなかったことが、今の勝ちだ。


去り際。

藪の中の一人が吐き捨てる声が聞こえた。


「ローマじゃ、名簿が始まる」

「名が書かれたら終わりだ」

「金があっても消える」


その言葉が、海の向こうから追いついてくる。

ここはマケドニアだ。

それでもローマの氷は届く。


カエサルは足を止めない。

止めないまま、崩れた土塁の線をもう一度だけ見た。

守れる場所。

殺される場所。

その見分けが、これから先の命綱になる。


ルフスが小声で言った。


「今の、勝ったのか」


ティロが答える。


「勝ったよ」

「戦わなかったから」


カエサルは頷いた。


「戦って勝つより」

「戦わずに通るほうが」

「今は強い。」


フィリッピの古い野営跡が、背後で沈んでいく。

焼けた木の黒が、夕暮れに溶ける。

その黒さが、戦の残り香だった。

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